ラビットスクーター
らびっとすくーたー
第二次世界大戦(日中戦争・太平洋戦争)敗戦により、飛行機を作ることが出来なくなった中島飛行機は、富士産業と改名したのはよかったのだが、何をしていいのかわからない状況に陥っていた。
そんな中、現在のSUBARU大田北工場および東京事業所は、進駐軍の兵士が乗り回していたアメリカ製スクーターを見て、「日本の復興にこれは役に立つはずだ。俺達の手で作らなければ」と考え、当時の日本の状態も考慮した上で開発を行った。
1946年にプロトタイプが完成、1947年から市販に移された。なお、東京事業所によるプロトタイプは「ポニー」という名前が付けられたが、ヤンマーが既に商標を取得していた(後に360㏄ディーゼルエンジンの軽トラックに使用)ことから、大田北工場によるプロトタイプの名称であるラビットに統一されている。
以後、改良やモデル追加などが行われ、合わせて40タイプが製造・販売されている。
だが、取り扱いが簡単な原付バイク・ホンダスーパーカブや、よりによって富士重工が開発した軽四乗用車・スバル360などに押されてしまう。
そして1968年6月29日にラインオフした車両をもって、20年以上にわたる歴史に終止符が打たれたのだった。
1951年に将来的な撤退を見越し工場を縮小し合理化を図る過程で、二輪車事業からの撤退に反対するグループが会社を分裂させて三光工業を設立、競合製品であるジェットスクーターを生産するというお家騒動が発生した。三光工業は1955年に倒産したが、サンカー工業(日本内燃機、後の東急くろがね工業から一部社員が独立して設立されたオート三輪メーカー)と合併しサンカージェット工業となって製品名もジェット号と名を変えなおも継続しようとしたものの、結局1956年に倒産している。
ライバルとしては、中日本重工のシルバーピジョンが存在した。こちらも1946年に誕生したが、その中日本重工が開発した軽四ライトバンの売れ行きが予想以上によかったため、シルバーピジョン(およびオート三輪のみずしま号とレオ)の生産ラインをそれに振り向けるハメになったことから、一足早い1964年に製造・販売が打ち切られた。
ラビットの製造・販売終了によって日本のオートバイ市場からスクーターは姿を消したが、それから9年後の1977年にヤマハ発動機がパッソルを発売、約9年ぶりに日本市場にスクーターが復活した。
ラビットスクーターに使われていたエンジンは汎用エンジン「ロビンエンジン」として富士重工本体や子会社である富士ロビンにて近年まで製造が続けられていた。このディーゼルエンジン版をロイヤルエンフィールドのバイクに搭載した「エンフィールド=ロビン・D-R400D」が一時期イギリスにて製造された。
現在では、今のスクーターにはない鉄製で重厚なスタイルから、ライバルのシルバーピジョン、そして外車のベスパやランブレッタ等と並んで熱心なマニアがおり、専門店も存在する。
但し部品が入手困難なのはもちろんの事、現在のスクーターとは構造が全く異なるので、維持には知識を要する。