皆様へ(2023.5.22掲出、2024.8.27修正)
既にお気づきの方も多いと思われますが、本文の文体及びその内容からWikipedia(該当ページ作成にあたり、英語版から日本語版へ翻訳したと思しい)のコピペである可能性が高いので、加筆修正依頼に出しています。
ある程度直したので訳文調は薄まりましたが、きちんと書ける詳しい方にはさらなる加筆修正をお願いします。
概要
V2ロケットは、第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ミサイルであり、弾道ミサイルである。宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが命名した報復兵器第2号(Vergeltungswaffe 2)を指す。この兵器は大戦末期、主にイギリスとベルギーの目標に対し発射された。以前より開発されていたアグリガット(Aggregat)シリーズのA4ロケットを転用・実用兵器化したものである。後にアメリカでアポロ計画を主導したヴェルナー・フォン・ブラウンが計画に参加し設計を行ったことで知られる。
開発経緯
1927年に結成されたドイツ宇宙旅行協会は、宇宙旅行を目指して1929年頃から液体燃料ロケットを研究していた。ヴェルサイユ条約で大型兵器の開発を禁止されていたヴァイマル共和国の陸軍は、1932年に同協会が開発中の液体燃料ロケットが持つ長距離攻撃兵器としての可能性に注目、ヴァルター・ドルンベルガー陸軍大尉は、資金繰りに悩むアマチュア研究者だったヴェルナー・フォン・ブラウンらの才能を見抜き、陸軍兵器局の液体燃料ロケット研究所で研究を続けるよう勧誘した。
フォン・ブラウンらはこれに応じて同研究所に参加、1934年12月、エタノールと液体酸素を推進剤とする小型のA2ロケット(質量500kg)の飛行実験を成功させた。
A2ロケットの開発計画を1936年までに終えると、彼らは新たにA3とA4の開発に着手した。A4は射程距離175km、最大高度80km、搭載量 約1tとして設計された。
まず、A4の約1/2スケールモデルのA3が試作されるが、4回の打ち上げがすべて失敗だった為、新たにA5が設計された。A5は完璧な信頼性を備え、1941年までに約70基が試射された。
フォン・ブラウンの設計するロケットは兵器としての現実性を増しつつあり、ドルンベルガーは実験規模を拡大し、かつ研究活動を秘匿するため、開発チームをベルリン近郊のクマースドルフ陸軍兵器実験場(ここでは戦車なども実験されており、マウスなども実験後ここに置かれていた)からドイツ北部バルト海沿岸のウーゼドム島のペーネミュンデに新設したペーネミュンデ陸軍兵器実験場に移設した。
A5の成功後、A4は1942年3月に初飛行し、およそ1.6km飛んで海中に落下した。2回目の打上げでは高度 11.2kmに到達して爆発した。
1942年10月3日の3回目の打上げで成功。ロケットは完全な軌跡を描き、宇宙空間に到達した初の人工物体となって192km先に落下した。
ヒトラーは1939年にクマースドルフ陸軍兵器実験場で2回の試射を視察するまでは兵器としての潜在性を認識していなかったが、視察後、関心を抱いた。
軍需省から量産試作の許可が下りたが、彼らは権限を持っており、フォン・ブラウンは後に、「承認を得るのに些細な事でもエネルギーを費やした」と語っている。干渉にもかかわらず、2年間で100機のV2が製造された。
1940年頃よりイギリス軍情報部は写真偵察からこの開発計画を察知し、1943年8月にハイドラ作戦として知られるペーネミュンデ爆撃を行った。
このために、同年11月より生産テスト・発射訓練部隊は内陸部奥深くの武装親衛隊演習場、ハイデラーガー(Heidelager、現ポーランドのブリツナ Blizna)に場所を移す。
1944年5月には、試射されたミサイルをポーランド人レジスタンスにブーク川の土手から回収されてしまう。
これによって極めて重要な技術的詳細がイギリスに伝わったこともあり、連合軍はペーネミュンデを数回にわたって爆撃し、この一連の攻撃で、主要技術者の中にも犠牲が出るなど研究と生産を遅延させている。
