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くりはら田園鉄道

くりでん

くりはら田園鉄道とは、かつて宮城県北部に存在していた鉄道路線である。地元での愛称は「くりでん」。
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概要編集

かつて宮城県石越駅〜細倉鉱山駅(貨物駅、旅客営業は細倉駅まで、詳細は後述)を結んでいた私鉄路線。旧名は栗原電鉄。貨物輸送を目的として建設され、全盛期には細倉鉱山からの鉱物資源輸送に大いに貢献した。閉山後は旅客のみでの生き残りを図ったが、2007年に廃線となっている。


歴史編集

栗原地域の穀物の輸送を目的とし、1921年12月20日に「栗原軌道」として石越〜沢辺間が開通したのが始まりとされる。翌年には岩ケ崎駅(のちの栗駒駅)まで延伸、さらに1942年には、細倉鉱山の鉱物資源(鉛・亜鉛など)の輸送に対応すべく、細倉鉱山貨物駅まで延伸した(この2年前、1940年に栗原鉄道に改名している)。これに伴い、石越駅には国鉄(現・JR東日本東北本線との連絡線が構内に設けられて1955年から直通運転が実施されており、DE10型ディーゼル機関車やキハ10系グループの車両が乗り入れたことがある。


戦前から戦後にかけては細倉鉱山の採掘量増加に伴って栄華を極め、1950年には当時としてはかなり稀だった全線直流電化を達成(電車の存在自体が珍しかったこの時代、東北の1中小私鉄の全線電化は衝撃的なことだった)、5年後にはレール幅を762mmから1067mmに変更し、前述の連絡線を設けて国鉄との直通運転を開始、これを機に「栗原電鉄」に改名した。


これだけにとどまらず、さらには、西は細倉から県境を越え秋田県湯沢市方面、東は仙台平野を横断して志津川町(現・南三陸町志津川地区)方面へのさらなる延伸が計画されていた。湯沢から西にはその当時、羽後交通雄勝線が通っており、この路線と国鉄矢島線(現由利高原鉄道)を組み込むことで羽後本荘方面への延伸計画もあったため、実現していれば日本海側と太平洋側を結ぶ長大な路線となっていた可能性もある


貨物の実情と旅客の急変-終わりの始まり-編集

しかし、自家用車普及に加え、オイルショックなどの影響で昭和30年台をピークに細倉鉱山の採掘量が減少し始めたことも重なり、経営は徐々に悪化、そして1987年に貨物営業が廃止、同時期にJRとの連絡線も廃止となり、経営状態はさらに悪化した…………と、よく言われるのだが、実のところ根本原因は別にある。


まずそもそもこの路線の最大の存在理由だった貨物輸送だが、これは鉱山が縮小する随分前より親会社から見切りを付けられていたようなのである。と、言うのも、この細倉鉱山は三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)の配下だったにもかかわらず、三菱のグループが強かった時代から一貫して三菱製の電気機関車が新製配置されたのは762mm軌間時代のED18形3両だけ (厳密には当時は三菱重工再合併前の中日本重工業)。

その能力が改軌で不足気味になったが、その代替として中古で調達されたのは戦時型以外の何物でもない東芝製標準型電機やら、確かに新製は戦後だが電装品に戦前の電気式気動車の流用品を使っている小型機関車(しかも元々は鉄道線用ではなく路面電車線)やらで、高額な初期投資を避けられていた節があるのだ。

ちなみに、この2両は同時に栗原電鉄線上には存在しないことを前提に、どちらも ED35形 1号 を名乗っていた(これはどちらも重量がほぼ同じ35tなのが理由。栗原電鉄ではこうした配番がよくあったが、これで良しとされた理由はついぞ不明)。

老朽化を理由に初代から2代目への置き換えが1969年に行われたが、部品の素性から言えば初代の方が2代目より機関車として優れていた(=機関車として本来長持ちする)はず、との考察もある。実際に初代ED35形(=2代目西武1形)の同型機は豊橋鉄道での貨物輸送にて1984年まで現役だったほか、同じ戦時標準設計かつ宮城県内で稼働していた元宮城電気鉄道(現・JR東日本仙石線)ED35形3号などはその後山岳路線たる国鉄飯田線(ED28(II)形11号として)、さらには京福電気鉄道福井支社(現・えちぜん鉄道)にて北陸の豪雪地帯をも(テキ531号として)走り、過酷な環境下に置かれながらこちらも1980年まで現役だった。何なら、戦時標準設計車両の中には西武31形(現・伊豆箱根鉄道ED31形)のような2020年代に入ってなお現役のものまで存在している。

