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PCCカーとは、1930年代にアメリカで開発された路面電車車両。北米の路面電車事業体や鉄道車両メーカー、機械メーカーが参加した「電気鉄道経営者協議委員会」によって開発され、多数の新技術が用いられた高性能電車である。

本項ではPCCカーの影響を受けて北米圏外で開発された車両についても解説する。


開発経緯編集

第二次世界大戦前のアメリカでは大都市から中小都市に至るまで多数の路面電車が運行されており、車両総数は1930年時点で85000両を超えていた。

しかしこれらの車両は製造から20年から30年経過しており、老朽化や陳腐化が課題となっていた。

さらに急速なモータリゼーションの進展に伴い自動車化の流れが進み、路面電車を廃止して路線バスに置き換える都市も増えていた。

加えて第一次世界大戦後から経済恐慌に至る不安定な経済情勢も路面電車に深刻な影響を及ぼしていた。

この状況を打破するため、1921年にアメリカ電気鉄道工学協会は標準型車両の必要性を提唱。各地の事業者やメーカーを集めた委員会を結成した。当初は各事業者側から抵抗が強かったが、1926年に開催された米国電気鉄道協会の会議を機に、急速に発展する自動車との競争に打ち勝つには基本的な仕様を統一し、コスト削減を図り経済性を重視した標準型車両の開発が不可欠であるという意識が次第に高まり、1929年に電気鉄道経営者協議委員会(ERPCC:Electric Railway Presidents' Conference Committee)が発足した。

委員長には各地のインターアーバンの経営改善を成功させた実績を持つトーマス・コンウェイJr.が指名され、1930年にコンウェイは主任技師としてデトロイトエジソン社の研究部長だったクラレンス・F・ハーシェフェルドを任命した。ハーシェフェルドは熱力学で功績を上げた人物で鉄道車両の開発に携わったことはなかったが、伝統に縛られない発想を求めて起用したという。

1934年にウォームギア駆動方式のモデルA台車とハイポイドギア駆動方式のモデルB台車という2種の試作台車が完成。同年にERPCC参加メーカーによる試作車を加えてアメリカ各地の路面電車路線で試運転が実施された。

世界恐慌の影響で新型車両の開発は当初の見込みである3年間を超過してしまったが、研究は着実に進み1935年にERPCCは会社組織「TRC(Transit Research Corporation)」となり、各メーカーがライセンス料を支払いTRCが技術提供や開発指導を実施するという形で生産体制が整った。

1936年にニューヨークブルックリン・アンド・クイーンズ交通への導入を皮切りに1952年まで総数5000両近くが製造された。


構造編集

基本的には1両編成の単車だったが、ボストンフィアデルフィアトロントなどで導入された車両には連結器を備えて連結運転も可能となっていた。

車体の製造はアメリカではセントルイス・カー・カンパニーとプルマン・スタンダード、カナダではカナディアン・カー・アンド・ファクトリーで行われた。

車体は全溶接式の高張力鋼で大幅に軽量化が実現、当時流行していた流線形を取り入れたスマートな外観が特徴。

さらに機器の冷却に用いた空気により床下暖房が搭載されていた。

標準軌(1435mm)のほか狭軌(1067mm)、さらには広軌(1638mm)対応の車両が製造された。


単行運転を前提としたため基本的に両運転台だが、ループ線を採用した路線向けに片運転台車も製造された。この片運転台車のうち戦後に製造された車両には幕板部にHゴム支持の固定窓が設けられており、日本では路線バスに多く用いられたことからバス窓と呼ばれる。両運転台型は戦後に製造された車両も1段窓でありバス窓は採用されていない。


複雑な主幹制御器やブレーキバルブの操作が不要となったため運転台の構造が見直され、速度制御装置には自動車のようなペダルが設けられた。足元に加速・減速・デッドマン装置のペダルが置かれ、運転士は基本的に運転中握り棒を掴んで運転していた。

足回りは騒音の軽減のため車輪の外側と内側の間に防振ゴムを挟み、ボルトや押さえ金で固定する弾性車輪を採用。騒音の大幅な低減が実現した。

モーターはゼネラル・エレクトリックおよびウェスチングハウス・エレクトリックで製造された出力55hp(41kW)を計4個装備していた。ただし高速運転を行う必要があったフィアデルフィアでは出力75hp(55.9KW)のモーターを装備していた。

