セカイ系
せかいけい
まず前提として、セカイ系という言葉の定義は曖昧であり、これが正解だというものは存在しておらず、定義が不明瞭なバズワードである。その認識は各人によって微妙に異なるものであることに留意しておかねばならない。
その上でセカイ系とされる既存の作品群に共通する特徴から大雑把にまとめるならば、「主人公達の行動・心理・関係性が、本来ある筈の中間領域である『社会』をすっとばして、そのまま上位領域たる『世界』の在り様や命運を決定する」ような構造を持つ物語と言ったところ。あくまでも一面的な説明であることに注意されたし。
評論家の東浩紀らが執筆した書籍『波状言論美少女ゲームの臨界点』編集部注釈の定義では「主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」となっている。
また同じく評論家の前島賢の書籍『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』では「『君と僕との関係が具体的な中間項を抜きにして世界の運命と直結云々』というのは後付の定義であり、元は『エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品』を指すための造語」とされている。
「なんらかの要因によって「世界の危機」ととれるような事態が起こり、(結果的に)世界の行く末を左右することができてしまうごく少数の者たちの行動や心理を描いた作品」であることが多いが、この他にも
- 単純に世界を個人の意思でコントロール可能なものとして捉えている作品
- 「世界の危機」をストーリーラインに据えつつも、主人公達の自意識の問題をメインテーマとして扱っている作品
- 主人公の現実認識(自分語り)がそのまま作中世界の世界観に短絡している作品
- 一見すると規模は小さいが実は世界の存亡に関わる問題が主人公達の身近な場所で起こり、それに対処するべく主人公達が小さな冒険を繰り広げる作品
等を指すこともある。
概ね「ゼロ年代前半に流行ったものを無理やり一つの概念で纏めようとしたもの」と考えればよく「エヴァンゲリオンっぽい」もしくは「keyのギャルゲーっぽい」あたりがパブリックイメージに近いだろうか。
いずれにしても主人公とその周辺のみで完結する極めて狭い「セカイ」の中での出来事が、抽象的なものも含めた「世界」規模の事象に直結する、または拡大解釈されるのがポイントである。
セカイ系が扱う「世界」の規模は作品によって異なり、宇宙や地球といったスケールの壮大なものから、国や街や学校、果ては家族や友人、恋人といった主要キャラクターの日常を司るコミュニティだけを定義したものまで様々に存在する。
また狭義の意味では、物理的ではなく観念的・抽象的なものを含むこともある。もっとざっくり言うならば、「ぼく(主人公)が知っている世界だけをまとめたものが『セカイ』」ということになるだろうか。
RPGで例えるならば、世界を救う勇者は魔王を倒すために各地を回ることなく、最初の村(『ポケットモンスター』でいうところのマサラタウン)から出ようとしない。ことによっては家からも出てこない。
ここでいう「最初の村」とは勇者が所属しているコミュニティのことであり、勇者の家とはコミュニティの最小単位、すなわち家族・友人・恋人のことである。世界の危機とは「最初の村」の崩壊と同意義であり、伝説のアイテムも倒すべき魔王も村の中に存在している。そんな非常にこぢんまりとした大冒険がセカイ系の物語である。
乱暴な言い方をしてしまえば、恋愛・友情・人間関係・トラウマの克服・自己実現等といった、当事者達にとっては重大な(だが、赤の他人から見れば実にどうでもいい)個人的問題や危機感を、「世界の在り方」という他者を巻き込む誇大な命題と直接シンクロさせ、なおかつ思い切りその純度を高めた類型、団塊の世代以前の作り手が重視していた政治性の否定だとも言える。