…うん、初代1号機で充分貨物廃止まで保ったはずだよね?…と言いたくもなるだろう。余程の状態の悪さだったのか、はたまた老朽化とは別の理由があったのかはもはや定かでないが、どちらにせよ、この電鉄の実情に合った投資が充分されていなかったことの暗示ともとれる。

さらに奇妙なことに、2代目ED35形1号の所有権は三菱金属側にあった。確かに貨物輸送は三菱金属由来のものが多いのだからこの場合、税制面での負担軽減などで主たる受益者が所有者になっているケースは珍しいとは言えないのだが、輸送実績を見るに最初から「お前が倒れた時に財産として処分されたらかなわん」と言っているようなものにしか見えない。栗原電鉄側は三菱に合わせて改軌、昇圧したにもかかわらず、だ。

なお、念のため記すが電装品1つに至るまでこの機関車は三菱の製造業とは縁が無い (東洋電機製)。


そんなこんなで、親会社からの投資が潤沢とは言い難い中でトラックとの競合に晒され、あまつさえ鉱山そのものの経営縮小にまで悩まされるようになった栗原電鉄の貨物は、1980年の国鉄一般貨物大減便を待たずして、黒字の年の方が少ない状態になっていた。

とはいえ三菱側が手を引くほどの経営危機には至っておらず、同社からの一定の支援により路線は維持され続けていた。事ここに至るまで、確かにモータリゼーションの発達などいろいろ悪条件は重なっていたものの、それらは致命的と呼べるほどの影響をもたらしていたわけではなく、結果的に見ても状況を悪化させた要因としてはそれらは従たるものでしかない。

だがそんな折も折、栗原電鉄が徹底的に追い詰められるきっかけとなる出来事が起きる。

そう、1982年の東北新幹線開業である。


東北新幹線は当時、明治維新以来の政府の長年の東北冷遇政策の解消の態度を見せることに加え、新幹線後の後発の高速鉄道が額面上東海道新幹線に肉薄してきた(実際には運行密度を考えると日本の鉄道業界をアッと言わせたのは近代変態島国としての日本の師sy……もといイギリスHSTぐらいだった)為、世界最速新幹線の座を守るべく、東北新幹線はできるだけ曲線を作らず、また、駅間も広くとられた (これにより、開業3年目の1985年より大宮以北の営業最高速度が240km/hに引き上げられるなど、同線でのスピードアップを東海道新幹線と比してかなり速いペースで行える環境が整うこととなった)。

高速鉄道の本分としては勿論理にかなっているのだが、哀しいかなこれが栗原電鉄を転落させた最大の要因である。上記の理由から、東北新幹線は在来線である東北本線とはかけ離れた場所を通っている区間が多々見られ、またそれまでの主要駅が駅設備すらないことも珍しくなかった。栗原電鉄の起点駅にして国鉄の急行停車駅だった石越駅はそのダブルパンチを食らって閑散駅と化し、主要駅の役目を宮城県北唯一の新幹線駅だった古川駅や近隣の新幹線駅たる一ノ関駅に奪われることとなった。これにより、栗原電鉄は対東京・対仙台の連絡の役割を喪失してしまった

新幹線の開業が地元住民の動線を大きく変えたこと、これがただでさえ自家用車の普及で減っていた旅客輸送に追い打ちをかけてしまったのである。


最後の希望とその末路-そして廃止へ-編集

だが、実は、誕生直後のJR東日本から石越駅での連絡運輸廃止を告げられ、貨物輸送も廃止となった1987年当時、栗原電鉄、後のくりはら田園鉄道には1つだけ希望が残されていた。