駆動方式は振動や騒音を抑制する効果を持つハイポイドギアを採用した直角カルダン駆動、制御方式は従来車と同じ抵抗制御だが、スムーズな加減速を実現するために抵抗段数が従来の10段~20段から大幅に増やされたドラム式のものが搭載され、ウェスチングハウス・エレクトリック製のものは力行82段・制動61段、ゼネラル・エレクトリック製のものは加減速共に136段となっていた。

ブレーキは電気ブレーキで、保守の簡素化と騒音の低減を図っている。停止直前には電気ブレーキの効果が弱まるため、密閉式のドラムブレーキを装備していた。このブレーキは当初は圧縮空気で起動していたが、防振ゴムが摩擦熱で劣化することから1940年に製造された車両からは電気式に改良された。


運用編集

前述のように1936年のニューヨークのブルックリン・アンド・クイーンズ交通がPCCカーを運行した路線の第1号である。PCCカー開発に際し車両や実験線を提供するなど多大な貢献をしたことがその理由とされている。

続いてピッツバーグボルチモアシカゴに導入された。ボルチモアでは試運転の段階で多数の市民が集まりパレードの様相になり、シカゴでも運行開始初日に50万人が押し寄せたという。

戦時中は製造数が減少したが、戦後に大量生産が再開。シカゴのシカゴ・サーフェス・ラインでは総数683両のPCCカーを導入し最大勢力となった。

しかしモータリゼーションの進展により路面電車そのものの廃止が相次ぎ、製造コストも高騰。

1952年にサンフランシスコ市営鉄道が購入したのを最後にPCCカーの新規製造は終了した。

以降北米では路面電車の製造が長期にわたって途絶えることとなり、廃止となった事業者からPCCカーが他社に譲渡される事例が発生した。カナダ・トロント市電では新造車・譲渡車併せて765両を運用し歴代最大勢力となった。

1970年代以降はアメリカで標準型路面電車(USSLRV)が、カナダでCLRVとそれぞれ後継形式の量産が始まったこと、路面電車がライトレールに高規格化されたことから廃車が進んでいった。

残存するPCCカーは1990年代からは世界の路面電車史に残る歴史的名車となったことから動態保存的な運用が行われるようになり、中でもフィアデルフィアで運行される車両などではペンシルベニア州のブルックビル・エクイップメント・コーポレーションで近代化改修を受け、Wi-Fiに対応し車椅子リフトまで搭載するなど現代の路面電車とも遜色ない仕様に魔改造されている。


高速鉄道への応用編集

PCCカーに導入された直角カルダン駆動などの技術は、地下鉄や通勤電車などの鉄道用車両にも応用され、ブルックリン・マンハッタン・トランジットが1939年に導入したブルーバードと呼ばれる連接式電車を皮切りにアメリカ各地にPCCカーの技術を応用した電車が導入された。

しかし当然ながら路面電車用の技術であるPCCカーの技術を直接利用するのは不向きであり、自動ブレーキや電気指令式ブレーキ、電空カム軸制御装置や圧延車輪など高速電車用の機構が取り入れられた。速度制御も通常の主幹制御器を採用した。


北米以外のPCCカー編集

TRCは製造メーカーとのライセンス契約で技術提供を実施しており、北米以外の鉄道車両メーカーでもライセンス契約を締結してPCCカーを製造していた。


アメリカ、カナダに続いて製造が始まったのはイタリアのフィアット社だったが、戦時中の空襲で試作車が大破するなど大規模な被害を受け、本格的な量産が始まったのは戦後だった。

トリノ市電に導入され、超低床電車が就役した2000年代まで活躍。その後も動態保存されている。


スペインもフィアット製PCCカーをマドリード市電に導入した。戦時中に1両がドイツ軍に接収されたが、その代替車を含めて50両が運用された。

またCAF社による国産化も行われ、1972年の市電廃止まで活躍した。


ベルギーではBN(現:ボンバルディア)とACEC(現:ユミコア)がライセンス契約を結び、1947年にアメリカから試作車を輸入。1949年から1950年にかけて国営企業体ヴィシナルが運行する路面電車に導入されたが、従来車と隔絶した仕様から早々と運用を離脱。ベオグラード市電に譲渡された。

