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概要

もともとは物理や数学が苦手な人だったのだが、ある日ロケット工学の本を読んで以来、「宇宙へ人間を飛ばす」という壮大な夢を抱き、猛勉強の末苦手科目を得意科目にしてしまった。


ナチス・ドイツ時代

適性なしの人以外は所属できない工学大学へ入学し、在学中に多くの研究家を輩出したドイツ宇宙旅行協会で活躍し、工学士の学位を手にれてからはベルリン大学で宇宙にロケットを飛ばす研究や実験に邁進した。


だが、ドイツが第二次世界大戦に突入したので軍用以外でのロケット開発が禁じられたために、仕方なく陸軍兵器局の研究チームに入る。そして弱冠25歳でロケット開発の技術責任者になり、ペーネミュンデ秘密軍事基地にて有名なV2ロケットの開発を行った。さらなるロケット開発を求めてフォン・ブラウンはナチス党に入党しており、親衛隊少佐となっている。


しかしブラウン博士からすると軍事兵器開発より自分の夢の方がはるかに大切だったので、ナチス・ドイツの国家存亡を占う大切な時期だというのに、自重せず周囲に月ロケットへの夢を情熱的に語り過ぎたため、親衛隊ゲシュタポに目を付けられ逮捕される。

罪状は「(軍事兵器の開発に優先して)フォン・ブラウンが地球を回る軌道に乗せるロケットや、おそらく月に向かうロケットを建造することについて語ることをやめない」「より大型のロケット爆弾作成に集中すべき時に、個人的な願望について語りすぎる」という理由の国家反逆罪だった。

ブラウンの有能さを十分に知っていた彼の上司であるドルンベルガーが「フォン・ブラウンがいなくなれば、V-2が完成しなくなって貴方がたの責任が問われるだろう」と言って釈放を迫ったがゲシュタポは応じず、最終的に総統閣下自らがとりなしてようやくゲシュタポがブラウンを釈放した。

ブラウンが釈放された時に総統は「私でも彼を釈放することはかなり困難だった」と述べたあたり、いかにブラウンが自分の夢を語ることに余念がなく、ゲシュタポの警戒心を盛大に買っていたかが分かる。


V2ロケット発射実験での「今日は宇宙船が誕生した日だ」だと同僚が述べ、そのロケットがロンドンに着弾したことを知ると本人が「ロケットは完璧に動作したが、間違った惑星に着地した」と語った。どうやら逮捕されても全く懲りていなかったらしい。


亡命

1945年5月にドイツは連合国軍に敗北することが確実な状況となり、ブラウンはペーネミュンデに戻ると直ちに彼の計画スタッフを招集し、どの国に亡命すべきか、どうやって亡命するかを決めるよう求めた。研究者の多くはロシアを恐れ、フランスは自分たちを奴隷のようにこき使うだろうと部下たちは思っており、イギリスは自分の夢を叶えるだけの資金力がないだろうと考えてブラウンは消去法でアメリカへの亡命を画策した。


しかし問題発言ばかりしていたブラウンに対する親衛隊のマークが厳しかった上に、ドイツ軍の管理から逃れて記録を坑道などに隠しアメリカ軍と接触を試みているドイツ人技術者を殺せという命令を親衛隊が受けていたので、アメリカ軍と接触できたのはドイツ降伏後だった。


技術者たちの重要性を知ると、アメリカ軍は即座にペーネミュンデとノルトハウゼンに向かい、残されたV-2ロケットとV-2の部品を全て鹵獲して2つの施設を爆破破壊した。アメリカ人は貨車300両分以上のV-2用スペアパーツをアメリカに持っていった。しかしフォン・ブラウンの生産チームの大半は間もなく進駐してきたソ連赤軍の捕虜になった。彼らはソ連の科学者として登用され、くしくも冷戦時代に上司と部下が開発競争で激しくしのぎを削ることになるのである。


アメリカ時代

フォン・ブラウンと126名のチームメイトの身柄はアメリカへ移送され、以降アメリカで短距離弾道ミサイルのレッドストーンやジュピターCロケットなどの開発に携わる。

しかし、元よりナチスのもとで働いていたブラウン達の立場は悪く、ロケット開発自体もアメリカ政府はさほど重要視していなかった。ブラウンはウォルト・ディズニーと協力して宇宙開発の魅力を国民にアピールするなど、地道な活動を続けていたが、ソ連がR-7ロケットにて初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げると状況は一変。アメリカの戦略技術の優位性を守るため、ソ連との宇宙開発競争が開始され、フォン・ブラウンはアメリカのロケット開発の中心人物へと抜擢されることになった。

その後、ケネディ大統領への答申作成で大きな役割を果たし、1960年にレッドストーン兵器廠からアメリカ航空宇宙局(通称NASA)に移籍。同年に新設されたマーシャル宇宙飛行センターの初代所長を1960年から1970年の10年間勤めた。


アポロ計画ではサターンVロケットを開発し、1967年11月9日に打ち上げに成功。そしてついに1969年7月20日、若き日からの宿願であった人類初の月面到達に成功したのである。


その後、NASAを辞した後にフェアチャイルド社の副社長に就任し更なる宇宙開発の躍進を図ったが、癌が見つかり間もなく病没した。享年65歳。


評価

「国家規模の予算が無いと月にはいけない、私は宇宙へ人間を飛ばす目的の為ならば、悪魔と手を握ってでも働き続けたと思う。」と後に本人が語っているのは有名である。


己の夢を実現するためには手段をサラサラ選ばないタイプの人間であり、ナチスの元でV-2ロケットを作ったかと思えばかつての敵国アメリカに亡命してサターンロケットを開発するなど、悪く言えば無節操な変節者である。この点はドイツ・アメリカ両国の識者からも批判されている。


飽くなきバイタリティを持った夢追い人、それがヴェルナー・フォン・ブラウンであった。ために、ブラウンにとって物事の善悪は問題外であり、NASAの宇宙開発費用がアメリカの教育予算を圧迫しようとも、宇宙開発競争が引いては核兵器開発の激化を招こうとも、彼はお構いなしであった。


彼の風刺歌謡を歌ったトム・レーラーからは「忠誠が便宜に支配された男」、彼の自伝を書いた作家からは「宇宙依存症」と評されている。


関連項目

ロケット ミサイル V2ロケット 第二次世界大戦 アポロ計画


博士の異常な愛情 ストレンジラヴ博士のモデルになっている

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