経歴
山口県立下関商業高校でエースピッチャーとして甲子園に出場。
プロ入り後、4年目まで
1965年に西鉄ライオンズに入団。背番号は20。(なお、この年のシーズン終了後にドラフト会議が始まった)
同期入団には、尾崎将司(後のプロゴルファー・ジャンボ尾崎)がいた。
1年目の1965年に20勝10敗の好成績を挙げて新人王を受賞。なお、池永を最後に20勝を挙げた高卒ルーキーは現れていない。
2年目の1966年は14勝13敗と若干成績を落とすが、3年目の1967年には23勝14敗で最多勝のタイトルを獲得した。
ちなみにこの年を最後にジャンボ尾崎は西鉄を退団しプロ野球選手を引退。ゴルフの世界へと転身した。
ジャンボ尾崎は「同期にこんな凄い奴がいるんじゃ勝ち目がない。だけど野球を離れても俺のライバルは池永だけだ。」と語っている。
4年目の1968年も23勝13敗と好成績を残し、衰えが見えた稲尾和久の後継者として自他共に認められる存在へと成長した。
また、クレバーな投球術のみならず、打撃にも優れていた。(パ・リーグのDH制度導入は1975年)
しかし、池永の選手生命は突如として絶たれてしまう…
黒い霧事件
この頃の西鉄は、1963年を最後に優勝から遠ざかっており、そして八百長行為が常態化していた。
1969年にも18勝を挙げ、ここまでの5年間で99勝を積み重ねるハイペースだった。
ところが、この年のシーズンオフに池永も八百長行為に関与したという疑惑が沸き起こる。
池永は金銭を授受していたため、日本プロ野球機構(NPB)は池永に永久追放処分の処罰を下した。
これから全盛期を迎えようという所で突如選手生命を絶たれた池永の通算成績は6年間で103勝65敗。勝率にして.613。
もしもこの事件がなければ200勝は超えていたと言われており、池永の追放は球界の損失とまで言われた。
現に池永が去った後の西鉄は、事件のダメージが深刻で、1970年に球団初の最下位に沈むと、1971年・1972年も最下位に終わり、この年を最後に西鉄は太平洋クラブへと身売りした。
引退後、復権へ
永久追放処分のために野球に携わることが出来ず、その後は野球界から一線を引いて福岡市でバーを経営していた。
そんな池永の風向きが変わり始めたのは、21世紀に入ってからだった。マスターズリーグへの参加をきっかけに、処分取り消しを求める声が澎湃として起こっていた。NPBは前例がないことで慎重であったが、当時球界のドンと称された渡辺恒雄が「機構はいつまで彼を永久追放にしてるんだ」と発言したことで本格的に動き、2005年に池永の処分が取り消され、35年ぶりに野球界に携わることが出来るようになった。
復帰への道筋を付けてくれた稲尾は2007年に死去。池永は稲尾を「恩人」と慕った。
2022年(令和4年)9月25日、癌のため76歳で死去した。