概要
1969年3月27日生まれ、秋田県北秋田市出身。
ポジションは捕手。鷹巣農林高から1986年ドラフト3位で阪急ブレーブスに指名され入団。
阪急でプレーしたことのあった中では最後の選手であり、「最後の阪急戦士」とも呼ばれた。また、実働年数は29年。これは工藤公康と並んで歴代1位の記録である。
現役時代
1988年の阪急最終戦・山田久志の引退試合で3ランホームランを打ったのだが、これは「阪急最後のホームラン」となると同時に「昭和最後のホームラン」となった。
レギュラー定着は1989年、球団名がオリックス・ブレーブスに変わってから。中嶋の武器である強肩を武器に、また打撃センスも優れていたために「メジャーリーグに一番近い捕手」と呼ばれたこともあった。しかし、徐々に打撃が低迷したため出場機会が減っていった。
1997年オフにFA宣言し、アナハイム・エンゼルスの入団テストを受けたが、結局は西武ライオンズに移籍。ライオンズでは伊東勤が不動の正捕手だったためレギュラー争いに敗れるものの、プロ入りして間もない松坂大輔の専属捕手を任された。
2003年オフに横浜ベイスターズに移籍するも、18試合出場に終わる。
2004年に北海道日本ハムファイターズに交換トレードで移籍。
2005年は高橋信二の故障などで、捕手でチーム最多の出場機会を得る。2006年以降はマイケル中村専属の抑え捕手となった。中村の移籍後は大野奨太と鶴岡慎也との併用起用のため出場機会は激減。それでも年に数試合は出場している。
2007年からは1軍バッテリーコーチを兼任するようになり、登録抹消時もコーチとして1軍に帯同していた。出場機会はほとんど無く事実上コーチが本業状態だったが、1軍の捕手に故障者が出たときなどに稀に出番があった。2015年限りで現役を引退。
なぜここまで長く選手登録されていたかと言うと、日ハム特有の事情があるため。日ハムの1軍本拠地は北海道であるが、2軍の本拠地は千葉県鎌ケ谷市とかなり遠くにあるため、1軍捕手にアクシデントがあった際に2軍から選手を緊急昇格させることが難しい。そのため、1軍に常時帯同している中嶋は何かあったときの「保険」の役割を果たしているのである。
中嶋はもう選手として体のコンディションを保つのは年齢的に厳しいので、引退させて欲しいと申し出たこともあるらしいが、上記の理由の為にむしろ引退させて貰えないという実情があった。2015年にようやく現役引退することとなったのは、翌年に北海道新幹線が道南まで開通することが決まり、鎌ヶ谷から航空機移動以外での選手の当日移動が可能となったためであるのと、捕手登録であった近藤健介が外野へコンバートされたことで近藤の緊急時の捕手起用が可能となったためである。
指導者として
現役引退後、日本ハムチーム統括本部のゼネラルマネジャー特別補佐として球団に残り、1軍バッテリー兼作戦コーチを経て2018年シーズン終了後退団。
翌2019年からはオリックス・バファローズの2軍監督を務めた。2020年シーズン途中、1軍監督の西村徳文の辞任発表を受け、8月21日の試合から1軍監督代行を任された。シーズン終了後1軍監督へ正式就任。
翌2021年、チームの刷新に成功し一丸となってチームを牽引しロッテに競り勝って25年ぶりのリーグ優勝へと導いた。日本シリーズでは1995年以来の東京ヤクルトスワローズと対決。当時の仰木オリックスの扇の要と野村ヤクルトの守護神が監督となって対決する事になった。結果は2勝4敗で日本一を逃した。
翌2022年も首位の福岡ソフトバンクホークスに最終日まで食らいつく接戦を演じ最終日の10.2決戦でオリックスが勝ちソフトバンクが負けたことで”同率の場合直接対決で勝ち越しているほうが優勝”というルールによりマジック点灯なしでリーグ連覇。同じくセ・リーグ連覇を果たしたヤクルトと二年連続で日本シリーズで対決。前年の雪辱を晴らし、4勝2敗1分で1996年以来の日本一に輝いた。
