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概要

福岡県福岡市の舞鶴公園内にあった野球場。1949年12月に開場。


西日本パイレーツ(西鉄クリッパースと合併、1950年のみ活動)の本拠地、西鉄クリッパース(ただし準本拠地扱い)、西鉄ライオンズ太平洋クラブライオンズクラウンライターライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の本拠地として1950年から1978年まで使われ、1989年から1992年まで福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の本拠地として使われた。

なお、1979年から1988年までは、パ・リーグ全球団と、中日ドラゴンズを除くセ・リーグ5球団のホームゲームが行われていた。


1997年11月24日をもって閉鎖される。そして解体の際、平安時代の遺跡「鴻臚館」が埋まっていたことが判明。現在は博物館として整備されている。


平和台球場を揺るがした事件

平和台、という名前とは裏腹に、日本プロ野球を騒然とさせた暴動が起こってしまった場所でもある。

平和台事件

1952年7月16日に行われた西鉄ライオンズ対毎日オリオンズ戦。福岡地区は梅雨の末期で、その影響から15時に始まる予定だった試合が1時間55分遅れて16時55分に始まった。当時はナイター設備がなく、スムーズに試合が進めば19時29分の日没までに間に合うと開催された。

しかし2回表のオリオンズの攻撃中15分間、3回裏のライオンズ攻撃中に1時間、雨による中断が発生した。本来1時間以上中断してグラウンドのコンディションが改善される見込みがない場合はノーゲームとなるが、グラウンドに砂をまくなどして試合再開にこぎつけた。

ライオンズが5-4とリードしている4回裏、オリオンズの湯浅禎夫総監督が選手たちに遅延行為を行わせ、日没ノーゲームとする作戦に出た。試合中なのに水分補給のために選手ひとりひとりをダッグアウトに引き揚げさせる、普通の守備で捕れるフライをわざと落とさせる、捕手がサインを出さない、投手に牽制球を何度も投げさせるなど、露骨な遅延行為をさせていった。ライオンズの打者もわざと三振する作戦をとったものの、田部輝男が振ったバットにボールが当たり、ライオンズは4点を追加し9-4とした。19時20分に4回が終了。ライオンズナインが守備位置についたものの、オリオンズの湯浅総監督は審判にノーゲームを提案し、協議の結果、ノーゲームとなった。

ライオンズが勝てたはずの試合をオリオンズの露骨な遅延行為によりノーゲームにされたことで、当然ながらライオンズファンはこれに腹を立て、グラウンドに乱入。観客の1人が塁審の頬をアルミの弁当箱で殴ると、その塁審が「悪いのはあっちや!」とオリオンズベンチを指差してしまった。むろんライオンズファンはオリオンズナインに襲い掛かる。この非常事態かつ異常事態に遅延行為の被害を受けたはずのライオンズナインがオリオンズナインをかばおうとしたが、ライオンズ選手の野口正明にかばわれたオリオンズの別当薫が身を守ろうとしてバットを振り回してしまったことで、暴徒と化したファンを刺激させ、別当をかばった野口が下駄で額を殴られ血だらけになった。湯浅総監督が場内放送で謝罪を行うも、「選手の(勝手な)判断でこんなことになっちゃいましたサーセン」と言う趣旨の内容だったため騒ぎは収まらず、福岡県警から機動隊員900人弱が動員されるもそれだけでは足りず、隣県の警察から機動隊員を併せて2400人程度来てもらう羽目になった。オリオンズの選手が代わりの宿舎まで機動隊に警護されたものの、暴徒は誰もいないはずのオリオンズの本来の宿舎に抗議に押し掛けた。

結局、オリオンズの選手の大舘勲とライオンズ球団社長の西亦次郎が、宿舎の前に押し掛けたファンの前で謝罪、ようやく事態は収拾した。


オリオンズはこの責任を取らせる形で湯浅総監督を解任、若林忠志監督を二軍監督に降格、別当を選手兼監督代行として起用した。またパ・リーグから制裁金5万円が課された。

危険を顧みず観客の説得にあたった野口はチームメイトの大下弘とともにパ・リーグから表彰されている。

そしてこの事件がきっかけで、平和台球場に照明設備が作られることになった(1954年に完成)。蛇足ながら、オリオンズの当時の親会社だった毎日新聞はこの騒動の原因についてオリオンズ側の責任を伏せたため、福岡では不買運動が起こった。

さらに、この湯浅監督とオリオンズナインの行動に対し、 野球好きで知られた詩人兼児童文学者のサトウハチローは、「血の気にはやる所がある九州の人の前であんな見え透いた遅延行為なんかしたら皆怒るって」(趣旨)と非難している。


遺恨試合騒動

時代が下って1973年、この頃は黒い霧事件によりライオンズは人気・実力ともに失い、元ロッテオリオンズオーナー・中村長芳が個人オーナーとなり、太平洋クラブライオンズとして命脈を保っていた状態だった。

そこで平和台事件の遺恨を利用し、観客動員を図る目的で中村らの古巣であり、毎日オリオンズの後継であるロッテオリオンズの金田正一監督と示し合わせ、シナリオありきの遺恨試合を「演出」し、乱闘の写真を使った「今日も博多に血の雨が降る!」というポスターまで作られた。

この結果そんなことは何も知らない観客が暴徒化することとなった。

確かに動員人数は上がったが、フーリガン的な客も増えてしまい、福岡県警機動隊の警備動員にまでいたることとなってしまった。

このことは後に埼玉西武ライオンズでは千葉ロッテマリーンズとのダービーという形で引き継がれる一方、福岡ではホークスファンによるロッテに対する5連敗コールや帰れコールが起きるなどの悪影響を引き摺る遠因となっている(但し、帰れコール自体は南海ホークス時代にも存在はした)。

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