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青田昇

あおたのぼる

青田 昇(1924年 - 1997年)は、兵庫県三木市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
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概要編集

愛称は「ジャジャ馬」。


尋常小学校時代は柔道を習っていたが高等小学校の時、野球に転向。

旧制瀧川中(現:滝川中学校・高等学校)入学当時は別所昭(のちの別所毅彦)の控え投手であったが、1940年に監督となった前川八郎(1912-2010、元東京巨人軍選手。戦後阪急軍で復帰したが引退、富士製鐵広畑(現:日本製鉄広畑)監督、巨人のスカウト部長、堀越高等学校の教師兼監督を務めた。)により、外野手へコンバート。同年と1941年の春の甲子園に出場。

1942年、戦況悪化に伴い甲子園大会が春夏ともに中止、同年7月に17歳で東京巨人軍に入団。


1942年の夏季リーグ戦は15打席で無安打だったが秋季リーグ戦では新人ながらリーグトップの打率.389を記録。

1943年、打率.223、本塁打0本の史上最低打率・本塁打ながら42打点で打点王のタイトルを獲得

1944年、巨人軍を退団し、自らの志願で陸軍航空隊に入隊。加古川戦闘隊に配属され、特攻隊にも志願するが結局出撃命令を受けることなく終戦。

1945年9月に終戦後いち早く勧誘があった阪急軍へ入団。当初は巨人に復帰する約束をしていたが終戦後の受け入れ態勢が整わず阪急に貸す形での入団だった。

1946年、野口二郎とクリーンナップを組んで三番を打ち、リーグ11位の打率.294を記録。

この年、20本塁打の日本記録(当時)を打ち立てた大下弘の影響を受け1947年には、打撃コーチのいない中で長距離打者への打法改造に取り組み、打率は.233と大きく落とす一方で、本塁打はリーグ3位の11本と記録を大幅に伸ばした。

1948年、三原脩総監督の誘いを受け巨人に復帰。上記の戦後間もないときの事情もあって1947年途中から阪急の指揮を執った浜崎真二と去就について相談したうえでの移籍だった。

1948年春の別府キャンプで青田・川上哲治千葉茂に三原を加えた4名で、旅館の地下室で連日バットを振りながら打撃の議論を行う夜の打撃研究会を敢行。この年当時のプロ野球記録となる25本を打って、川上と二人で本塁打王を分け合う。また打率も山本一人小鶴誠と僅差で争うが、.306で首位打者も獲得し二冠王となり、初めてのベストナイン外野手にも選出。

1950年、打率.332(リーグ3位)、33本塁打、134打点(リーグ4位)と打撃3部門全てでチームトップの成績を残し、二度目のベストナインを獲得。

1951年シーズンは打率.312(リーグ9位)ながら、32本塁打と105打点はリーグトップで二度目の二冠王となり、打率.377を打った川上と打撃三部門を独占。

1952年、打法改造が失敗から成績を落とし同年オフ、巨人は青田をトレードで広島カープに放出の話が出たがそれを蹴ってB級10年選手の資格を利用して1953年1月、洋松ロビンスに移籍。

1953年は元のフォームに戻すが成績は不振。1954年に入るとようやく復調の兆しを見せる。

1955年も好調を維持するも、8月23日の対阪神戦では3本塁打を放ちながら延長で死球を受け左手を骨折。

1956年は25本塁打、1957年は22本塁打と2年連続で本塁打王・ベストナイン外野手を獲得。

1958年、6月29日の対中日ドラゴンズ戦で二塁へ滑り込んだ際に左足首を骨折、全治3ヶ月の重傷。

この年のオフ自由契約となるが、新人時代の監督であった藤本定義から声がかかり、1958年12月30日に12年ぶりに阪急に復帰。しかし左足首骨折の後遺症から、1959年12月11日に現役引退を表明。


引退後、1960年は知人の会社に勤務。

1961年からは報知新聞評論家を務め、1961年11月に阪神タイガースの藤本定義監督の誘いで一軍打撃コーチに就任。1962年のリーグ優勝に貢献。

1963年限りで阪神を退団後、1964年に毎日放送解説者を経て、阪急の西本幸雄監督誘いを受けヘッドコーチに就任。1967年、球団初のリーグ優勝に貢献。

コーチとしても長池徳士らを指導。長池はホームランバッターに成長した(自身も青田の指導方法で西武ライオンズの打撃コーチとして秋山幸二を育てた。)

しかし同年11月末にまたも退団、日本テレビ解説者(1968年 - 1971年)を経て、1971年10月19日に大洋ホエールズのヘッドコーチへ就任。

1972年シーズン途中で別当薫監督が休養したのを受けて8月31日から代理監督を務めたが成績を残せず、体調不良になり休養。

しかしオーナーの意向で秋山登を監督にするため、それまでのつなぎとして監督就任を要請。1972年11月に監督へ昇格した。

1973年、シーズン当初は優勝戦線に絡んだが、次第に失速して結局5位に終わり辞任。

日本テレビ(1974年)、NETテレビ(1975年〜?)、ラジオ関東の解説者を経て、1979年シーズン終了後の10月21日に26年ぶりにヘッドコーチとして巨人に復帰。江川卓西本聖鹿取義隆角三男(後の盈男)篠塚利夫(後の和典)松本匡史ら若手選手らを育てた。

1980年に入って、青田は週刊誌の取材に応じた時、1969年〜71年の「黒い霧事件」で青田自身が野球賭博と関係を疑われ罵倒した。その時の言葉が週刊誌に掲載された。

その結果、セ・リーグが調査に乗り出した結果、青田に処分が下された為、1月に青田はコーチを辞任した。(無論、青田は無関係。)

以後は解説者・評論家として日本テレビ、ラジオ日本、スポーツ報知、テレビ東京などで活動する傍ら、ロシアでの野球指導に力を入れた。


解説者としては巨人贔屓のコメントが多いが非常に厳しく球界のご意見番の異名を持ちながら初歩艇な質問も丁寧に答えていた。

その為か他球団のファンでアンチ巨人でもあるダンカンやくみつるなどにも「おやっさん」と呼ばれ、慕われていた。


闘病中の1997年10月にカトリックの洗礼を受け、正式に信徒になった。洗礼名はヨセフ。

1997年11月4日、肺癌により死去。72歳没。

2009年1月13日、野球殿堂表彰者選考において競技者部門のエキスパート表彰で選出。


余談編集

妻が年来のローマ・カトリック信者(クリスチャン)で、子供達も全員同信徒だった。

因みに娘の五女・青田浩子、六女・青田恵子は元女優。

特に青田浩子は映画「月の夜星の朝」「BE FREE!」、テレビ「超人機メタルダー」に出演、月の夜星の朝とメタルダーではヒロインを演じた


関連イラスト

「超人機メタルダー」仰木舞役の青田浩子。

舞ちゃん!



関連タグ編集

野球選手


読売ジャイアンツ 阪急軍/阪急ブレーブス 洋松ロビンス/大洋ホエールズ

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