現在のJR西日本紀勢本線・海南駅付近にあった日方駅を起点とし、登山口駅までを結んでいた野上線を運行していた鉄道会社。監督官庁への届出上の読みは「のがみ」だが、沿線では旧自治体名称(海草郡野上町)にしたがい「のかみ」と読んだ。
なお、野上電気鉄道に源流を持っていた野鉄観光は健在どころか、大十バスから再分離し、南海バスを源流に持つクリスタル観光を関連会社に収める、県内屈指の貸切バス業者である。
路線概況
起点:日方駅
終点:登山口駅
駅数:14
複線区間:なし
電化区間:全線
歴史
1916年2月にタワシやロープなどの特産品を港のある日方まで運ぶことを目的に、日方と野上の間で開業。1928年に後の登山口駅となる生石口駅まで延伸した。
戦中戦後の陸運事業調整法による大手私鉄への統合や資本参加が行われることもなくずっと地場資本による経営が続いていた。しかしモータリゼーションの進展で輸送実績が悪化し始め、1966年と71年の2回に分けて段階的に貨物列車を廃止。2回目の貨物列車の廃止と同じ年に鉄道事業からの撤退も決定し、一旦は廃止を国に申請している。しかしオイルショックの発生で鉄道見直しの気運が高まり、1975年に廃止申請を撤回。国や沿線自治体の海南市などから支援を受けることが決まった。
この支援により、特に老朽化の著しかった一部の鉄道施設の近代化が行われたが、全体としての老朽化の解消には至っていなかった。なぜなら資金の都合から、施設の近代化が虫食い式に中途半端に行われていたため、例えば電化柱のコンクリート製への交換も1本ずつ適当に行われたことで、沿線には交換予定の新品が無造作に置かれていた。車両に関しても1990年以降に中途半端かつ場当たり的な車両更新を行っており、当社の経営の杜撰さを物語っていた。
1992年、国の地方鉄道支援の見直しにより栗原電鉄と共に野上電鉄の支援打ち切りが決定。このときは経営立て直しもせず、路線廃止・会社解散の道を選んだ。経営状態が悪化しすぎて退職する社員への退職金の支払いすら出来なかったとも言われている。
結局1994年に鉄道線を廃止。バス事業も海南市の運送会社である大十株式会社(大十バス)に譲渡し、会社解散。野上電気鉄道は消滅した。
もし支援打ち切りが決まった段階で、大手私鉄や異業種企業の傘下入りや経営指導を受けて合理化を推し進めていれば、まだ生き延びれたかもしれないという指摘もある。
使用車両
1970年以降の使用車両のみ掲載。
主に阪急電鉄や阪神電気鉄道などから譲受した車両(それらの足回りは南海電気鉄道の発生品)が用いられていた。
10形(デ11-デ13)
もと富山地方鉄道デ5010形。1976年に鉄道事業の廃止を撤回した際に、車両近代化のため4両を譲り受けた。うち1両は日方車庫の火災で損傷したため入籍せず、残りの3両がデ11号-デ13号として使用された。他の車両が軒並みZパンタを使用していた中、本形式は唯一通常型のパンタグラフを使用していたほか、当鉄道唯一の戦後製の電車であった。単行運転専用として使用していたため、小型密着連結器を装備し、他社との連結運転は一切行われなかったという。廃止直前においてはデ12号が休車状態であったという。
20形(モハ23-モハ27)
種車によって車両の外観が異なる。
- モハ23号…阪急電鉄が箕面有馬電鉄として開業した際に製造された1形26号の車体を譲り受けたもの。運転台の復元や丸屋根化などの改造を受けて入線した。廃止直前においては休車状態であったという。
- モハ24号…もともと阪急1形3号の車体を使用していたが、木造車体のままであったことで老朽化したため、阪神電気鉄道601形604号の車体へ載せ替えたもの。正面5枚窓の卵型車体が特徴的であった。1990年には明治チョコレートの広告車としてCM撮影に使用され、廃止までそのままの塗装で使用された。
- モハ25号-モハ27号…阪神電気鉄道701形3両を譲り受けたもの。
30形(モハ31、モハ32)
阪神電鉄1101系を譲り受けたもの。2両とも幕板に飾り窓が残存していた。モハ32号は阪神時代にジェットカーの試作車として使用された1150号が種車であった。
クハ101形(クハ101、クハ102、クハ104)