親衛隊はロケット開発を傘下に収めようとし、親衛隊の将軍であるハンス・カムラーを開発責任者に据えようとしたが、ドルンベルガーはこれを阻止した。だが親衛隊はあきらめず、1944年にフォン・ブラウンを東プロシアのゲシュタポの本部に召喚してハインリヒ・ヒムラーは彼に軍を除隊して彼のために働くように強制しようとしたがフォン・ブラウンは辞退した。すると数日後、彼は3人のゲシュタポによって逮捕され、シュテティーン(Stettin、現ポーランドのシュチェチン)の収容所で2週間後、彼は軍用のロケットには関心が無く宇宙探査を目的として働いていてイギリスへロケットの設計図と共に小型機で亡命する計画があるという嫌疑により、親衛隊の裁判所で裁判にかけられた。この事態にドルンベルガーはヒトラーにフォン・ブラウンの釈放を直訴して、釈放された。
V2を信頼できる量産兵器にするためには、解決すべき問題があった。
1つには、きちんと動作させるためには、研究室に近い環境で推進剤の充填、整備、設定を必要とした。
他にも、発射設備の問題があった。軍の専門家達は移動式が最適であると考えたが、移動式と固定式の両方の発射設備が試された。
ドルンベルガーは当初よりトラクター牽引式の発射装置を想定し、ロケットのサイズを鉄道・道路での輸送が可能な範囲に留めることを設計条件としていた。要塞や重装甲にこだわりの強かったアドルフ・ヒトラーは、地下発射陣地に拘り、最初の陣地建設がカレー近くで1943年に開始されたが、イギリスに直ちに発見されてしまい、クロスボー作戦の名で知られる爆撃作戦を発動し、建設中の地下発射設備は破壊されてしまった。
他には、詳しくは後述するが大気圏再突入の際に分解してしまう問題もあったが、当時はこうした超高高度での知見が乏しかった事や戦力化を急いだ事との兼ね合いで、戦中には十分な解決をみていない。
大気圏再突入時にはミサイル本体が空気との摩擦で高熱にさらされる。そのため弾頭に使用する爆薬によっては、再突入時の高温で爆発してしまう恐れもあった。
この点は安定性の高いアマトール爆薬(TNTに硝酸アンモニウムを混ぜた物。TNTよりやや威力は落ちるものの安く大量に調達できた)を使用することで一応の対策となった。
神出鬼没の「天翔ける復讐の刃」
結局地下発射陣地建設計画は破棄され、ミサイル、人員、機器、燃料を乗せた約30台の各種車両から成る技術部隊・発射部隊が編成された。ペーネミュンデの技術者達はMeillerwagonとして知られる移動式の発射装置を開発した。このユニットにより、ミサイルは発射部隊の展開後短時間で発射できた。
ミサイルは工場から鉄道で射場近くまで輸送され、運搬車(Vidalwagen)に載せ換えて射場まで道路輸送された。弾頭が取り付けられた後、発射部隊がミサイルを発射台兼用トレーラー(Meilerwagen)に移し、液体燃料を注入して発射した。
ミサイルは事実上街の広場、地方の運動場、アウトバーン、などどこからでも発射可能で、カモフラージュの観点から特に森林の道路上が好まれた。攻撃目標に応じた発射場所の決定から発射までの所要時間は、4ないし6時間程度で、機動性の高い小部隊だったため、一度として敵空軍に捕捉されたことはなかった。
なお、報復兵器のうち、V1は空軍が開発・運用していたのに対し、V2は陸軍が開発・運用した。
理由は、V1が飛行爆弾で「無人の航空機」として開発され、V2はロケットで「巨大で高性能な砲弾」として開発されたからだった。
生産と発射
V2は、ドイツ中部のノルトハウゼン近郊の岩塩採掘抗を利用した地下工場で、ミッテルバウ=ドーラ強制収容所の収容者により生産された。その多くはフランスとソ連の戦争捕虜で、劣悪な環境の中、そのうち約10,000人が過労死したり、警備員の手で殺された。皮肉なことに、この数はV2の実際の攻撃による死者数を上回っている。
最初に運用段階に達したのは第444砲兵大隊で、1944年9月2日、約一週間前に解放されたばかりのパリを攻撃すべく、ベルギーのホウファリーゼ近くに発射基地を設営した。翌日には第485砲兵大隊がロンドン攻撃のためにハーグに移動した。数日間は打ち上げは失敗に終わったが、9月8日両部隊とも成功した。
続く数ヶ月間に発射された総数は次のとおり。
ベルギーに対して
アントウェルペン - 1610
リエージュ - 27
ハッセルト - 13
トゥルネー - 9
モンス - 3
ディースト - 2
フランスに対して
リール - 25
パリ - 22
トゥールコアン - 19
アラス - 6
カンブレ - 4
イギリスに対して
ロンドン - 1358
地上部隊が爆破に失敗したライン川の鉄橋を目標に
レマーゲン鉄橋 - 11
オランダに対して
マーストリヒト - 19
見てお分かりだろうか?
