概要
1936年12月5日生まれ。東京都中野区出身。農家の息子(弟が一人いる)として育ったが、1941年、5歳の時に太平洋戦争が勃発。集団疎開に出発する日、33歳の母親が病死。また戦争に出征した父親は、終戦後もシベリア抑留され、しばらく帰ってこなかった。その為、祖母と幼い弟と3人暮らしをしていた幼少時代の榎本は、極貧に苦しむ事となる。
その様子としては……、
- 雨漏りを放っておくと屋根に穴が開き、寝室には雨が降ってきた。
- 畳には茸が生え、家の中で傘を差して立ったまま朝を迎えた日もあった。
- 電車に乗る事も出来ず、当時は近所を走る西武鉄道(現在の西武新宿線)に乗る事に憧れていたという。
- また食事でも肉を初めて口にしたのは中学生の頃で、それも牛肉や豚肉、鶏肉ではなくて赤蛙だった。
といったものだったという。
戦時下の1943年3月、近所の友人の姉に連れられて職業野球を後楽園球場へ観戦に行った事が、野球を始めたきっかけとなった。その際に球場の美しさと巨人の呉昌征・青田昇や大和軍の苅田久徳のプレーに強い印象を受けたという。空腹と寒暑に苦しむ極貧の日々の中で職業野球は榎本の唯一の希望となり、その後、「(自分や弟を苦労して親の代わりに育ててくれた)おばあちゃんを暖かい家に住まわせてやりたい」という強い意志から、プロ野球選手を目指す様になる(加えて、この考えが後の打撃への追及にも繋がってゆく)。
早稲田実業から1955年に毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)にテスト生として入団。当時毎日の監督であった別当薫や、選手兼任コーチであった西本幸雄はこの榎本のテストを見て「高校を出たばかりにして、既に何も手を加える必要のないバッティングフォームを持っている」(別当)、「榎本喜八の印象は強烈だった。打撃に天性のものがあった」(後年の西本の感想)と絶賛している(一方で打撃に拘っていた余り、榎本は守備(一塁手)の方は不得手であったが、同じく一塁手である西本は、榎本にポジションを奪われるかも知れない状況にもかかわらず、まるで将来を託すかの様に榎本に徹底して一塁手の守備を一から叩き込ませている。その甲斐あって榎本は後に守備面でもパリーグを代表する一塁手として成長した)。
高卒選手ながら1年目から一軍でプレーし、いきなり5番・ファーストとしてレギュラーを獲得した。
バットの芯で正確に球を捉え、打球を飛ばす(内野ゴロでも猛獣が飛び掛かって来る様な感じの打球であったとか、本塁打もライナー性が多く、捕ろうとしたファンが打球に直撃、負傷して病院送りになったというエピソードがある)さまから「安打製造機」の異名を持っていた稀代の天才打者。同時代を知る関係者からは川上哲治、王貞治を差し置いて「史上最高のバッター」と口を揃えて評される。
その打者としての評価も「勝負というより果たし合い(稲尾和久)」(因みに稲尾は榎本一人を攻略する為に5球限定としてのフォークボールを身に付けている)、「何投げても打たれる気がする(1959年にシーズン38勝《4敗》を挙げた時の杉浦忠)」など、異様さを物語るものが多い。
特に傑出していたのが選球眼で、数多く対戦した野村克也によれば「榎本はcm単位でストライクゾーンを把握していた」といい、後年も事あるごとに榎本以上に恐ろしいバッターはいないと語っている(加えて野村は得意とする「ささやき戦術」も榎本の前では彼の気迫に圧倒されてしまい、全くささやけなかった事も語っている)。
それでも王の記録を上回れなかったのは、王が力の抜きどころを知っていたのに対し際限なく打撃を高めようとしたあまり、肉体の衰えを知るとあっという間に心身の余裕を失ってしまうほどの繊細な精神にあったという。また、そんな繊細さ故に、ファンが浴びせてしまった心ないヤジを真に受けてしまい、へこんでしまう事もしばしばあったという。
