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クイズで頭を鍛えよう!!司会の板東英二です。


概要編集

かつて日本テレビ系列で放送されていたクイズパズルゲーム番組。

放送期間は1990年10月27日1999年9月16日の約9年。

90年代に社会現象を巻き起こした。

以下のイラストは「マジカルコイン いち文字クイズ」。

マジカルコイン 30代向け


出演者編集

司会編集

板東英二が全ての回で司会を務めた。

板東は司会の他、マジカルアート等のクイズにも参加していた。また、2012年に放送された後継番組『快脳!マジかるハテナ』の第1回のゲストとして出演(初回はレギュラー回と団体戦の2本立てになっていた。(団体戦は大マジカルみたいなもの))し、『マジかるバナナ』のスタートの音頭を取った。

進行は日テレアナウンサー(当時)。

初代:木村優子(初回〜1992年10月10日)

2代目:永井美奈子(1992年10月24日〜最終回(日テレは1996年9月に退社した。))

復活スペシャル:魚住りえ

初期では「マジカル・オペレーター」とも呼ばれたりする。

(永井美奈子が司会になってからは呼ばれなくなった。)



解答者 ☆マークの着いた出演者は復活スペシャルに出演したパネラー。(レギュラーパネラーを除く)編集

初回の解答者は高田純次田中律子俵孝太郎吉村明宏糸井重里

俵と田中はレギュラー解答者。

番組の顔の所ジョージは1週遅れ・歴代最長を誇る間寛平は1クール遅れで初登場。

1991年春に女性レギュラーが田中律子から千堂あきほに替わる。

1994年に放送日が木曜に移動した後に何度か変化が起きた。

  • 1995年の春に俵孝太郎から北野大に変わり、(ただし、北野大は準レギュラー。)秋に千堂あきほから加藤紀子に替わる。
  • 1996年の秋に所ジョージから今田耕司に替わる(原因はスタッフとの確執)。
  • 1998年秋に加藤紀子が準レギュラーになり、女性レギュラー枠が消滅。

レギュラー(1枠)編集

  • 所ジョージ - 1990年11月3日~1996年10月10日・1997年9月18日・2001年12月29日

司会の板東と並び番組の顔とも言える解答者。

レギュラー放送でのトップ頭脳賞は80回、マジカルミステリーツアー獲得が10回の計90回トップを獲得しており、視聴者および番組が認める最強の解答者であり、居残り早押しクイズ時代では問題を見ずに正解を導くという荒業を見せた。

土曜日時代では所をマイナス点で正解させると所直筆のサインが送られていた。

上記の実績から常に好成績を残しており、レギュラー放送での最下位は1995年5月25日分の1回だけ。(北野大がマジカルミステリーツアーを獲得した回ではマジカルシャウトまで250点で最下位になっており、エラーを見つけたことで5位になった。)

逆に1994年以降の大マジカルではハンデ故に1人で戦っていたこともあり、所ジョージが能力別編成になってから優勝したのは復活スペシャルも含めて2回。(1991年秋のスペシャルも含むと3回。)また、レギュラー放送では珍回答を連発していた松村邦洋が1995年秋〜1996年秋まで本命チームに所属していたことが大きかったが、2001年の復活スペシャルではほとんどの問題を所ジョージが担当していたこともあり、優勝を果たした。

マジカル最強の頭脳」と言われていたが、1996年になるとスタッフとの対立が起こり、10月10日の大マジカルを以って降板。(当時は番組の卒業とされていた。)

  • 降板後の1997年9月の90分スペシャルに本命チームでチームを組んでいた松村邦洋とペアを組んでゲストとして登場。(この時の席は最後尾の8枠だった。)
  • 最終回スペシャルではVTRで出演。末期の名物クイズ『いじわる実験室』にも挑戦した。(所ジョージは『マジカルだるまさんがころんだ』と同じように「オモシロいね!!」と言っていた。)
  • 復活SPで久々にパネラーとして出演した際は頭のキレは健在であり、特に居残り早押しクイズでは全て100点を獲得しており、ほとんどの出演者を驚愕させていた。
  • 今田耕司 - 1996年10月17日~1999年9月16日
    • 準レギュラー含むと1994年7月21日からであり、準レギュラー時代は「Wコウジ」として。

