概要
1年先輩である浜崎忠治(浜崎真二の弟)と仲間になり野球を始める。同学年の藤村富美男は呉市の隣の小学校で当時からのライバル。
鶴岡は広島商業学校(現:広島県立広島商業高等学校)に進学し、1931年に遊撃手として第8回選抜中等野球大会で全国制覇、1933年の第10回選抜大会はエース兼4番打者としてベスト4。
法政大学では1年からレギュラー出場、法政初の連覇に貢献するなど花形スター・主将として活躍。
1939年、大学卒業と共にプロ野球入団の「第1号」選手として南海軍に入団。この時代、プロスポーツは遊びで金を得る卑しい職業と見なされており、法大野球部OBからは「大学を出ておきながら野球芸人になるとは何事か」と反発があったが、「徴兵されたら生きて帰れるかわからない。だからそれまでは好きな野球を目一杯やりたい」と押し切った。
入団1年目にして主将に抜擢され、3番・三塁手として本塁打王(当時の日本記録である10本)も獲得、一躍スター選手になるも1940年に召集されて陸軍高射砲連隊へ入隊し、5年間従軍。
1944年、結婚。妻の家へ婿入りし、「山本一人」となる。
戦後の1946年に復員。29歳で監督就任を要請され、同年から1952年まで選手兼任監督。
戦後の混乱状態の中、野球のみならず選手の生活の面倒までを細やかに世話するなど「鶴岡親分」
と慕われた。また、「グラウンドにはゼニが落ちている。人が2倍練習してたら3倍やれ。3倍してたら4倍やれ。ゼニが欲しけりゃ練習せえ」のセリフも有名に。
(漫画『グラゼニ』の題名はここから取っている)
1949年には現在の育成枠の先駆けともいえる南海ファームを創設したり、1951年創設した南海土建野球部も近年増えるプロ二軍チームと社会人チームの交流試合の先駆けとなっている。
1952年限りで現役引退、以後監督業に専念。
1957年、最初の妻が死去。翌年再婚し、鶴岡姓に戻った。
1968年まで通算23年間にわたって指揮を執り、優勝通算11回、日本シリーズ制覇2回、同一球団の監督として指揮をとった期間は日本プロ野球史上最長、通算最多勝の1773勝(1140敗81分け)、最高勝率.609を記録。
選手の獲得、発掘に熱心でテスト生から野村克也、広瀬叔功らを発掘、無名選手を育て、大学のスター選手や優秀な外国人選手を入団させ、彼らを強い結束力で率いて常勝南海の時代を築いた。
この時に声をかけていた選手には、稲尾和久、長池徳士、張本勲といった後年のレジェンドも含まれており、そのスカウト眼の確かさが窺える。
なんとあの長嶋茂雄もスカウトしており、一時は南海に入団する予定だった。結局、周囲の反対で巨人に入ることになったが、もしかしたらON砲ではなく、長嶋・野村の「NN砲」が実現していたかもしれないのである。
また1960年頃から、各地区に常駐のスカウトを置き、各地の有力選手を積極的に獲得しようと考えたり、1954年に元新聞記者をプロ野球初の専属スコアラーとして採用しデータ野球を行う。これが球界の近代化に大きく寄与することになる。
1965年には正式に球団勇退を表明。しかし、後任として指名した蔭山和夫が精神安定剤のオーバードーズで急死。これを受けて鶴岡は急遽ホークス復帰を表明して、その後3年間監督を務めた。監督引退後は他球団からの監督要請を辞退し、1969年から死去するまでNHKの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家を務める一方、鶴岡は少年野球の国際交流にも尽力し、1967年にリトルホークス(現・ジュニアホークス)を創設。1970年本拠地を大阪球場とするボーイズリーグ創設にも尽力した。
野村との確執
中心選手である野村との確執は現在でも有名。両人とも鬼籍に入り、鶴岡が多くを語らず、野村が多くの著書で鶴岡に対する愛憎に満ち満ちた心境を吐露しており、真相を知ることは極めて困難なものになっている。一応、野村の繊細な性格を読み違えた鶴岡が同じくプライドが高く繊細な杉浦と違って厳しく、ときに無神経に突き放すような態度をとり、その行為のいくつかを自分に対する鶴岡の悪意と受け取った野村が拗らせてしまったというのが一般的な解釈である。
鶴岡自体は野村について語ることは少なかったが、少なくとも野球人としての功績とその取り組みは評価しており露骨な公私混同に出ることはなかった。
ただ、鶴岡自体選手の好き嫌いがはっきりと分かれる指導者で、好きな選手はとことんかわいがる一方で嫌いな選手は徹底して突き放す方針であったとする証言もある。
家族
1944年に最初の妻と結婚、山本に改姓した(婿入りではなかったが、舅から「姓だけでも同じにしてほしい」と懇願されたため、改姓している)。
1957年に妻が死去し、翌年再婚したことから、1959年のシーズンより鶴岡姓に戻っている。
長男(最初の妻の子)の鶴岡泰(山本泰)はPL学園や法政大学の監督、近鉄スカウトなどを務め、現在はマリナーズスカウトを務める。
次男の鶴岡秀樹はミズノ常務取締役。
この他最初の妻との間にもうけた長女を、1949年に事故により1歳7か月で亡くしている。