30形同様、阪神電気鉄道1101系が種車であったが、こちらは登山口方へ連結される制御付随車として使用された。飾り窓はクハ101号のみ残存していた。晩年はクハ104号のみ使用されており、クハ101号とクハ102号は登山口駅の留置線で放置されていた。
50形(モハ51、モハ52、クハ201)
「喫茶店」の愛称があった阪神電気鉄道861形4両を譲り受けたもの。制御機器が阪神時代のままであったため他形式と連結できなかったこと、消費電力が大きかったことなどからあまり使用されず、短期間で廃車された。4両のうち1両はモハ23号の車体と振り替えて使用されるはずであったが、そうならずに部品取り車となった模様。
貨車
最後まで残存したもののみ記載。
導入予定だった車両
末期の同社の経営が混乱していたことを如実に示すのが、これら導入予定だった車両である。
- 元水間鉄道501形…末期に車両近代化(ただし本形式の種車である南海1201形は戦前製である)とワンマン化のため、水間鉄道で廃車となった501形モハ501、モハ503、モハ507(これのみ片運転台車)、モハ509、クハ552の5両(単車3両と2連1編成)を譲り受けたもの。しかし入線後に車両の重量が橋梁の耐荷重を超過していたことが発覚してしまい、主電動機を外した場合でも重量が超過していることには変わりなかったため、入籍することなく解体されてしまった。これらの車両は水間鉄道より無償で譲受したとの話があり、実用できるかはともかく目先の金額だけで購入を決断した模様。どうしてこうなった…。
- 80形…上述の水間鉄道501形が使用できないため、会社の創設80周年に合わせて補助金の交付を前提として、武庫川車輌(現、阪神車両メンテナンス)での新造を計画していた、冷房付でワンマン運転に対応した新型車両。しかし入線にあたって施設の大規模な改修が必要だったこと、さらに欠損補助の打ち切りが発表されたことで、金銭面のアテがなくなったことからキャンセルされた。同時期に製造された叡山電鉄800系に類似する側面デザインであったという。廃止寸前に何者かが沿線で図面を配布していたらしい。また某高校の鉄道研究会が、機関誌にペーパークラフトの付録を添付したことが有名。
このほか、同時期には近江鉄道で使用していたLE10形レールバスの導入も検討していたらしいが、購入する際に価格面で折り合いがつかなかったことで中止されたという(これも補助金頼みでの購入が検討されていたと考えられる)。
職員の態度が悪かったという話
末期の野上電気鉄道を象徴する話として、職員の態度がとても悪かったというものがある。
かつては職員の態度も温厚で、遠方から来た鉄道ファンに飛び込みで車庫の見学も快諾していたというほどだが、会社の経営が立ち行かなくなるのに連動してか、鉄道ファンはおろか取材に来たマスコミに対しても厳しい態度を見せるようになった。
これは鉄道ファンのルール違反が度重なったとも言われているが、鉄道ファンでも何でも無い地元の利用客に対しても一部の社員が暴言を吐いていたという話もあるため、一概に鉄道ファンが悪いというわけでもないようだ。
どうやら、最末期の野鉄は沿線地域で雇用されるような所がない若者のいい雇用先となっており、そういった若者の素性は察するに余るべきもの。これに関連して職場の人間関係もギクシャクするようになってしまったのも原因としてあるらしい。
最末期の駅には「構内、車内での写真撮影禁止」の張り紙や立て札が出され、もし撮影しているのが職員の目に入れば職員に怒鳴られ、沿線でカメラを構えていても運転手が警笛を連打して睨みつけ、タブレット閉塞の交換風景をカメラに収めていたら発車時刻にも拘らず運転士が降りてきて「今撮ったフイルムを出せ!」と言って襲いかかるなど、それはそれは殺伐としたエピソードがいくつも存在する。
ちなみに列車の撮影に対してこれほど目くじらを立てていたのは、一説にはタブレット閉塞の不適切な取り扱いの瞬間を偶然鉄道ファンが撮影し、その写真が掲載された鉄道誌を偶然見た運輸省の関係者が、野上電気鉄道に厳重注意をしたからというものがある。
この他にも職員の勤務態度の悪さに関する話は
- 列車の発車時間になっても運転手が駅の事務室から出てこないでテレビを見ていた
- 列車交換時、本来は駅員を介して受け渡しをする通票を運転手同士で受け渡ししていた(上述のもの)
といったものもある。