所の後釜としてレギュラー出演するようになってからは相方の東野幸治はレギュラー放送では出演せず、98年春以降の大マジカルのみの出演となった。

トップ頭脳賞は所ジョージ・俵孝太郎に次ぐ14回、マジカルミステリーツアーはWコウジの時も含めて3回と1枠レギュラーに恥じない活躍を見せた。


ちなみに1枠レギュラーの所ジョージと今田耕司はマジカルの司会経験がある。(所ジョージはあるなし夏休みスペシャルで板東と共に、今田耕司は『マジカルシルエット』で板東が参加している時の代理として)




レギュラー(2枠)編集

  • 田中律子 - 1990年10月27日~1991年2月23日・1991年3月30日・1991年12月28日・1999年9月16日

記念すべき第1回のトップ頭脳賞パネラーである。

1990年12月と1991年3月のレギュラー放送には出演しておらず、蓮舫らが着席していた。

    • 降板後の1996年11月から1998年1月までは準レギュラーとして復帰。(1997年10月と1998年1月は大マジカルのみの出演。)
  • 千堂あきほ - 1991年3月30日~1995年10月16日・1999年9月16日

初期は準レギュラーだった為、出演してない回もちらほらあった。

1994年7月14日放送分で、所・俵に次いで3人目のマジカルミステリーツアー獲得者(女性パネラーとしては初。)となった。(ちなみに獲得した回はレギュラー放送111回目であり、千堂は1110点を獲得していた。)

  • 加藤紀子 - 1995年10月19日~1998年10月29日・1999年9月16日・200

1年12月29日

1994年11月から準レギュラー出演して、千堂あきほ降板後の1995年10月19日からレギュラー出演したが、レギュラー就任して間もない1995年11月2日ではゲストパネラーの山咲千里が2枠、レギュラーの加藤紀子が4枠と1991年〜1992年の千堂あきほと和田アキ子の様な席順になっていた。後にパネラー入れ替わりは1996年2月1日もあり、北野大が2枠に座り、加藤紀子が3枠と着席していたことも。

女性パネラーとしては最多のトップ頭脳賞12回・マジカルミステリーツアー3回獲得している。

上下ボックス解答席時代では8枠を除く7つの解答席に座った経験を持つ。(1枠は90分SPで所や今田とペアで、4〜7枠はレギュラー出演前のゲスト出演時。)

また、大マジカルでは5つのチームに在籍していたパネラーでもある。(『一発逆転』→『絶好調』→『要注意』→『対抗』→『本命』→『対抗』)

1998年11月5日からは再び準レギュラーとなり、加藤が不在の回では女性パネラー(主に中山エミリ)が着席していた。




レギュラー(3枠)編集

  • 俵孝太郎 - 1990年10月27日~1995年2月2日・2月16日・3月16日

初期及び中期の御意見番的パネラー。檻付きセット時代でマジカルミステリーツアーを獲得した唯一のパネラー。降板後は一切出演が無い。

所ジョージに次ぐトップ頭脳賞獲得数を持っているが、実は大マジカルでの優勝が1度も無い。

俵孝太郎降板後の正式な3枠レギュラーはおらず、主に準レギュラーパネラーが3枠に座っている。

ちなみに番組放送開始前に予告で流れていた未放送のパイロット版の映像では1枠に座っていた。


レギュラー(最後尾)編集

  • 間寛平 - 1991年1月19日~1999年9月16日・2001年12月29日
    • 基本的には最後尾だが、出演者によっては右にずれることがある。(主にグループパネラーが出演した時)

レギュラー時代の全ての解答席に座ったことのある唯一のパネラーだが、オリ付きセット時代では1度もトップ頭脳賞を取れなかった。(しかし、2位になったことはある。)

リズム系・勝ち残り系クイズでのネーム表記は所がレギュラー出演している時は名字の『間』であったが、今田がレギュラーになってからは『寛平』になっている。(『マジカルクラップ』は例外で最初から『寛平』表記。)


準レギュラーパネラー レギュラー放送と大マジカル等のスペシャルを含めて2桁番組に出演したパネラーを番組出演が早い順に記載。編集

(男性)

  • 高田純次 ☆- 1990年~1998年 第1回の他、過去に2度所ジョージの代役として1枠に着席したことがある。(その時は何故か1本撮り収録であった。)
  • 吉村明宏 - 1990年〜1991年

番組開始して最初の7回は4枠の席に座ってレギュラー出演していた。第2回の放送では板東から視聴者代表として紹介されたが、彼はれっきとしたタレントである。最後の出演回では何故か最後尾に着席していた。