と、言うのも前述した通り東北新幹線の駅間はとても長く、この該当区間は古川駅一ノ関駅50.1km(営業キロ基準)無停車だった。しかし、あまりに駅間が長すぎると、ダイヤの乱れが生じた際の整理や、運転中止となった際の乗客の退避場所の確保などができない。ということで、この年に国鉄から東北新幹線・上越新幹線を引き継いだJR東日本は、地元負担ありの請願駅を両線の長大駅間区間に設けることにした。

地元自治体は国鉄時代から1市23町村を巻き込んでこの区間に請願駅を希望していたのだが計画がなかなか進展せず、JR東日本の方針確定でようやくそれが具体的になった。新幹線によって対東京・対仙台の連絡の役割を失った栗原電鉄にとっては、電鉄線と接続する形で新駅が設置されればそれがかつての立場を取り戻せる最後のチャンスとなり得たのだ。


ところが、話は思わぬ方向へ向かう。

宮城県や地元である栗原郡だけでJRの要求する負担額には足り、駅の設置も駅前整備も可能だったのだが、周辺整備まで考えると一層の出費が必要となったことから協議は以前からの運動をそのまま引き継ぐ形で進展、駅の受益範囲を拡大し登米郡どころか本吉郡、さらには気仙沼市にまで負担を求めることとなった。……これがいけなかった

普通に考えれば、地元の最大の利益になるのは東北新幹線と栗原電鉄線の交点。だが、新駅事業に関わる自治体が計24市町村にものぼったため、栗原郡の利益だけを優先するわけにいかず、自治体間の協議は設置場所を巡って予想通りの泥仕合と化した


結果、東北新幹線栗原郡新駅は、栗原電鉄線とはかけ離れた古川~一ノ関の実キロ計算でほぼ中間点となる場所に建設されることが決まり、栗原電鉄は地域の交通網再編の流れからすっかり取り残されてしまった。事ここに至り、栗原電鉄が大都市圏への移動手段として再起する可能性はこれを以て完全に閉ざされたのである。


このような厳しい状況をどうにか打開すべく、1990年には細倉駅を細倉鉱山駅側に200m移設して立派なロータリーを持つ駅を作り「細倉マインパーク前」に駅名を変更、観光路線としての生き残りを図った。1993年、国鉄分割民営化の余波で野上電気鉄道と共に赤字欠損補助の打ち切りが決定すると、親会社の三菱マテリアルは存続を求める自治体の声に応じ保有する全株式を自治体に譲渡し、栗原電鉄は私鉄初の本格的第三セクターとなった。1995年には電気施設老朽化を機に「くりはら田園鉄道」となり、電車の使用をやめディーゼル式に転換するなどしたものの、経営の悪化に歯止めはかからなかった(2005年の総収入は最高値を記録した1976年の5分の1、乗車人数に至っては同じく最高値を記録した1965年の10分の1以下という有様だった)。

乗客減少は止まらず、2003年には頼みの綱だった県からの補助も事実上打ち切りの方針が出された。


そして2004年の株主総会にて廃線が決まり、大勢の沿線住民、および全国から駆けつけた山ほどの鉄道ファンに惜しまれつつ、2007年4月1日をもって廃止された。


もうお分かりだろう

親会社から見合った援助を得られず

国鉄からは無慈悲な形で時代の流れを突き付けられ

それでもひたすらに地元のため尽力してきた栗原電鉄くりはら田園鉄道は

最後は愚かにも最も存続を望んだはずの地元自治体が自らとどめを刺す形で

全ての希望を奪われ、歴史のかなたに消えたのである


なお、くりはら田園鉄道の末路を決めた上述の請願駅、くりこま高原駅(1990年開業)は、ものの見事に陸の孤島の駅となり、開業後利用者は減る一方。1997年にはJRがテコ入れとして速達型『やまびこ』の停車を設定するが、2000年以降は年間の1日の平均利用客数が1,500人を超えたことはなく、秘境駅とは言わないまでも、投資額にまるで見合わない状況が続いた。

しかも、同じく地元負担に対する効果が疑問視されていた南びわ湖駅と比べ、この駅の周辺は「かんがい排水場受益地」として大規模開発に農水省の許可が不可欠だったため充分な経済効果を出せず、必要に迫られ設置を持ち掛けたはずのJR東日本としても退避場所としてはともかく駅としてはイマイチな存在となる始末。結果的に、約40億円とされる地元供出金はまさしくくりはら田園鉄道を絶望させるためだけに使われたと言っても過言ではないものとなった。