物語構造としては主人公の直面している個人的問題こそが「世界」を終わらせるのであり、実体的に世界を終わらせる存在が何なのかはマクガフィンに過ぎないため、より先鋭的な作品によってはなぜ世界は滅びるのか、誰が世界を滅ぼそうとしているのか語られない物すら存在する。
なんなら「ぼくが好きなあの子にフラれたので、世界は滅亡します」という極端なレベルにまで短絡してもなお物語としては成立し得る。
ゆえにその構造上、「登場人物の主観のみに焦点が置かれ、客観性が欠落している」「世界という元来は壮大で複雑な題材の矮小化」「視野偏狭で独善・自閉的」といったマイナス面が指摘される場合もある。
また、セカイ系的作品においては「主人公達が人間的に成長して良好な関係を構築し、自分の『セカイ』を肯定(或いは打破)することで『世界』が救われる」、つまり、個人の自我の回復と世界の救済を同一視する展開が多々見られるため、「自己啓発的で宗教くさい」と揶揄されることもしばしば。
しかし、セカイ系作品を観賞するにあたって重要なのは「主人公のセカイに没頭する」ことであって、隅から隅まで世界観の全貌を知りたい人や純粋なストーリーとして作品を楽しみたい人など、世界像や設定も含めた物語全体を俯瞰してみるタイプの人にはそもそも向いていないジャンルと言える。
受け手に深く登場人物の内面描写に接してもらう、あるいは受け手が物語世界の一部になったと感じるよう誘導するためにあえて主人公の周辺までの描写しか描かないのが特徴かつ人によっては欠点でもあり、そもそも世界観や周囲の描写の少なさに突っ込むこと自体がはっきり言って野暮な事である。
どれだけ壮大な世界観を持ち、その裏でとんでもない事態になっていたとしても、その作品にとって重要なのはその中心にいる僅かなキャラクターたちの内面描写であって、決して物語世界の行く末やその他の人々ではないという前提を、何なら触れる前から理解しておく必要がある。
このように、比較的メジャーなジャンルでありながらその実かなり人を選ぶジャンルなのがセカイ系なのである。
「セカイ系」という言葉の初出は正確には不明だが、2002年末頃にジュブナイルポルノ作家・ぷるにえこと槻矢いくむが運営していた『ぷるにえブックマーク』というサイトで現れたとされる(当時のサイト)。ここでは否定的な意味合いで使われており、逆に非セカイ系の『おジャ魔女どれみ』が持ち上げられている。
というわけで当初は「個人の価値観・思想を『世界』という言葉で大げさに表したがる傾向」のある作品を揶揄するための語だったが、徐々に「登場人物の行動や心理・思想・関係性の如何が、『世界の危機』『この世の終わり』といった事象に密接に関係する」作品を表すようになった。
槻矢氏が2021年に自身のtwitterで語ったところによると、「セカイ系、という言葉は、今でいうところの「あるある」です。アニメやマンガやゲームの物語や演出によくある類型のひとつ。少年と少女が出会うラブロマンスに世界の存亡が掛かるほどのスケールの大きな出来事が関係するというアレです。」とされている。
時代背景としては、冷戦終結から同時多発テロ事件・イラク戦争頃まで続いた、これから先「世界」が変わるようなことはもう無く「歴史の終わり」が来たという風潮、オウム真理教事件や酒鬼薔薇事件に加え平成不況による陰鬱ムードといったものが挙げられやすい。
セカイ系のクリエイターは1960年代生まれとその周辺が多く、戦前生まれ~団塊の世代クリエイターの社会中心の作風に対するアンチテーゼともいえる。
セカイ系というジャンルへの認識を一般化させたのは1995年のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』であるという見方が強く、実際、『エヴァ』以降にはその影響を強く受けたであろうセカイ系的な作品(いわゆる『ポスト・エヴァ』)が、雨後の筍の如く制作されるようになった。
