概要
習志野市立習志野高校、中央大学、社会人野球の河合楽器を経て1981年のドラフト会議にて当時のヤクルトスワローズに4位指名されて入団した。ポジションは外野手。代打要員、守備要員として活躍。
1992年に角盈男とのトレードで当時の日本ハムファイターズへ移籍。この年に現役を引退した。
現役引退後はスカウトとしてヤクルト球団へ復帰。その後1996年~1998年まで2軍守備走塁コーチ、1999年から2007年まで2軍監督を歴任した。
2008年シーズンからは高田繁1軍監督のもとヘッドコーチを務めていたが、2010年シーズン途中の高田監督辞任を受け監督代行に。チーム再建の手腕を評価されて翌2011年から1軍監督を任された。
2014年シーズンをもって1軍監督を退任し、シニアディレクターとしてヤクルト球団に残っていたが、球団成績不振に伴う真中満1軍監督の退任を受け、2018年シーズンより1軍監督へ復帰し、再びチームの再建を任され、同シーズンはリーグ2位に輝き、立て直しに成功したと思われた。
しかし、翌シーズンの2019年は、序盤こそ首位の座につくほどの勢いを見せたものの、主力メンバーの流出や故障による主力陣の離脱に加えて、投手陣の崩壊、打線の不振などで、同年5月にはセリーグワーストタイの16連敗を喫し、リーグ最下位に転落、そのまま勢いを取り戻すことができず、同シーズンは最下位に沈んだまま終わってしまう。
シーズン終了間際であった同年9月には、成績不振の責任を取り、ヘッドコーチであった宮本慎也らと共に退任を表明。後任として、同シーズンで2軍監督を務めた高津臣吾が就任。