初期では所ジョージの代役として1枠に座ったことがある他、所ジョージ・蓮舫らと当時の3強パネラーとして「本命チーム」に着席していたことがある。

  • 江川卓 ☆- 1991年~1999年 主に大マジカルでの出演。レギュラー放送での出演は1999年4月14日分のみ。
  • 川合俊一 - 1991年~1999年 江川同様、大マジカルの出演がメインだった。
  • 松村邦洋 ☆- 1992年~1999年 寛平の隣に座ることが多く(回によっては1席離れることもある)、95年秋〜96年秋の大マジカルと2001年の復活スペシャルではバランス調整のため所ジョージと「本命チーム」に座っていた。
  • ダチョウ倶楽部 - 1993年~1996年

毎回最後尾に着席していた。1995年秋以降は大マジカルのみの出演となり、所ジョージ降板後は一切出演が無い。

990点フィニッシュを経験したパネラーで唯一マジカルミステリーツアー獲得経験が無い。

基本的には間寛平の隣だが、3枠の席に座ったことが数回ある。

加藤紀子と同じく7つの解答席(2枠と8枠は大マジカルのみ)、大マジカルでの5チーム在籍(『大穴』→『絶好調』→『要注意』→『対抗』→『一発逆転』)を経験している。

復活スペシャルは所属事務所との契約が切れていたため、出演しなかった。

  • 北野大 ☆- 1994年6月28日~1998年7月16日、1999年2月

番組出演当初は4枠もしくは5枠に座っていたが、俵が出演しなくなった1995年2月9日から3枠に座るようになり、1998年7月16日まで事実上の3枠レギュラーとして出演していた。(時折都合で出演しない回もある)7月30日の解答席リニューアル後は98年秋と99年正月の大マジカルには出演していたが、最終回スペシャルには出演していない。

ちなみに、トップ頭脳賞とマジカルミステリーツアーを両方獲得したことのあるパネラーで唯一マジカルミステリーツアーを先に獲得している。(今田耕司はWコウジでゲスト出演した際にマジカルミステリーツアー獲得の経験があるが、あくまでWコウジでのマジカルミステリーツアー獲得であり、今田の個人でのマジカルミステリーツアーはレギュラー就任から2年後の1998年である。)

リズム系クイズでは加藤紀子が答えられなかった回答を丸パクリして答えることが多かった。

『新エラーを探せ!!』では彼をモチーフにしたキャラが度々登場した。

1994年から1995年までは「Wコウジ」としての出演。

今田耕司がレギュラーになった後は1998年春以降の大マジカルのみ出演。

個人での出演は上記の大マジカルの3回のみだが、Wコウジとしての出演は大マジカルを含むと12回のため、一応準レギュラー扱い。

マジカルに出演しなくなってからは、裏番組で所ジョージと共演した。

番組初出演は、最高視聴率を出した回である。


(女性)

田中律子や千堂あきほが不在の回では2枠に座っていた。

1991年2月に初出演した時は(所ジョージの代役としてではあるが、)初めて1枠の席に着席した女性パネラーであった。

1991年〜1992年では何故か和田アキ子が2枠、レギュラーパネラーの千堂あきほが4枠に座っていた。

マジカルvsSHOWbyショーバイでの特番では夫のヒロミと同じチームメイトとして共演したことがある。

女性出演者で1回限りのマジカルミステリーツアーを獲得した最後のパネラー。

1997年までは大マジカルの出演がメインで、1998年からはレギュラー放送にも出演するようになった。

所ジョージ降板後は97年正月の大マジカルを除いて一切出演していない。

居残り早押しクイズ時代にマジカルミステリーツアーを獲得した唯一のゲストパネラー。 着席位置は常に4枠だったが、回によっては席が前後することも。

1995年以降は大マジカルのみの出演となった。

大マジカルでの出演が主であるが、ちょくちょくレギュラー放送にも出演していた。

3枠の女性ゲストパネラーは彼女が初。因みに7枠の初女性ゲストパネラーは小松千春

山咲千里が出演しなくなった1996年春からは3枠もしくは4枠に着席するようになった。

レギュラーパネラーの加藤紀子を除き唯一3枠〜7枠の席に座った経験のある女性パネラーである。

1998年11月からは加藤紀子が準レギュラーになったことにより、2枠の席に座ることが多くなった。

トップ頭脳賞はわずか2回しか獲得していないが、加藤紀子以外で唯一マジカルミステリーツアーを複数回獲得した女性パネラーである。


(ジャニーズ)