COVID-19パンデミックによる急減後は年平均の1,000人/日を超えず、ついにJRからも半ば見捨てられたこの駅は、2024年、みどりの窓口廃止という形で、実質的な無人駅と化した。


その後編集

廃止後の鉄道路線の用地は、大抵は道路や住宅地に転用され、残るにせよ遊歩道などとして当時の面影を残していないことが多いものであるが、この路線に関しては、踏切や駅舎・信号施設はほとんど撤去されたものの、線路跡はほぼ全線にわたってレールが撤去されず残されており、廃線跡としては破格の扱いを受けている。もっともこれについては、細倉鉱山から輸送していた重金属により路盤が汚染されている恐れがあることも原因の一つであるらしいので、廃線跡を探訪する際は転倒などに注意しあくまで自己責任で歩行する必要がある。


前述のとおり駅舎やホームはほとんどが解体・撤去されており、跡地には駅が存在したことを示す石碑が建てられている(ただし、中には撤去されなかったホームの上に住宅が建ってしまった駅もある)。若柳駅、および細倉マインパーク駅は駅舎が現存しており、このうち若柳駅については(一部道路により寸断されてしまったが)営業当時の駅舎・ホーム・車庫・側線などを活用し、「くりでんミュージアム」(後述)の一部「くりはら田園鉄道公園」として利用されている。


所属していた車両は、廃止直前はその大半が若柳駅に留置(放置と言ったほうが正しい)された状態であり、一部の車両を用いてグッズの販売などが行われていた。廃止後、保存が決まった車両以外は構内で解体されている。保存が決まった駅構内の車両については塗装の塗り直しなどが行われ、あるものは雨避けの下で大切に保存され、あるものは動態保存され時折自走するなり機関車に引かれるなりしている。また、木造貨車の多くは「くりでんミュージアム」にて保存されているが、中には、保存自体は決まっていたものの不審火で全焼してしまったものも。この他、電化廃止時に廃車された車両の一部は、細倉マインパーク前駅の片隅にも保存されている。

また、登米市石越の遊園地「チャチャワールドいしこし」にも複数の保存車両が存在したものの、遊園地再整備に伴い2017年末頃に解体されている。


鉄道廃止後、この路線をなぞる形でミヤコーバスがバス路線の営業を開始したが、やはりというべきか、沿線人口・乗客の減少は進む一方であり、鉄道廃止から10年そこそこで早くも一部路線の廃止が決定したり、ミヤコーバスが撤退してコミュニティバスに転換されたりしている。


駅一覧編集

備考欄に記述のない駅は、1面1線もしくは無人駅、あるいはその両方だった駅である。

起点からの距離はすべてkm表示。

距離駅名開業年(西暦)備考
0石越1921年東北本線との接続駅で、貨車入れ替え用の操車場を有していた。末期には無人駅。
(1.6)片町(1933年以前)若柳駅に至る旧線区間に存在した駅。1942年の新線開業に伴い廃止。
1.6荒町1953年
3.1若柳1921年2面3線の有人駅にして、車庫を有する主要駅。本社の建屋が隣接。
4.6谷地畑1926年
5.7大岡小前1995年第三セクター化後に開業した唯一の駅。
7.2大岡1921年東に東北新幹線、西に東北自動車道が通る。1966年まで2面2線であり、交換可能駅だった。1968年まで有人駅。
9.3沢辺1921年2面3線の有人駅。若柳駅と同時期に同一の構造で建てられた駅舎が存在。
12.8津久毛1950年元々は1924年に使用開始した停留場であり、1970年まで2面2線の交換可能駅だった。1972年まで有人駅。
14.4杉橋1924年開業当時の鳥矢崎駅。1930年の駅移転開業に伴い改称。
15.4鳥矢崎1930年
17.1栗駒1922年1963年まで岩ケ崎駅を名乗る。2面3線…と見せかけて1面2線のやや複雑な線路配置だった有人駅。また、バスの営業所が駅舎内に存在。
17.9栗原田町1958年1951年まで田町駅を名乗る。駅舎内がラーメン屋だった時期もある。1975年まで有人駅。
19.1尾松1942年隣の鶯沢まで、軌道時代の旧線区間が存在。
21.6鶯沢1942年1982年まで2面2線(+貨物用ホーム)の交換可能駅で、1983年まで有人駅だった。
23.8鶯沢工業高校前1952年1995年まで駒場駅を名乗る。
25.5細倉1942年1990年に細倉マインパーク駅が開業し、事実上の廃駅となる。1面3線(旅客ホームは1線のみ)の有人駅。1987年に無人化されるも、事務所として使用された。
25.7細倉マインパーク前1990年細倉駅を前身として移転開業。『東北の駅百選』選定の駅。
26.2細倉鉱山(貨物駅)1942年この鉄道線において唯一の貨物専用駅だった。1987年休止、翌年廃止。