一方ブリュッセル首都圏交通でも同型車が導入され、こちらはアメリカでの廃車発生品を輸入するなどして増備され、1970年代からは独自仕様の連接車も導入している。

このほかアントウェルペンヘントでもBN製PCCカーが導入された。


オランダではデン・ハーグ市電が1949年から1975年にかけてベルギー製PCCカーを多数導入した。

1993年までに全車両が引退したが、置き換え用に導入したGTL-8形はデザインにPCCカーの影響が見受けられ、さらに足踏みペダル操作も踏襲している。


マルセイユサン=テティエンヌの市電にベルギー製のPCCカーが導入された。

1958年にはBN社とのライセンス契約でストラスブールのAteliers de Strasborgでサン=テティエンヌ市電向けの車両が製造されている。


西ドイツではデュワグ社が開発したデュワグカー(後述)が主力となり、1951年にハンブルク市電に導入されたBN社製の1両のみが唯一の純正PCCカーとなった。この車両は1958年にブリュッセルに譲渡されている。


ベオグラード市電ではベルギーのヴィシナルから譲渡された車両のほか、1952年にBN社製の新造車両を5両導入している。


急増する輸送需要に対応するため、戦後すぐのころからタトラ国営会社スミーホフ工場がTRCとライセンス生産に関する交渉を行い、1947年に契約が成立。

1951年に試作車が、1952年から量産車が製造されたタトラT1を始めとする「タトラカー」が東側諸国で多数運用された。


戦前からPCCカーの導入は検討されていたが、実際に導入されたのは1953年のブラックプール・トラムなどに導入されたチャールズ・ロバーツ製のものが唯一となった。


1952年にストックホルム市電に2両が導入された。TRCとのライセンス契約によりアセアで製造されたが、以後の増産は行われず1960年代に廃車となった。

1両が現存し、マルムショーピングの路面電車博物館に保存されている。


戦前よりメルボルン市電での導入計画があったが、第二次世界大戦の勃発や戦後の経済復興政策の影響で1950年に980号1両が試作されたのみにとどまった。

駆動装置や制御方式はPCCカーのそれだったが、車体は従来車と同じデザインで速度制御も通常の主幹制御器を用いていた。

1970年代にはこの試作車の機器を流用して新たな試作車1041号が製造。今度は足踏みペダル操作が取り入れられた。

この試作車の運用実績をもとにZ1形が量産された。しかし1041号車は機器類をZ1形と同等のものに交換しても不調だったことから1984年に廃車となった。

現在は980号がビクトリア州路面電車博物館協会、1041号がメルボルン路面電車博物館に保存されている。


ポーランドではタトラT1の技術をもとに国産した13N形を初めとするPCCカーに準ずる車両が導入された。

1967年からは2車体連接車102N形、1974年には車体構造が大幅に変更された105N形が導入された。


センシティブな作品

1954年に東京都交通局都電)が導入した5500形のうち、トップナンバーの5501号車はTRCとのライセンス契約を結びPCCカーの技術を利用した純正PCCカーとなった。

しかしライセンス料が高価だったこと、部品の多くを輸入に頼る必要があったこと、従来車と仕様が大幅に異なることなどが乗務員から不評を買い、以後の量産車はWN駆動と弾性車輪を採用した「和製PCCカー」へと移行した。


同時期の高性能路面電車編集

PCCカーの与えた影響は世界におよび、PCCカーの開発に触発され各国で高性能路面電車がPCCカーを参考に、あるいは独自に開発された。


ブリルライナー編集

電気鉄道経営者協議委員会から離脱したブリル社が独自に製造した高性能路面電車。

基本構造はPCCカーと共通するが、台車はブリル製の独自のものを採用した。

PCCカーの特許使用料で折り合いがつかなかったペンシルベニア鉄道の子会社アトランティック・アンド・シーショアー鉄道などに導入された。

日本では「或る列車」や路面電車用の台車メーカーとして知られるブリル社だったが、1941年に生産は終了。1944年にはブリル社そのものが廃業してしまった。


マジックカーペット編集

サンフランシスコ市営鉄道に導入された高性能路面電車。

当時のサンフランシスコ都市憲章では特許料支払いが禁じられており、PCCカーのライセンス料支払いを回避するため、PCCカーに類似しているが特許に抵触しない車両として開発された。

基本構造はPCCカーと共通するが、足踏みペダルではなく主幹制御器による操作を採用している。

「マジックカーペット」という愛称は騒音の少なさから魔法の絨毯に例えられたことに由来する。

その後都市憲章が改正されたことでサンフランシスコでもPCCカーの導入が可能となったが、ワンマン運転への対応が難しいとして1957年に全車廃車となった。

1両がカリフォルニア州のウェスタン鉄道博物館に保存されているほか、サンフランシスコ市営鉄道Fラインで動態保存されているPCCカーの1010号車はマジックカーペット塗装を纏っている。