  • SMAP - 1994年1月~1996年4月
  • TOKIO - 1995年2月~1998年3月(1998年4月以降は大マジカルのみ出演。)
  • V6 - 1996年4月~1999年9月(1998年4月23日以降はレギュラー出演していた。(通常放送のみ))

1994年度は数回であったが、1995年度から数々のジャニーズ事務所所属タレントが週替わりで出演していた。

そのうちSMAP・TOKIOはスペシャルの「大マジカル頭脳パワー!!」で2回ずつ優勝したこともある(優勝賞金100万円)。(V6は一度も優勝しておらず、1997年秋以降は裏番組の出演がある都合でTOKIOが出演するようになった。)

TOKIOはこの100万円で後に大きな知名度獲得と大きな転換期を迎える事になる。

SMAPはメンバーのいずれかが個人で出演。(稲垣吾郎と、草彅剛は1995年春の大マジカルには出演してなかった。)

TOKIOは当初は二人組で出演することが多かったが、後に松岡、城島など単独で出演。1995年11月30日では城島と長瀬が4枠と5枠の席に座っているが、元々はペアで出演する予定であり、2人のネームプレートは『TOKIO』になっていた。1996年8月29日からは正式に個人出演となった。

(90分スペシャルでは1995年春・秋を除きメンバー5人全員が出演し、最後尾に座っていた。)松岡昌宏はトップ頭脳賞とマジカルミステリーツアー獲得の両方を経験した唯一のTOKIOメンバーである。(1996年春の90分スペシャルでの『TOKIO』でのトップ頭脳賞を含めた場合は山口達也も該当する。)

V6は3人で出演の場合は最後尾に座り、それ以外の場合は6枠か7枠に座っていた。1999年では1人で出演することが増えた。

少年隊の東山紀之も数回出演していた。







VTR出演者編集

基本編集


マジカルミステリー劇場編集


鬼瓦警部と花形刑事は後に「あるなしクイズ」のVTR出演をしたことがある。








大マジカル頭脳パワー!!スペシャル編集

1991年に始まったチーム対抗戦のスペシャルである。春、秋、年末年始といった番組改編期に開催されていた。

当初、団体席の壁にはチームメンバーのローマ字表記が白文字で書かれていたが(1991年秋の『所ジョージチーム』のみメンバーが所ジョージ単独編成だったためローマ字表記が無かった。)、1993年秋からは水色の中に楕円形に銀色のSPECIAL表記が入っている壁に変更された。

オープニングクイズで失格になった際は❌️が表示されたパネルもしくはフラッグが出された。(今田耕司がレギュラーになってからはパネル固定)

1997年正月からは団体席の壁の色がチームカラーと同じになった。

1996年秋〜1998年正月と復活スペシャルではオープニングの団体席にマイクが設置されていて、1999年正月ではマジカルシャウト用の☆のランプが設置されていた。



チーム編成編集

1993年以前…3人1組の6チーム(一部の回は7チーム)編集

大字は優勝チーム

1991年春本命ヒロインスポーツ堀越東大インターナショナル

(千堂あきほが初登場。間寛平は唯一大マジカル不参加となっている。千堂あきほがヒロインチーム、田中律子は堀越チームに着席していた。)


1991年秋お笑いヒロインスポーツ所ジョージ堀越東大インターナショナル

(所ジョージは1年間のマジカルのレギュラー放送での総合得点、優勝回数が全パネラーの中でトップであったため、唯一単独出演となった。)

なお、この回はビジュアルクイズのタイトルバックが当回限定の出だしであった(マジカルスキャナを除く)。


1991年末マジカルヒロイン激論!堀越頭脳パワー!!インターナショナル

(OPで司会者に扮装したダウンタウンが登場した。(松本人志は板東英二、浜田雅功はマジカルオペレーターの木村優子。なお、マジカルチームは所ジョージ、高田純次、ラサール石井と1枠経験のあるパネラー、頭脳パワー!!チームは所ジョージ以外のレギュラー3人の構成であった。)


1992年春一文字両手に星カントリー両手に花インターナショナル

(ここの松チームは名前に松が入っているチームであり、1993年の松チームとは全く違う。間寛平大マジカル初の優勝。)


1992年秋カタカナ名前両手に団子カントリー独身モテモテ両手に花インターナショナル

(この回から優勝賞金が100万円で固定される。なお、チーム紹介時に所ジョージが「SP番組は全部優勝してる」と言っていたが、第1回の大マジカルでは優勝どころか最下位になっている。)


