概要
経歴
南海鉄道時代の1934年から1943年にかけて製造された、18m級2扉の通勤形車両。木造車の鋼体化名義として製造されたのが始まりだが、ほとんどの車両は完全新造車である。
番号の1200番台はモーターの出力(馬力)を元にしたもので、戦後に行われたモハ1238・1239の電装により最終的にモハ1201形44両(1240~1244はクハからの電装を想定していたため欠番)・クハ1901形19両の陣容となった。
戦後に投入された国鉄63系譲渡車・モハ1501形に搭載していたモーター「MT-40」は、その性能がモハ1201形のものよりも上回り、南海社内で「MT-40」の購入を決定。1949年から1954年にかけてモハ1201形8両・クハ1901形5両を対象にモーター載せ替えもしくは電装が行われて(台車ごと新造品に交換)、モハ1551形13両へ改造された。
1955年から1969年にかけて、両運転台となっていた全車両の一部運転台撤去と車体の改修・修繕が行われた。クハ1901形のうちクハ1912~1914の3両は電装によりモハ1201形へ改造しクハ1911は荷物電車化により他形式へ編入、またモハ1551形のうちモハ1562・1563はモーター載せ替えでモハ1201形へ復帰。改番整理も行われ、モハ1201形1201~1241、モハ1551形1551~1561、クハ1901形1901~1910の陣容となった。
南海本線・高野線の架線電圧が1973年に直流600Vから直流1500Vへ引き上げられることになり、本グループはその改造対象外となったことから1971年から1973年にかけてそのほとんどが廃車除籍となった。一方で、まだ比較的車体の状態がよかったモハ1201形1201~04・1210・1213・1217・1218・1234・1241の10両については、直流600V電化で残ることが決まっていた貴志川線(現・和歌山電鐵貴志川線)へ転用。貴志川線近代化の一環として2270系が投入される1995年まで、非冷房のまま活躍した。
運用
- モハ1201形は貴志川線へ転用されるまで、主に南海本線系統で普通列車を中心に用いられた。クハ1901形はモハ1201形・モハ1551形問わず連結可能。
- 出力増強車・モハ1551形は南海本線系統の優等列車で活躍。淡路航路連絡急行「淡路号」の前身である急行「なると号」および徳島航路連絡特急「四国号」の前身である急行「あわ号」では、モハ1551形・クハ1901形4両ずつが専用車として抜擢され、この8両は扉間が転換クロスシートへ改造された(格下げ時に元のロングシートへ復元)。また、1970年から1972年にかけて国鉄紀勢本線直通の客車列車の牽引をモハ2001形に代わって務めた。
派生・関連形式
- モハ1251形、クハ1831・1861・1871・1891形:南海高野線の山岳区間直通用として同時期に製造された。モーターの出力はモハ1201形と同じだが、このグループは15m級2扉車。特急「こうや」ではモハ1251・1252・1254が専用車として転換クロスシートへ改造・整備された。
- クハ1900号車:1938年製の展望室つき貴賓車。1951年の特急「こうや」運行開始時に専用車となり極楽橋方先頭車を務めた。1963年に格下げ改造が行われ、1972年の廃車までクハ1901形と共通運用。
- 21201系:当該記事参照。モーターの出力はモハ1201形と同じだが、車体はズームカーそのもの。
- 1521系:当該記事参照。直流1500Vへの昇圧時、不足する「MT-40」をモハ1551形の廃車発生品から調達した。
他社への移籍
南海の直流1500V昇圧で本グループが改造対象外となったため、一部車両が他社へ移籍した。
- 京福電気鉄道福井支社(現・えちぜん鉄道)では、「モハ2001形」として16両が導入。1982年から1985年にかけて阪神電気鉄道5231形の車体に載せ替えられ「モハ2101形」(→MC2101形)となり、えちぜん鉄道移管後の2014年まで活躍した。
- 水間鉄道では「モハ501形・サハ581形」として12両が導入。1984年には蛍光灯の交流化に伴う補助電源装置(MG)搭載スペース確保のため、モハ502・504・510が電装解除されクハ551形へ。1990年の直流1500V昇圧に伴い退役し、現在はクハ553が水間観音駅構内で静態保存されている。
- 水間鉄道のモハ501・503・507・509とクハ552はその後野上電気鉄道へ再譲渡となったが、地上設備の規格に合わなかったため営業運転に使われることは無かった。