V1ともどもロンドン攻撃の印象が強いV2だが、両者とも実はイギリスと同じくらい多数がベルギーに撃ち込まれている。
1945年3月3日、連合国軍はハーグ近郊のV2と発射設備を大規模爆撃で破壊しようと試みたが、航法誤差のためベザイデンハウツェ区域が破壊され、市民におよそ500名の死者を出した。
V2の威力は大きかったが、当時の誘導技術では命中率が不足していた。ごく初歩的な誘導システムは特定目標を照準できず、命中精度は現在の基準では実用的ではないくらい低い7〜17km。コストは4発で概ね爆撃機1機に匹敵した(爆撃機はより遠距離の目標に、より正確に、遥かに多くの弾頭を、幾度も運搬可能)。
パリ砲と同じで、都市攻撃や敵軍の集結拠点地に撃ち込むのがせいぜいだった。
ただし、心理的効果はかなり大きく、爆撃機や特徴的な唸り音を発するV1飛行爆弾と違い、超音速で前触れもなく飛来し、既存の兵器では迎撃不可能なV2は、ドイツにとって有用な兵器たりえた。特にロンドン市民は昼も夜もあったもんじゃない、前触れ無しの飛来が連日続くという攻撃に多大な不安に晒され、市街地への被害も甚大であった。
最大射程は320kmで最大射程時に飛行時間は5分半で高度は93.3kmに到達した。発射されたミサイルのおよそ4%が発射後30秒間で故障した。およそ6%が弾頭の暴発やタンクの爆発で空中分解した。また再突入時にも構造の破壊で多数が失われた。その結果、ロンドンへ向けて発射された1152機中、到達したのはわずか517機に過ぎなかった。
アマトール爆薬が弾頭に使用された理由は大気圏再突入時の暴発を防ぎ、信頼性を高めるために低感度爆薬を選択しなければならなかったため。一方、搭載されていた触発信管は高感度で連合国側で発見された不発弾頭はわずか2基だった。
反面、迎撃不可能ゆえにV2の攻撃を阻止するには発射基地を制圧する必要があるのだが、V1飛行爆弾のような大掛かりなカタパルトではなく、トラクターで牽引可能な移動式発射台で神出鬼没の発射が行われて捕捉できない以上、面的な制圧を要求されるため、かえって連合軍のドイツ本土侵攻を早める動機づけにもなった。そのような意味ではドイツの敗北を早めた兵器とも言える。
一方、同じ報復兵器のV1飛行爆弾は低速で迎撃が可能な分、かえってそのために戦力を割かねばならず、戦略的にはV2より効果があったとも言える。
V1飛行爆弾はV2ロケットのおよそ1/10の費用で開発、生産され、V2とは異なり、入手の比較的容易な燃料のみが必要で徐々に蒸発する極低温の液体酸素のような酸化剤は不要でそれでいて弾頭の重量は850kgあり、V2と比較して破壊力は遜色なかった。
その結果24200機のV1が発射されたのに対してV2は3500機の発射でV1は平均すると110機/日の発射に対してV2は16機/日の発射に留まった。
実質的に与えた損害においてはV2よりもV1の方が多かった事が戦後の調査で判明している。
V1の弾頭はV2の弾頭のような大気圏再突入による加熱がないため暴発せず、V2の弾頭は垂直に近い角度で高速で建物や地面に陥入してから爆発するので爆風が緩和されたが、V1の弾頭は比較的浅い角度で低速で突入して建物の表面付近で爆発するので爆風の及ぼす範囲が広かった。
さらにV2は前触れなく突然落下するのに対して、V1の発する特有の音は恐怖をもたらす心理的な効果があった。
上記の欠点を嫌った軍需大臣アルベルト・シュペーアは、より小型で使い勝手の良い兵器の開発を望んだが、建築ではヒトラーと忌憚なく議論できたという彼も兵器については素人であったため、各種大型兵器による戦局打破に拘ったヒトラーに押し切られ、製造が続けられた。
実際の所、V1、V2とも登場が遅すぎた。両者がせめてノルマンディー上陸作戦の半年前には実戦化され、ロンドンなどではなくポーツマス、サウザンプトンなどのイギリス南部の港湾攻撃に使われていたなら、集積された物資、ぎっしりと集まっていた多くの上陸戦艦艇や部隊のただ中に撃ちこむことで、大陸反攻の準備妨害に大きな効果を及ぼし得たとも言われている。
戦後
戦後は、アメリカ軍が行ったペーパークリップ作戦により、多くの技術者がアメリカへ連れていかれ、V2ロケットの技術を応用し、宇宙ロケットや弾道ミサイルの開発に成功している。
ソ連も残った設備や技術者、仕掛品のV2を接収し、ソ連国内で開発を続けさせ、アメリカと同じく自国の宇宙ロケットや弾道ミサイル開発に役立てている。
ロケットと言えば市松模様?
余談だが、初期のロケットは陣営を問わず全体をチェック柄(市松模様)に塗ることが多かった。
というのも、当時はロケットの傾きを検知するセンサーが無く、人間が目視測定する必要があったため。少しでもこれをやりやすくするために市松模様にして垂直・水平の線が本体に現れるようにした。
そのため、20世紀中盤の創作におけるロケットは実在する機種であれ架空の機種であれ、こうした塗装で登場することが多い。
ロケットのおもちゃなどにも、どこかにこうした柄を入れた塗装にされる事が多かったとか。
ただし大戦末期になると、V2の中にはオリーブグリーン一色塗りにされる物などもあった。
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