1993年始

1993年春すみれあざみたんぽぽれんげつくし

(大マジカル史上初レギュラーパネラーがいないチームが優勝した。)


1993年秋30代40代50代(俵孝太郎60代、五月みどり50代、故・細川隆一郎70代)20代女20代男10代小学生

(この回から大マジカルの団体席のセットが固定される。松村邦洋が遅刻して20代チーム男性に勝手に入った。テロップは『呼んでないのに来た』と表示されていた。)


1994年以降の大マジカル

1994年からは能力別チーム編成となり、チーム人数が一定しなくなった。

1996年秋まではチームによって団体席の大きさはバラバラだったが、1997年以降は団体席の大きさは均等になった。


  • 1994年からのチーム

本命チーム…チームカラーは緑。(第9回のみ橙。)

レギュラー席だと6枠→4枠に該当する。

1996年までは一番小さい団体席になっていた。

主な在籍パネラー…所ジョージ・今田耕司

優勝 4回


対抗チーム…チームカラーは橙。(第9回のみ水色。)

レギュラー席だと4枠→6枠に該当する。

1996年まではやや小さな団体席になっていた。

主な在籍パネラー…千堂あきほ・俵孝太郎・加藤紀子

優勝 4回


名門チーム…チームカラーは第12回までは青。第13回以降はピンク。

レギュラー席は1枠→3枠に該当する。

主な在籍パネラー…北野大・山咲千里・麻木久仁子

優勝 1回


絶好調チーム…チームカラーは第12回まではピンク。第13回から第24回は紫。復活スペシャルでは3枠に移動し、青になった。

レギュラー席は3枠→7枠に該当する。

なお、絶好調チームの第12回までの団体席はであったが、当時はレギュラー席7枠体制で、8枠がまだレギュラー放送で登場してなかったことと、個人解答席がピンクであったため、ピンクと記載した。

優勝 0回


一発逆転チーム…チームカラーは第12回までと第22回は黄緑。第13回から第24回(第22回を除く)は赤。復活スペシャルでは後述の要注意チームと場所替えし、再び黄緑に戻った。

レギュラー席は2枠→8枠に該当する。

1994年ではやや大きい団体席になっていたが、8チーム編成になってからは普通の大きさになった。

8チーム編成時での個人解答席では唯一、8枠の赤色席に該当するためかチーム名の上の白いラインが引かれていない。

優勝 2回(2回とも6チーム編成時 8チーム編成時での優勝は無い。)


大穴チーム…チームカラーは黄色。(唯一チームカラーの変更が無い。)

レギュラー席は5枠に該当する。

主な在籍パネラー…間寛平(第10回は一発逆転チームに在籍していた。)・ダチョウ倶楽部・久本雅美・松村邦洋(95年春までと所ジョージ降板後の大マジカルで在籍。(97年春を除く))

優勝 0回


  • 以下は1995年春に追加されたチーム。

一番人気チーム…チームカラーは青。(第17回は黄緑。)

レギュラー席は1枠に該当。

新たに増設されたジャニーズ枠専用のチーム。1995年春と1995年年末〜1996年春まではSMAP、1996年秋〜1997年春まではV6(1997年秋以降は裏番組の出演があるため不参加。)、それ以外の回では全てTOKIOが出演していた。

第17回では団体席の色は黄緑であり、やや大きい団体席になっていたが、個人解答席は青のままであった。

優勝 4回(SMAP·TOKIOで2回ずつ)


要注意チーム…チームカラーは黄緑。(第17回・第22回を除く。)第17回は青。第22回と復活スペシャルでは赤。(復活スペシャルでは一発逆転チームと場所替えしていた。)

レギュラー席は2枠に該当。

第13回〜第16回までは団体席の大きさはやや大きかったが、第17回は前述の一番人気チームとチームカラーが変更されていて、団体席は通常の大きさになっているが、個人解答席は黄緑のままであった。

優勝 3回


  • 復活スペシャルのみに登場したチーム

気合十分チーム…チームカラーは紫。(レギュラー時代で絶好調チームがあった5枠の位置に置かれている。)

ジャニーズ枠が撤廃されたことで登場したチーム。最終結果は8チーム中3位の成績であった。(しかし、獲得した点数は1220点であり、2位の名門チームとは450点も離れている。)



