概要
スヘルデ川河口の両岸はオランダの国土で、アントウェルペンが北海からベルギーへの入り口となる。
略歴
1183年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によりブラバント公国が創設され、その中心都市となる。その後ブラバンド公国はブルゴーニュ公の領土となる。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長子フィリップが母であるブルゴーニュ公マリーからブラバンド公国を相続し、以降はハプスブルク家の領土となる。
16世紀にはアルプス以北における最大規模の都市となり、スパイス、銀、毛織物などの交易の中心となり黄金期を迎えた。
1795年、フランス革命軍に占領され、アントウェルペンの人口は4万人以下に落ちた。ナポレオン失脚後はネーデルラント王国の支配下に置かれる。
1830年、ベルギー独立革命が勃発。フランス軍に支援された反乱軍によりアントウェルペンが奪取された。ベルギー王国が成立し、その領土となる。
第一次世界大戦では中立を宣言していたが、ドイツ軍がフランスへの通り道としてベルギーへの侵攻を開始。1914年9月28日から2か月間にわたる包囲の末、アントウェルペンは陥落。1918年11月11日の休戦まで占領が続いた。
1920年、夏季オリンピックが開催された。
第二次世界大戦でベルギーは再びドイツ軍の通り道とされ、アントウェルペンは1940年5月にドイツ軍によって占領された。
1944年9月4日、アントウェルペンはイギリス軍によって解放された。スヘルデの戦いでスヘルデ川河口のワルヘレン島が解放され、11月28日よりアントウェルペン港が使用可能となった。
連合国軍の物資の荷揚げ港となる事に脅威を感じたナチス・ドイツはアントウェルペンをV1飛行爆弾、V2ロケットで盛んに攻撃したが、ほとんどが港湾ではなく市街地に落ち目標を達成できなかった。
戦後はアントウェルペンを含むフランデレン地域の経済成長が著しかった。