これは『エヴァ』が分類上はあくまでロボットアニメでありながら、その実主人公の葛藤や自尊心などの精神面をメインとして扱った作品であったためであった。
ストーリー上でも敵である使徒が登場せずに主人公・碇シンジや周辺人物の葛藤を描くだけのエピソードがあったりするなど心理描写が重視され、またラスト2話についてはそこまで積み上げてきた伏線をすべて投げ捨てひたすらシンジをはじめとするキャラクターたちの内面描写のみが続き、最後はシンジが自分の居場所を見つけてハッピーエンドという視聴者の度肝を抜くものであった。
ラスト2話を補完する劇場版ではきちんとそれまでのストーリーにつながる話が公開されたものの、その中で世界はシンジの乗るエヴァによって滅亡し、しかし、シンジの「またみんなに逢いたい」という心の中の葛藤によりごくわずかな人々が生き残るという悲劇的なものであった。
これをセカイ系というジャンルと重ねてみると、シンジとその周辺のみで世界の危機が展開し、シンジの心情によって世界が滅ぼされたり一部再生されたりと、シンジと世界の危機が非常に密接にかかわっているといえる。
この辺からエヴァの影響を受けた作品がセカイ系だ、という説もあるが、エヴァは当時の流行もふんだんに取り入れた作品であり、従って「エヴァっぽい」と言える要素はそれ以前にもそれ以降にも無数に流れとして存在しており、直接的なエヴァの影響だと断言はしにくく、軽率にそれをもってセカイ系認定するのは難しいと言える。
またエヴァの作中ではシンジがクラスメイトからの反発を受けたり主人公が属する組織の他国支部の動きが描写されたりなどもしており、「きみとぼく」からセカイ間に挟まる社会のような中間項が無い構造をしていると言うことは難しく、更にはシンジとレイやアスカといったヒロインたちの自意識の問題はそれぞれ個人の中で完結しており、つまり「きみとぼく」の「きみ」にあたるキャラクターも存在していない。
ついでに言えば「きみとぼく」だけで自己のセカイを完結させようとしているキャラクターは主人公であるシンジよりも「世界を犠牲にしてでも亡き妻に逢いたい」という願いを持つその父親・碇ゲンドウの方が当てはまる。
一方、「きみとぼくのセカイ」+「世界の危機」という構造は、ギャルゲー(エロゲ含む)特有の手法として現れたとする見方も存在する(奇しくもエヴァブームとギャルゲーブームはその時期をほぼ同じくし、共に1990年代後半のオタク文化を席捲している)。
『涼宮ハルヒの憂鬱』を筆頭に2000年代後半も影響力を持っていたセカイ系だが、このハルヒをきっかけに起きた深夜アニメブームによって、深夜アニメがコアなオタク層からライトオタク層に拡大。ライト層はセカイ系のような面倒な作品をそれほど好まず、日常系や王道バトルものを支持したため、徐々にセカイ系の退潮が発生、2000年代末には萌え系や日常系等に押され気味になる。
それでも2011年にはゼロ年代セカイ系的要素の大集合ともいえる『魔法少女まどか☆マギカ』がヒット。しかし、非ロボアニメのセカイ系の完成形ともいえる本作の登場でネタ切れに近い状況になってしまい、加えて異世界転生というセカイ自体を最初から拒絶するジャンルも普及。2010年代以降は、かつてのように毎年毎クールと量産されることは少なくなっている。それらの作品に押し流されジャンルとしてはすでに消滅しているという意見もある。一方部分的にでもセカイ系的と解釈しうる作品については未だ数多く作られており、見方を変えるならば、セカイ系的要素は既に特筆しなくてもいい程に一般化・陳腐化して浸透していったとも言える。
2010年代にはいると、上述のギャルゲー業界出身である新海誠作品が台頭してくるようになり、オタク層の間では流行が去ったセカイ系が一般層の間で支持を得て、「きみとぼく」と世界の関係という構図が再び注目を浴びるようになった。