大マジカル以外のスペシャル編集

あるなしクイズ系編集

  • あるなし夏休みスペシャル

1992年8月15日に放送されたあるなしクイズをメインにしたあるなし夏休みスペシャルが放送。所ジョージと板東英二が司会者席に立ち、2チーム対抗戦の戦いとなる。

オリを模したセットに入り、解答の際は(ナイショ)の所に用意されたマイクに解答する。正解するとオリが開かれて解答席に戻ることができる。この回で板東英二が初めてクイズに参加した。優勝賞金は1,999,998円。(木村優子曰く(所と板東を含むチームメンバーが)6人いるから6で割り切れるようにしたと言う。)

チームメンバー

TOKOROチーム リーダー所ジョージ

高田純次・松本伊代・俵孝太郎・瀬川瑛子諸星和己

BANDOチーム リーダー板東英二

千堂あきほ・村野武範・森口博子・ドクター中松・間寛平


  • あるなし紅白スペシャル

あるなし夏休みスペシャルから約2ヶ月後に開催された紅白歌合戦を模した対決であり、紅組が和田アキ子をリーダーとした女性チーム、白組は所ジョージをリーダーとした男性チームになっており、クイズのルールは夏休みスペシャルと同じ。賞品は100万円分の松茸であった。

なお、この回を以って初代マジカル・オペレーターの木村優子が卒業となった。


あるなしスペシャルは2回とも所ジョージの所属するチームが優勝した。



90分スペシャル編集

通常より30分も放送枠を拡大したスペシャルである。

いずれの回でも大マジカルの前に放送されている。

90分スペシャルでは2000点を超えるとマジカルミステリーツアー御招待となるが、達成したパネラーはいなかった。


  • 1994年12月22日 クリスマススペシャル

この回で初めて8枠が増設され、セットはクリスマス仕様になった。「マジカルインスピレーション」、「マジカル伝言バトル」、「おぼえてしりとりバトル」が初登場となった。

また、クリスマススペシャルということなので、今回に限り居残り早押しクイズのタイトルバックがいつもと違う派手な出だしとなる。


  • 1995年3月16日 150回記念春休みスペシャル

150回記念とあるが、実際は150回では無い。

歴代スペシャル視聴率1位の回である。

俵孝太郎が最後のレギュラー出演かつ番組出演。「マジカルジグソー」が初登場したが、1回限りで終了した。

この回限定で居残り早押しクイズ(タイトルバックは1994年のクリスマススペシャルとは違い、通常の出だしだった)が復活し、居残り早押しクイズとノンビジュアルクイズを織り交ぜた回となった。


  • 1995年9月26日 200回記念大感謝スペシャル

200回記念とあるが、実際は200回ではなく、150回である。

この回と次のクリスマススペシャルでは7枠と8枠が無く、6枠編成となっている。

この回から2人1組のペア対抗戦となったが、所ジョージのみ単独出演。

間寛平はこの回では2枠(ペアの相手は2枠レギュラーの千堂あきほ)になっており、最後尾の6枠は北野大(ペアの相手は定岡正二)が着席していた。

スペシャル限定クイズの「マジカルイマジネーション」、後にマジカルシャウトでも出題される「超インスピシャウト」が初登場。


  • 1995年12月16日 クリスマススペシャル

この回から2000点を超えるとペアでマジカルミステリーツアー御招待となる。

スペシャル限定の「スペシャルバナナ」、「マジカルクラップ」が初登場。


  • 1996年3月14日 春休みスペシャル

この回から2人1組の8枠編成となる。(8枠のTOKIOのみ5人1組)

定岡正二はスケジュールの都合で途中退席。

この回のスペシャルバナナではTOKIOのメンバーが長瀬しかおらず、松村とペアを組んでいた麻木久仁子はCM明けではいなくなっていた。


  • 1996年9月19日 秋スペシャル

永井美奈子が日テレアナとして最後の出演。

「マジカルじゃんけん」、「マジカルプッシュ知らなきゃ押しつけろ!!」が初登場。


  • 1996年12月19日 クリスマススペシャル

「マジカル裏バナナ」、「マジカルテン 超えたらドボン」が初登場。(マジカルテンはこの回限り)


