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パンチ佐藤

ぱんちさとう

神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投左打)、タレント、野球解説者。
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概要編集

1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。本名および野球選手としての旧登録名は佐藤 和弘(さとう かずひろ)。


愛称は「パンチ」で、パンチパーマがトレードマークであり、芸名の由来ともなっている。


1989年のドラフト1位で熊谷組からオリックス・ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)に入団。ポジションは外野手及び一塁手。初年度こそスタメン入りするなどそこそこ活躍したが、球団名が「オリックス・ブルーウェーブ」に変わった翌年以降は怪我や不振でレギュラー入りする事が出来なかった。1994年4月7日、新監督の仰木彬及び打撃コーチに新任した新井宏昌との共同発案で鈴木一朗(イチロー)と共に新しい登録名「パンチ」に変更した。本来はイチローだけが改名する予定だったが、当時日本人選手の登録名をカタカナ表記の名前だけにする事は異例だった為、イチローを批判から守る為に一緒に佐藤も改名させた。但しイチロー本人が恥ずかしがった事もある為、先輩の佐藤を改名させる事で無理矢理納得させた側面もある。


現役最終年となった同年に仰木監督から直接戦力外通告を受け、11月4日に引退を発表した。その際仰木監督から「お前は野球選手としては大成しないが、芸能界なら大成できるから今すぐ野球を辞めろ。」と言われ、仰木監督を慕っていた佐藤も納得し、「はい、辞めます。」と即答したという。この時仰木監督は佐藤の為に事前に芸能関係者に根回ししており、佐藤の引退発表翌日にやしきたかじんの所属事務所から連絡があったと後年に佐藤は明かしている(但し当時は神奈川に戻って再就職するつもりだった為断っている)。


選手としてはパッとしなかったが、タレントとしてスポーツバラエティ番組をはじめ、身体能力を活かした番組のほか、ドラマなどにも積極的に出演している。

背番号編集

背番号使用年所属チーム
451990年オリックス・ブレーブス
451991年〜1993年オリックス・ブルーウェーブ
901994年オリックス・ブルーウェーブ

余談編集

仰木監督や入団時の監督だった上田利治を慕っている反面、その間の監督だった土井正三を極端に嫌っており、公の場で「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督、途中何かありましたけども」と述べたほか、自著ではD呼ばわりして「みんな仕方なく従っていた」と辛らつに書いている。しかしこれら発言や自著の内容がデタラメの部分もあり、例えば自著で「イチローが野茂英雄から本塁打を打った次の日に2軍に落とした」と土井を批判していたが、実際はその後もイチローを起用しており(不振に陥り7試合後に降格)、パンチの主張は思い違いである。他にもイチローと土井の確執を強調する内容が書かれていたが、逆にイチローがパンチの自著をもとにバッシングを受けている土井を心配してテレビ番組などで釈明に回ったほどである。


お調子者キャラで人気があった一方でその口の軽さが災いすることがあり、トリノオリンピック荒川静香が金メダルを獲得した際、「テレビの前でスルツカヤが転倒するよう念を送ったらその通りになった」と荒川のライバルを揶揄する発言をしたことで批判され、直後に「軽率でした」と謝罪している。

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