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若林忠志

わかばやしただし

若林忠志とは戦前から戦直後に活躍した日本プロ野球の投手である。
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1908年3月1日~1965年3月5日

ハワイ出身の日系2世であり、1941年に正式に帰化するまでの本名はタダシ・ヘンリー・ワカバヤシ(Tadashi Henry Wakabayashi)


生涯編集

プロ野球入り前編集

ハイスクール時代はアメリカンフットボールに夢中だったが、試合中に頭部の怪我を負ってしまい以後両親からプレイ禁止を言い渡されてしまう。

その後野球に転じ、捕手を務めた後投手として才能が開花することになった。


1928年に親善試合のため来日、その才能を見込んだ大学から勧誘の声がかかり、同年9月に旧制本牧中学校(現在の横浜高校)に4年生として入学。翌29年に卒業し法政大学予科に入学した。予科・本科在学の6年間で肘と肩を痛め、サイドスローへの転向と速球主体から変化球主体になったものの、六大学野球通算87試合登板(史上最多)43勝の記録を残した。

1934年に卒業し日本コロムビアに入社、ビジネスマンとして働く傍ら硬式野球部にも在籍し活躍した。


プロ野球入り、阪神へ編集

1935年、各企業がプロ野球球団創設に動き始めていたころ、若林のもとにも巨人阪急、そして阪神からの勧誘が入るようになった。若林は入団条件としてプロ野球初の契約金の支払いを要求した。これは当初提示された月給が150円と少なかったこと(日本コロムビア時代の若林の月給は500円)に起因している。結局月給250円に加えて契約金1万円の支払いを承諾した阪神に入団した。


入団当時28歳だったが、高い制球力と緩急織り交ぜた投球で1年目から2桁勝利を上げ、1939年には自己最高の28勝をあげ、最高勝率と最優秀防御率のタイトルを得ている。以後も戦争による応召で選手が抜けていく中、阪神の中核として活躍。39年から4年連続で300投球回以上、43年には35歳で415回を投げ、44年も35試合しか行われなかった中で31試合に登板、チーム勝利数27の8割になる22勝をあげ、最多勝・最高勝率・最優秀防御率・最優秀選手を獲得した。なお42年からは選手兼任監督となった。


戦直後は妻の故郷である宮城県石巻市で水産会社を経営して生計を立てていたが、野球への情熱は捨てがたく、47年に選手兼任監督として復帰した。すでに39歳と野球選手としての最晩年を迎えていたが、26勝を挙げてMVPを獲得、またヴィクトル・スタルヒンに次ぐ史上2人目の200勝投手となった。その後も17勝、15勝と年齢を考えると驚異的としか言いようがない成績を残していったが、

その阪神でのプロ野球生活に突如としてピリオドを打つ出来事が起こった。


2リーグ分裂と毎日への移籍編集

1949年オフ、毎日新聞を母体とする毎日オリオンズが創設された際に、読売新聞中部日本新聞が日本野球連盟への加盟反対を表明。これをきっかけに現在のセ・リーグパ・リーグの2リーグへ分裂していくことになるが、その時に毎日へ引き抜きをかけられたのが若林を始めとする面々であった。

これは毎日の新規加盟と新リーグ発足時には毎日と同リーグに移ることを阪神が内々に表明したものの、土壇場で反故にしたことで毎日側が激怒し若林・別当薫土井垣武本堂保次呉昌征といった主力選手の引き抜きにかかったのである。

若林もシブチンの阪神に見切りをつけており、10年選手制度を使って毎日に移籍し、以後は選手兼任監督として在籍した(ただしチームの指揮は総監督の湯浅禎夫が執っており、実際はコーチ兼任に近い立場であった)。1952年に平和台事件の責任を取り2軍監督へ降格、1953年に1軍監督兼任に復帰するも同年末に現役引退した。


その後編集

1955年にトンボユニオンズヘッドコーチ、1961年に大洋ホエールズ2軍非常勤投手コーチ、1963年に西鉄ライオンズヘッドコーチに就任した。

1964年には4人目の野球殿堂入りを果たすも、同年末に末期の胃がんが発覚したことから西鉄ヘッドコーチを退任、翌65年に亡くなった。


関連タグ編集

引退したプロ野球選手一覧

大阪タイガース 毎日オリオンズ

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