  • 1997年9月26日

最後の90分スペシャル。

「マジカルぞうさん」、SP限定クイズ「ものまねワンダーランド」が初登場。

この回で「エラーを探せ!」、「マジカルシャウト」、「マジカルだるまさんがころんだ」以外の長らくやっていたクイズが終了した。

約1年ぶりに所ジョージが出演したが、レギュラー出演時の1枠ではなく、ゲスト扱いで8枠に座り本命チームで一緒だった松村邦洋と組んだ。


その他編集

1997年7月10日の放送分でもペア対抗戦を行ったが、放送時間は通常放送と同じ1時間であった。


内容編集

共通編集

数種類のクイズとゲームで「頭脳指数」と呼ばれる得点を獲得していく。

また視聴者からの出題の応募も受け付け可能で、実際に採用・出題されたものも数多く存在する。

その回で最も多くの頭脳指数を獲得した解答者には、トップ頭脳賞として賞品(初期は世界のステーショナリーグッズ(万年筆ボールペンなど)→JCBの旅行券10万円分→NICOSの商品券10万円分(90分スペシャルでは20万円分))が贈られる。1000点以上を獲得した場合は「マジカルミステリーツアー」(海外旅行)が贈られる(この場合はトップ頭脳賞は無し)。

なおスペシャルでは団体戦であり、優勝したチームは100万円(1997年春のみ200万円)がもらえるが、初期は3人のため端数(100万2円・100万5円等)になっていた。


収録について編集

1本の収録で2本撮りする事がほとんどであり、3ヶ月にレギュラー放送の8〜9回分収録するため、マジカルに出演するパネラーはスケジュール調整をしなければならない。

また、1994年のクリスマススペシャルで8枠が登場していたにもかかわらず、1995年1月12日放送で7枠編成になっていたのは1994年12月8日分と先に2本撮り収録していたためであり、その後に1994年のクリスマススペシャルの収録を行った。

※スペシャルを挟んでの放送は、1991年12月21日・1992年1月11日、1992年3月21日・同年4月18日、1992年8月1日・同年9月5日、1993年9月4日・同年10月23日位であろう。


1990年10月~1991年3月編集

芦ヶ原伸之監修のもと、マジカル君の出すクイズをフリップで書き答える。シンキングタイム開始の合図はタイトルに因んで「パワーオン!

内容はなぞなぞマッチ棒パズル・「マジカルミステリー劇場」などであった。のちに早押しで活躍するあるなしクイズマジカルスキャナも登場していた。

特徴は頭を鍛える即ち面白い解答・模範解答よりすごい解答を考えるのが基本である。つまり答えは一つじゃないという事。

頭脳指数は得点であると同時に難易度の目安でもあり、100を基準に最高は200であった。

また最初期には「ユーモア」・「発想」・「知識」・「計算」からなるパワーチャートが存在。

正答すれば頭脳指数と同様の得点を獲得できるのだが、前述の解答には+αがもらえる。

だがひどい解答には減点がなされる場合もある。その基準は日曜夕方の演芸番組に似たような所である。

マイナス点の概念や10点単位のために1点単位やマイナスは手書きで表記されたことがあった。

なお最終問題「マジカルミステリー劇場」は頭脳指数の2倍の得点を獲得できる。また、初期の半年間だけ長崎県では放送されていない。


1991年4月~1993年12月編集

最初のスペシャルで田中律子から千堂あきほに替わる頃に早押しクイズが登場した。

最初の半年間は普通の早押しであり、1000点突破が困難になった。

しかしその課題は半年後の檻付きお手付きなし恐怖の居残り早押しクイズになって解消された。特徴は早く答えるほど高得点であり、もたもたするとマイナスになる。

また正解の部分は(ナイショ)で隠されており、視聴者も最後まで答えを考えられるようになった。

内容はあるなしクイズエラーを探せ!・マジカルスキャナ・シャッフルクイズなど多種多様。

成績が非常に優秀だった所ジョージが、マイナスで正解した、もしくは最後まで正解できなかった場合は所が降参した証として出題者にサインがもらえるというルールも存在し、実際に獲得した人もいた。

そのため早押し等で即答する所・所VS板東・所VS番組との掛け合い・司会者の正解ポロリ等が見どころであった。

この頃のスペシャルにあるなしクイズに特化したあるなしスペシャルであったり、日テレ系クイズの先輩にケンカを売ったりしていた。結果はマジカル頭脳パワーの勝利であり、相手側の看板商品をせしめたうえに、司会を当番組に回答者として出演させることになった。ちなみにこれはもし負けていたらマジカル頭脳パワーが看板商品を提供する側になっており、板東英二が相手側に回答者として出演することになっていた。※

1992年5月頃から書き問題消滅とともに「エラーを探せ!」と6枠が初登場。

1992年10月頃から正解スキップと永井美奈子が初登場。

1993年10月頃から7枠が初登場。7枠導入初期の6枠には小学生限定の視聴者代表が着席していたが、のちにパネラー席にてが廃止されるとともに、長年親しまれたボックス席に変更された際には、小学生限定の視聴者代表も廃止された。また、木曜最初の放送となった1994年4月には、同じく視聴者代表のクイズ王・道蔦岳史が出演しており、マジカルの歴史上、視聴者がパネラー席に座ったのは道蔦含めて4人であった。