M-38形・RVZ-50形編集

PCCカーに触発されてソビエト連邦で開発された大型ボギー車。まずM-58形がモスクワ市電に導入され、1950年には産業スパイ活動で入手したPCCカーの技術を取り入れたRVZ-50形が開発された。

これらの技術が応用されてRVZ-6形に至った。


デュワグカー編集

年を忘れる文化…悪くないな【日刊桐沢】

西ドイツのデュワグ社が開発した高性能路面電車。

輸送力増強のため導入された規格型の大型ボギー車で、車輪の外枠と輪芯の間にゴムブロックを挿入し騒音を低減した。

初期の車両はツリカケ駆動だったが1954年以降は直角カルダン駆動が採用された。

付随車を連結して運転することも可能だったが、1956年には更なる低コスト化のため連接車も製造開始。西ドイツの各都市で運用された。

日本では広島電鉄ドルトムントで使用されていた2編成が導入され、70形として運用していた。


タトラカー編集

チェコ・プラハタトラ国営会社スミーホフ工場でライセンス生産されたPCCカー。

1949年にソ連主導で共産主義国家による経済協力機構の経済相互援助会議が結成されて以降、路面電車の標準型として東側諸国に輸出された。

1976年に製造を開始したタトラT5形以降はPCCカーに由来しない独自技術が採用されている。

日本では土佐電気鉄道(現:とさでん交通)が1994年にプラハで使用されていた1両を輸入したが、営業運転に就くことがないまま2006年に惜しくも解体されてしまった。


和製PCCカー編集

1950年代に製造された日本の高性能路面電車の総称。PCCカーの影響を受けて開発されたことが名称の由来である。

騒音と振動が抑制されたことから「無音電車」とも。

都電5500形の運用実績から純正PCCカーの導入は1両のみに終わったが、その新技術は路面電車事業者の関心を集め、1950年代以降直角カルダン駆動や弾性車輪、発電ブレーキを搭載した路面電車が日本各地に登場した。

東京横浜名古屋京都大阪神戸の6大都市で路面電車を運営していた公営事業者は「無音電車規格統一研究会」を立ち上げ、そこで定められた統一仕様に基づいて新型車両が多数導入された。


足踏みペダルではなく主幹制御器による操作が採用されたほかは、弾性車輪、カルダン駆動、間接制御、電気ブレーキなどPCCカーの主要な要素を踏襲していたが、駆動方式についてはWN駆動や中空軸並行カルダン駆動などを採用した車両もあった。

また間接制御はPCCカーのドラム式ではなく地下鉄・郊外電車由来のカム軸式が用いられた。

1951年の横浜市電1500形がその先駆けとされているが、駆動方式はツリカケ駆動で設計時は装備していた弾性車輪も装備が見送られるなど保守的な構造であるものの、間接自動制御や防振ゴムを採用した台車など新技術を盛り込んでいた。

1953年に都電5500形(5502号車)や大阪市電3000形が導入され、日本各地で新機軸を導入した路面電車が多数導入された。

特に成功例と言われるのが大阪市電と名古屋市電である。

名古屋市電ではツリカケ駆動ながらもPCCカーに準ずる構造のブレーキや弾性車輪を採用した1800形に始まり、PCCカーと同様の輸入部品を用いた1900形、その改良型2000形が導入され、市民からは「忍び足の電車」と称され、あまりの静かさに「警笛を大きくせよ」との批判まで出た。

大阪市電では3000形での試験を経て、台車や内装に改良が施された3001形が導入された。


一方で神戸市電では故障の頻発や従来車との操作性の違いに伴い乗務員に不評だったことから、カルダン駆動・間接自動制御の1150形がツリカケ駆動・直接制御に改造された。

土佐電気鉄道でも創業50周年を記念して導入された500形はわずか1両の少数勢力だったこともあって、ツリカケ駆動に戻されている。

都電でも7000形以降では間接非自動制御が採用され、駆動方式もツリカケ駆動となった。

モータリゼーションの進行により日本の路面電車も衰退していき、大阪市電は1969年、名古屋市電は1974年に全線廃止。電車の新造数も縮小し、1978年に「軽快電車」プロジェクトが始動するまで日本の路面電車技術は停滞期を迎えることとなった。


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