1960年には首位打者のタイトルを獲得。オリオンズの主力選手として同年、リーグ優勝を果たした。1968年7月21日の対近鉄バファローズ戦ダブルヘッダー第1試合において2000安打を達成している。これは川上哲治、山内一弘(チームメイトだった時期がある。また、山内がオリオンズを「追い出され」てからも仲が良かった)に次いで3人目だった。 さらに、31歳7ヶ月での達成は日本プロ野球最年少記録であり、今なお破られていない(因みに巨人の坂本勇人がこの最年少記録に迫っていたが、おりしも新型コロナウイルスの影響で2020年のシーズン開幕が2ヶ月遅れてしまった為、更新される事は無かった《坂本は歴代2位の31歳10ヵ月での達成となり、右打者限定だと史上最年少である》)。
但し、この偉業を達成した直後の第2試合で近鉄の安井智規がセーフティバントを試みて一塁ベースに駆け込んだ際、その榎本と強く接触。二人とも口論から殴り合いに発展、その上これが発端となって両チーム全員が入り乱れての乱闘騒ぎが発生。揉み合っている際に榎本は近鉄の控え内野手の荒川俊三という選手(当然、榎本の恩師である荒川博氏とは何の関係も無い)に思いきりバットで頭を殴られ、意識を失って昏倒。担架で球場の医療室に搬送されるという災難に遭っている。
1972年に西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)にトレード移籍したが、代打での出場がメインになり、同年通算2314安打という成績を残し現役を引退。
打者としての輝かしい栄光の一方で、打撃に追求する余り、且つ精神的に脆く、繊細過ぎる所からかなりアナーキーな行動や奇行をやらかしまくったことでも悪名高かった。オールスター戦にてダッグアウトで座禅を組んで川上を困惑させたのはまだいい方、契約更改時でも自分の納得のいかない年俸を提示されると反抗の意を見せて7時間も球団事務所の椅子に座って瞑想に耽る、猟銃をもって意味のわからない事を叫びながら自宅に引き籠る(原因は当時のロッテの監督であり、水と油とも云うべき険悪な関係であった大沢啓二から二軍落ちを命じられたのが原因《更にこの二軍落ちになった経緯は、大沢の方針として榎本をレギュラーから外す様になった事に憤り、榎本が大沢が居た球場の医務室の窓ガラスをバットで思いきり叩き割って威嚇したのが原因である》。警察沙汰にもなっており、これを聞いた榎本の恩師である荒川博も榎本の自宅に駆けつけて『何を馬鹿な真似をやっているんだ、やめろ!!』と説得するも、榎本は『幾ら荒川さんでも、近付いたら撃つ!!』と叫び、天井に向けて威嚇発砲。これを見た荒川は『これは俺でもどうする事も出来ない』と思ってしまい、退散してしまったという)、と言う事件まで起こしてしまった(長らく都市伝説扱いだったが、榎本本人が晩年に「確かに俺そんなことやっちゃいました」と認めている)。
アスリートとしての素晴らしい素質を持ちながら、周囲を思い切り引かせてしまったり困惑させてしまう奇行を見せる辺りは某競走馬擬人化ゲームの彼女(モデルとなった競走馬の方もかなり奇行が多いが)とかなり共通するが、猟銃を持って立てこもったりバットで窓を叩き割る等の凶行を含む辺り、奇行の過激度、危険度、恐怖度としては榎本の方が断然上かも知れない。
現役引退後は自分の後継者を育てる夢を持っていたが、そのあまりに難解な打撃理論とイカれた言動のせいで敬遠され、ついにかなわなかった(加えていつでもコーチとして務められる様に体力作りをしていた事に、マスコミ等が「榎本が現役復帰を考えている」という噂を立てた為、コーチとしても何処の球団からも声をかけられる事が無かったという)。後年はアパート・駐車場経営で生活を営み、悠々自適な生活を楽しんでいた模様である。また、野球から一歩離れると、とても優しい父親であったと、彼の息子(榎本喜栄氏)は証言している。
2016年1月18日、ソフトバンクの工藤公康監督、元巨人の斎藤雅樹氏、バルセロナ五輪日本代表監督の山中正竹氏、元衆院議員の故松本瀧蔵氏と共に野球殿堂入りを果たした。
関連タグ
毎日オリオンズ/毎日大映オリオンズ/東京オリオンズ/ロッテオリオンズ 西鉄ライオンズ
坂本勇人(右バッターとして最も若く2000安打を達成した選手。榎本よりも早い最年少記録達成が期待されたもののCOVID-19の影響によるシーズン開幕の遅れもあり、一歩及ばなかった。)