※板東英二はあちらの司会が闘病のため一時降板していた際に代理の司会者として2度出演した。


1994年1月~1994年12月編集

当年春に放送曜日が土曜から木曜に移って、フライングスタートを始めた。

マジカルシャウトマジカル伝言バトルがこの頃から誕生した。

マジカルシャウトは数々の珍解答を生み出し、番組末期まで行われたクイズとなった。

この頃のスペシャルから成績別になり、人数もまばらになっていた。

1994年12月頃から2000点でマジカルミステリーツアーの90分スペシャルと8枠が登場した。


1995年1月~1997年12月編集

この頃からビジュアルクイズが撤廃され、ゲーム的な要素が強くなり、マジカルバナナ等の数々のゲームを流行らせた。

ただこの頃は言葉遊びや連想・スピード系が多く、従来とは違う形で頭を使う番組で機能していた。


1998年1月~1999年9月編集

前年秋に「エラーを探せ」と90分スペシャルが終了するなどクイズ・ゲームを大幅チェンジ。

1998年に「マジカル可能?不可能?」がスタートしてからは徐々に頭より体を使い、パネラーが解答席外にいることが基本にゲーム主体と、当初の内容とはほぼ正反対になってしまった。

そのことが相まって視聴率も徐々に低下し、企画・総合演出を務めていた五味一男の意向もあり1999年の秋に終了という決断を選んだ。



2001年12月編集

一夜限りのスペシャルとして復活。

内容はレギュラー時代のスペシャルと同じく団体戦で行われ、クイズ・ゲームは過去のマジカルで人気を博したものを目白押しさせた内容だった。


クイズ・ゲームなどの内容編集

マジカル頭脳パワー!!のセット・クイズ・ゲーム一覧」の記事を参照


990点フィニッシュ編集

マジカルのレギュラー放送にて番組終了時にあと10点で1000点になる得点で終わる事である。必ずラストクイズで起こる。

番組で初めて990点フィニッシュになったのは1991年11月30日の所ジョージである。

ラストクイズが『マジカルミステリー劇場』の時に990点フィニッシュになったのはこの1回のみであるが、ラストクイズが『エラーを探せ!』になってからは990点フィニッシュが多くなった。1994年12月8日放送分で俵孝太郎が990点フィニッシュとなったことで初めて所ジョージ以外のパネラーが990点フィニッシュを経験したことになった。

990点フィニッシュの回数が一番多いパネラーはやはり所ジョージであり、200回記念スペシャルの1990点も含めて8回。他の経験者は俵孝太郎・池谷幸雄・北野大・間寛平・中山エミリの5人であり、俵孝太郎のみ複数回経験し、池谷幸雄のみマジカルミステリーツアーを獲得していない。

990点フィニッシュはラストクイズでマジカルミステリーツアーが賭かっていて、正解したものの得点が10点足りなかった場合に発生しており、ラストクイズ突入時点で690点だったパネラーが300点を見つけて990点になったり、ラストクイズ時点で990点のパネラーがラストクイズを正解できずにそのままフィニッシュになったことは1度も無かった。(ラストクイズ時点で990点だったのは1995年2月16日の定岡正二と同年9月7日の所ジョージであり、いずれもその放送分で一番得点の低いエラーを答えてマジカルミステリーツアーを獲得した。)

番組での読み方は『きゅうひゃくきゅうじゅってん』ではなく、『きゅうひゃくきゅうじってん』である。

990点フィニッシュになるとトップ頭脳賞を獲得できるが、1994年10月27日分ではゲストパネラーの山咲千里が1000点を突破してマジカルミステリーツアーを獲得したため、990点フィニッシュが発生した回で唯一トップ頭脳賞獲得者が現れなかった。(この回で990点フィニッシュになったのは所ジョージ。)


余談編集


関連イラスト編集

たぶん今のヤングはこんなの知らないと思うんですけど(名推理)


関連項目編集

クイズ番組 日本テレビ

板東英二 所ジョージ


森功至来宮良子小林清志・村嶋亜矢香:ナレーター


陣内智則:この番組のパロディコントを披露している。

ダウンタウンのごっつええ感じ ぐるぐるナインティナイン パロディコントがあった番組。

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