新海本人は「『セカイ系を作っている』という意識は、昔から特になかったんです。いま一番気になっているテーマや、みんなが共有していると思うような気持ちを描いたことが、結果的にそう言われている」とし、リーマンショックや東日本大震災の前は終わりなき日常が永遠に続く感覚があったため社会の存在感が薄かったのだろうと述べている。
既述の通り、オタク文化圏においてセカイ系への認識が一般化したのは90年代半ば頃ではあるが、「セカイ系的」な構造や要素を含む作品は、それ以前の遥か古くから少なからず存在している。
さらに言ってしまえばセカイ系的な世界観はセカイ系固有のものというわけではない点にも留意しなければならない(そもそも嚆矢とされる『エヴァ』自体が過去の様々な作品からの引用やオマージュ、パロディによる記号の集積で構成された作品である)。
例えば「主人公の自意識の範疇に映る『セカイ』だけを切り取って、まるでそれが『世界の全て』であるかのように描き出す」というセカイ系の根本的な文法一つとってみても、これはアニメ・漫画のみならず、古今東西の創作物で散々使い古されてきた表現型である。
海外ハードSF小説で流行ったいわゆる人間原理(観測者の存在・認識が宇宙の在り方を確定するという考え方)ネタ等は実にセカイ系的なアイディアであるし、個人の在り方と世界の在り様の直結という類型も、世界各地の宗教説話や神話を考えれば明らかなように、世界に対する認識がまだ狭かった中世以前の文学作品にも数多く見られる。
見方によっては、ロボットアニメ・異能バトルもの・特撮ヒーローもの・学園もの・ループもの・新日常系あたり等は、ジャンルそのものがセカイ系的と解釈し得る構造を内包しているとさえ言える。
セカイ系の名を世に広めた一人である東浩紀自身も 「『自意識と世界の果て』というモチーフ自体は、ある意味で文学の基本テーマそのもの」 と述べており、こうしたセカイ系をセカイ系たらしめる決定的な独自要素の不在もまた、セカイ系の定義を難しくしている一因でもある。
最後にひとつ。外部リンクを参照すればわかるが、「セカイ系」というのは学術的な話もできてしまうような捉えどころのない曖昧なシロモノであるため、ピクシブ百科事典で扱うには少々難儀な項目であると言わざるを得ない。タグが存在すること自体がちょっとした不思議である。
多感な年頃の少年少女が主役に据えられることが多く、かれらの心の揺れ動くさま、何ならその場の感情や勢いで決めた選択が、世界の明日をも左右してしまうため、作中に存在するであろう「その他大勢」の人々にとってはたいへん優しくない世界が出来上がることも多い。
鑑賞する際にいくらか憂鬱になる覚悟を決めておくべき作品もあるだろう。
物語の中で起きる主要な事件は大抵が主人公の周囲でのみ起こったりするため、モブキャラたちは物語の展開に関与(あるいは関知さえ)することなく、ただ主人公らが選択する未来を叩きつけられるだけの、非常に希薄な存在となる。
たとえ作品のスケールが地球規模だとしても、特定の場所(日本の地方都市とか)でばかり事態が進展して、首長や元首、国際機関といった世界の危機に本来立ち上がるべき人々のことはまるで描かれないというケースもある。
このジャンルにおいて、主人公が顔も名前も知らない人々はいないのと同じなのである。
また、セカイ系において肝要なのは「主人公達の『セカイ』の救済」であって、必ずしも『世界』そのものの救済がそれとイコールとなっているとは限らない。
「世界は滅びちゃったけど、ぼくらのセカイは救われたからハッピーエンド」、或いは逆に「世界は救われたけど、ぼくらのセカイは壊れたのでバッドエンド」というような、いわゆるメリーバッドエンド(オープンエンド)的な結末を迎える作品も少なくない。
繰り返すが、セカイ系は正解とされる固定的な定義を持っておらず、セカイ系的とされる特徴も決してセカイ系固有のものというわけでもない。「なんかセカイ系っぽい」という、ぼんやりとした枠が存在するだけと言ってもいい。
セカイ系的な特徴が表層のごく一部分しか無いにもかかわらずセカイ系として扱われる作品もあれば、逆に明らかにその構造にセカイ系的な特徴を多く含んでいるのにセカイ系と呼ばれない作品も多数存在する。
