概要
花園高校、三菱自動車京都を経て、1992年のドラフト会議で3球団競合の末ヤクルトスワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)から1位指名を受け入団。
代名詞である「真横に滑るような軌道を描くスライダー」と150km/hを超える速球を武器に三振を量産し、ルーキーイヤーの1993年にはセ・リーグ新人王に輝いた。
また、プロデビュー前には、バルセロナオリンピックでは、日本代表選手に抜擢され、日本チームの銅メダル獲得に貢献。大会では総計27奪三振を記録し、ギネス世界記録に認定された。
しかし、その翌年である1994年から2年間は肘や肩の故障に苦しみ、長い2軍生活を送ることとなった。これらの影響もあり、現役時代はしばしば戦線を離脱せざるをえない状況に追われていた。
1997年~2000年までは、先発、セットアッパー、クローザーと様々なポジションで登板し、1997年には自己最多である19セーブを記録、同年度カムバック賞を受賞したが、故障の影響もあってルーキーイヤーのような優れた防御率を取り戻せず、2001年シーズン以降は2軍暮らしが長く続き、2003年シーズンを以て現役引退した(通算:37勝27敗25セーブ)。
その後翌年2004年から2017年まで14年間、同球団の投手コーチを務めた。
2018年には独立リーグチーム・富山GRNサンダーバーズの監督を務めたが、同年オフに東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手チーフコーチに抜擢され、2019年シーズンより同ポジションを務めた。
2021年シーズンから現在まで東京ヤクルトスワローズの一軍投手コーチを務めている。
人物
プロ野球評論家の青田昇は「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄、稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と伊藤の投球するスライダーについてこう評価している。
伊藤がヤクルト在籍時に監督を務めていた野村克也は彼について、「長いこと監督をやってきたけど、あいつがNo.1だよ」と豪語したことがある。同時に野村は伊藤の怪我を危惧せず登板させた自らの采配に関して、「積極的に登板させた事によって彼の選手生命を縮めてしまった。申し訳なく思っている…」と監督退任前に反省の色を見せていた。
しかし、伊藤本人は、当時の投手起用法や「先発が試合を作る以上は最後まで頑張るべきだ」という当時の先発投手で主流だった考え方などを踏まえた上で、テレビの企画で野村と再会した際には「故障のせいで結果を残せなかったのは自分自身の問題ですから。監督からはいつも気に掛けてもらったし、むしろチャンスを沢山貰えて今でも感謝しています。監督を恨んでいるなんて思わないでほしいです。むしろ使って貰えただけで嬉しかったです」とむしろ強い感謝を示している。