2023年は序盤に三つ巴となっていたロッテとソフトバンクが失速していく中で投打ともにハイレベルな安定感を見せつけ8月26日には優勝マジック「24」が点灯。ロッテの失速後は、2位以下を寄せ付けない戦いぶりで安定して勝ち星を積み重ねる。最終盤まで優勝争いを演じた過去2年とは異なり、2位に大きくゲーム差をつけてのリーグ3連覇となった。同年の日本シリーズの相手は同じ県にある阪神タイガースだったため”関西ダービー”・”なんば線シリーズ”とも呼ばれた。結果は第7戦までもつれ込んだのちに3勝4敗で負け、阪神が38年ぶりの日本一となった。
2024年は、3連覇に関わった主力の不振や怪我離脱が相次いだ。勝ちに慣れてしまった選手の怠慢プレー・ぬるま湯体質を中嶋監督は問題視し、新しい風を入れるべくシーズン終了後(退任のうえ)岸田護投手コーチへの監督交代を早々に決めた。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム | 備考 |
---|---|---|---|
53 | 1987年〜1988年 | 阪急ブレーブス | 選手 |
27 | 1989年〜1990年 | オリックス・ブレーブス | 選手 |
27 | 1991年〜1997年 | オリックス・ブルーウェーブ | 選手 |
5 | 1998年〜1999年 | 西武ライオンズ | 選手 |
22 | 2000年〜2002年 | 西武ライオンズ | 選手 |
35 | 2003年 | 横浜ベイスターズ | 選手 |
27 | 2004年〜2006年 | 北海道日本ハムファイターズ | 選手 |
27 | 2007年〜2015年 | 北海道日本ハムファイターズ | 選手兼任1軍バッテリーコーチ |
72 | 2018年 | 北海道日本ハムファイターズ | 1軍バッテリー兼作戦コーチ |
78 | 2019年〜2020年 | オリックス・バファローズ | 2軍監督 |
78 | 2021年〜2024年 | オリックス・バファローズ | 1軍監督 |
人物・エピソード
強肩強打の名捕手で、40代となった時点でも2006年の阪神タイガース戦前に行われたスピードガンコンテストでは、最速146km/hをたたき出して自身よりはるかに若い年齢の選手を抑えて優勝したこともある。
全盛期の中嶋の活躍はアマチュア球界でも知られており、古田敦也がプロ入りするに「中嶋選手のいるオリックスだけは遠慮したい」と言っているとまで言わしめている。
その強肩で外せないエピソードと言えば1990年9月20日での日本ハム戦(東京ドーム)である。
この試合での先発投手の星野伸之の投じたすっぽ抜けたカーブを中嶋が右手で直接捕球し、星野を超える140キロの球速で返球したことで場内から爆笑が起こったのである。その回の日本ハムの攻撃後にベンチへ帰る際に、星野から「素手で取るのはやめてくれ」というも「ミットが届かんかった」とごまかしていた。
(ちなみにその時のバッターは田中幸雄と言うから実に豪華なお話である(3人合わせて現役生活69年!))
なお、練習の時から星野伸之とバッテリーを組んでいた時、星野のスローカーブを右手で直接捕球したこともあった。なお、普段から「星野が中嶋に投げる球よりも中嶋が星野に返す球の方がが速い」と言われていたようである(星野は最速でも130kmと極めてストレートの球速が遅い投手)。
冒頭で書いたように、最後の阪急ブレーブス戦士となったが、同時にオリックス・ブレーブス(球団買収後2年はこの名称)と西宮球場を知る最後のブレーブス戦士ともなっており、実はオリックス・ブルーウェーブの青波戦士としても最後から数えて3人目(イチロー、後藤光尊に次いで。なお2019年にイチローの引退でゼロとなった)でもあった。
監督時代の采配は、師匠・仰木彬の仰木マジックから取って「中嶋イリュージョン」「ナカジマジック」と呼ばれる事もある。嘗ては前評価は高いのにいざ本番が始まると失速してBクラス入りすることを『優勝候補オリックス』とネタにされ続けてきたオリックスであったが、中嶋監督は就任以来3年連続でリーグ制覇を成し遂げ日本一も経験したことで名将扱いされている。