例えば、セカイ系的とよく言われる「主人公達の身近なところで世界の危機に直結する事態が起こるが、警察や軍隊のような本来それに対処すべき社会装置の存在感が希薄で、主人公達が日常生活を送りながら対処する」という類型を持つ作品がそのまま全てセカイ系であるとするならば、有名なところで言えばプリキュアシリーズなんて全部セカイ系ということになってしまうが、それを納得する人は少ないだろう。いわゆるそのようなホビアニの様式では一種のセカイ系的展開になりがちだが、一般的なホビアニ主人公のような「俺は/私は世界を救う!」という真っ直ぐなノリ(もちろん例外もあるが)だけでは決していかない、そんな作品こそ一定数の人が納得する「セカイ系作品」になるといえる。
それと並行して、セカイ系作品が少ない他の同ジャンル・同作家による作品と比較したうえで生じた「この作品はシリーズにしては珍しくセカイ系に近い物語構造である」といった意外性も、「一般的なセカイ系的イメージ」とは関係なくその作品の「セカイ系としての評価」に加味されたりもする。
例を挙げると、スタジオジブリ作品を一通り鑑賞している経験があれば、他のスタジオジブリ作品と同じく社会的背景が強く描写された『ハウルの動く城』や、心象描写が重視されない『崖の上のポニョ』であっても、作中の展開などにより「これはジブリ版のセカイ系だ」と実感する人も少なからず存在する。
極端な話、セカイ系的な特徴を持つ作品があったとして、よほど極端なものでない限りはそれをセカイ系か否かかを分類するのは個々人の感覚に委ねられていると言っても過言ではない。逆に言えば、セカイ系に対する認識が自分とは異なる誰かとのセカイ系についての議論は、ほぼ間違いなく不毛な結果に終わるということでもある。
もともと批判用語であったため、セカイ系という語をネガティブなものとして捉えている層も存在しており、中にはその作品を非難するためのレッテル貼りとして使用する者もいる。
確かにセカイ系的要素はそのままマイナス要素として解釈することもできなくもないため、作品の批判材料とすることも可能といえば可能ではあるのだが、現状「セカイ系」という語は、あくまでも物語類型の一呼称に過ぎないと思っておいたほうが良い。
セカイ系はもともとアンチ用語として作られたが、一方でコアなオタク層や批評家からは最も好まれるジャンルであるという二面性を持っている。
「セカイ系だから嫌い」ならば個人の好みの問題だが、内容や構成の吟味も無しに安直に「セカイ系だから駄作」と決めつけてしまうのは些か早計と言わざるを得まい。
ただし、きちんと方法論的に構築されている場合はともかくとして、描写不足や作者の知識不足等の理由によって、意図せずセカイ系的になってしまっている場合は普通に批判の対象になり得る。
しかし基本的に今となってはセカイ系という言葉は昔ほど批判的な意味合いが薄れている風潮にあり、主にファンや評論家たちが作品に感じた「セカイ系らしさ」への感覚を情緒的に強調するための専門用語のようになっている。
それでも、単純認識として定着しがちな「ロボットアニメ」「異世界転生」といった一般的な作品のジャンル分けとは明らかに一線を画すため、よほどセカイ系の概念に精通してない場合ただ人々を戸惑わせるだけの言葉になりがちであり、先述した「他人のセカイ系的認識との違い」による軋轢も発生しうるので、そもそも安易なジャンル分けに使うのは少々危険であるという前提を持っておくと良いだろう。
結局のところ、ある程度感覚が近い人同士で、節度を持ってその概念やワードをそれぞれの感覚で定義を共有し、それ以外の理解しがたいものとは適切な距離を保つことこそが「社会領域を挟まない」というセカイ系的世界観ともつながる本質的かつ安全な楽しみ方かもしれない。
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