概要
高校卒業後は社会人野球の国鉄鹿児島鉄道管理局(JR九州硬式野球部の前身)でプレーし、1981年のドラフト会議にてロッテオリオンズ(千葉ロッテマリーンズの前身)に5位指名されて入団した。
最初は二塁のレギュラーとして定着、持ち味の俊足を活かして「走る将軍」の異名を持ち、86年から89年までパ・リーグの盗塁王のタイトルを獲得した。落合博満の三冠王の時期と重なり、2番を打った横田真之と共に落合の打点に大きく貢献。1990年は西武の清原和博と終盤まで首位打者争いを繰り広げ、.339の高打率で初の首位打者のタイトルに輝いた。現役後半は中堅手として活動し、二塁手、中堅手それぞれでベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。1997年に引退した。
現役引退後はマリーンズの一軍・二軍の守備走塁コーチを務め、ボビー・バレンタイン監督が2004年に復帰した際にはヘッドコーチを兼任し、2005年のマリーンズ日本一に貢献。
2010年シーズンからはバレンタイン監督の後任としてマリーンズ一軍監督に就任し、シーズン3位ながらもクライマックスシリーズと日本シリーズの両方を制して日本一を達成した。翌シーズン以降の成績は振るわず2012年オフにマリーンズを退団。
以降しばらくは解説や評論活動を務めていたが、福良淳一監督の勧誘を受けて2016年シーズンよりオリックス・バファローズのヘッドコーチとなり、2019年より福良の後任としてバファローズの一軍監督に就任。若手選手の台頭など育成面で高い評価を受けたものの、投打が噛み合わず2年連続でリーグ最下位を喫し、2年目の2020年は楽天戦以外のパ・リーグ球団との対戦で大きく負け越し、次第に采配も大きく低迷していた。同年8月に成績不振の責任をとって監督を辞任した。
2022年シーズンからは独立リーグ・日本海オセアンリーグに所属する福井ネクサスエレファンツにて、会長職とGM職を兼務。