概要
福島県いわき市(当時は石城郡好間村)生まれ。父の仕事の影響で静岡県磐田郡佐久間町(現在は浜松市天竜区)に移り、中学時代途中まで過ごす。やがて栃木県小山市に転居。高校は作新学院へと進む。
その剛速球で作新学院高校時代から「怪物」と呼ばれ、数々の伝説を打ち立てた大投手。高校時代の栃木県奪三振記録も破られていない。
ある時NHKが高校時代の江川の球速を解析したところ、現在の球速測定法で換算して164km/hを記録したという話もある。当時を知る野球人などの証言では160km/h台前半から半ばで概ね一致している。
1973年のドラフトでは大学進学を表明していたのにもかかわらず阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)が1位で強行指名し、入団拒否。ちなみに、彼のあとも工藤公康、桑田真澄、城島健司といった大学進学または就職予定の高校生のドラフト強行指名が絶えなかったため2004年よりプロ入り予定の高校生(2007年からは大学生も)はドラフト前にプロ志望届提出が義務付けられるきっかけにもなった。
高校卒業後、法政大学に進学、1977年のドラフトでは巨人入りを熱望するもクラウンライターライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)が1位指名もまたもや入団拒否(本人曰く、巨人を含む在京チームならプロ入りしていたが、当時福岡がホームだったクラウンライターは遠すぎると述べた。なお当時のクラウンライターは到底プロ球団とはいえないひどい状態であり、江川の契約金すら払える状態ではなかった。)。作新学院の職員としてのアメリカ留学を経て巨人に入団するのだが、その際巨人の採った手段が、当時のドラフト交渉期限が「翌年のドラフトの前々日まで」を逆手にとって、ドラフト会議前日にドラフト外契約(1991年に廃止)を行使して入団させたことが問題視され、球界を揺るがす大騒動に発展した。
江川の巨人入団を巡る一連の騒動は、今日では江川問題や空白の一日事件などと呼ばれている(詳しくはこちらを参照)。このことからフリテンくんの連載初期のネタキャラとしても有名となった。
1987年に現役を引退。プロでプレーした期間は9年と決して長くはなかったものの、通算で135勝を挙げており、最多勝2回、最多奪三振3回、史上6人目の投手5冠などプロでも数々の記録を打ち立てた。
1984年のオールスターゲームでは、全パから8人連続で三振を奪い、かつて江夏豊が達成した9連続奪三振まであと一歩まで迫ったが、9人目の大石大二郎にセカンドゴロを打たれてしまい、記録達成はならなかった。
引退後は野球解説者やスポーツコメンテーターとして幅広く活動している。
入団前から引退後まで色々トラブルを起こす人ではあり、自伝「たかが江川、されど江川」でも「暴走族の集会で江川を擁護するスピーチをしたらブーイングを食らったという手紙をもらった」と公表するくらいの有様だったが、あの野村克也をして「巨人のエースたる男」と言わしめた大投手でもある。
江川の耳
本人の耳が大きいのが特徴で、高校時代の異名「怪物」はその記録の他に藤子不二雄Aの漫画「怪物くん」の耳が大きい主人公「怪物太郎」に由来するとのこと。
阪神ファンからは「江川の耳はロバの耳」というヤジを受けたり、阪神ファンが集う居酒屋に「江川の耳焼」という料理が売られていたという。
獣医界隈では、雌馬の歯式の通称として「江川の耳」が使われている。
これは雌馬の片側の歯の数が「切歯3 犬歯0 前臼歯3 後臼歯3」である事と、江川の巨人入団時の背番号が「30」なのを踏まえた語呂合わせである。
ちなみに雄馬の方は「切歯3 犬歯1 前臼歯3 後臼歯3」であるため、当時のライバルとされた掛布雅之の背番号「31」に準えて「掛布の耳」と呼ばれた。