所属車両編集

オリジナル、他社の中古、改造車まで種々雑多。

762mm軌道時代編集

キハ1形気動車のほか、東京都交通局から部品を融通してもらい新造したモハ2400形電車、ED18形電気機関車などが所属していた。改軌に伴い、電車は下津井電鉄に移籍したが、機関車については全車が改軌に合わせて改造され、ED20形となる。

栗原電鉄時代編集

電車編集

  • M15形電車

ナニワ工機で新造された…のだが、車体のみナニワ工機製で、台車は住友製、電装品は三菱製というトンデモ仕様。3両が製造され、電化廃止まで使用された。うち2両が保存されていた。1両現存。

  • C15形電車

当初はC14形を名乗り、阪急51形の車体と西武鉄道から譲渡された台車を組み合わせ誕生。2両落成し、のちにM15形と同様の車体になり形式変更となった。電化廃止直前にはほぼ運用がなかったらしい。1両のみ保存されていたが、2017年に解体され、現存しない。

  • M18形電車

3両在籍。M181は元・西武鉄道モハ204、残り2両は元・福島交通モハ5300形である。両者の外見・性能とも当然ながら全く異なるが、車体長で電車の形式が決められていたため同じ形式ということになった。M181は晩年イベント用に用いられていたようで、引退後のデザインはかなり派手なものだった。いずれも廃止後に解体され、現存しない。なお、廃止直前、M182を小屋代わりに用いてグッズ販売が行われていた。

機関車編集

  • ED20形電気機関車

前述のED18改造により誕生。上述の通り栗原電鉄で自社発注され、構内入替・本線運転ともにこなす貨物輸送の顔と言える存在だった車両。一時は3両全車が保存されていた。2両現存。

  • ED35形電気機関車

初代は西武鉄道から、2代目は東武鉄道から譲渡された。上記の通り、同じ名前でこそあれ全く別の代物であり、うち後者は日光軌道線(路面電車線)用の車両である。ED20より出力があったため、本線運転の主力として使用された。前者は現存しない一方、後者は栃木県内にて静態保存されている。

  • DB10形ディーゼル機関車

構内入れ替えを目的に新造された。その1号機、DB101が、栗原電鉄の機関車では唯一、動態保存されている。


この他、晩年に保線用車両として使用されたワフ7形緩急車やト10形貨車(いずれも車齢100年以上の大御所)やモーターカー、多数の木造貨車が保存されている。このうち前述の保線用貨車3両は現在でも、くりはら田園鉄道公園でDB101に引かれて走る姿を見ることができる。


くりはら田園鉄道時代編集

  • KD95形気動車

電化廃止の際に導入。軽快気動車LE-DCシリーズの車両であり、前照灯は鉱山で使うカンテラをイメージしたもの。3両全車が保存されており、うち2両が自走可能。残る1両はひたちなか海浜鉄道への譲渡が計画されたものの、2008年の地震により車庫が壊れ車両を出せなくなったため幻となり、車庫が修復された現在は運転シミュレータの一部となっている。

  • KD10形気動車

元・名鉄キハ10形。いわゆるレールバスであり、朝夕の通学時間帯に2両で運用されていたが、乗客減少により廃止直前はほぼ運用についていない。1両が動態保存されているほか、もう1両は運転シミュレータに使用されている。


くりでんミュージアム編集

旧・栗原電鉄本社の社屋などを改装し、廃線から10年となる2017年4月1日に開館した博物館。往時の備品や在りし日の写真、貨車の展示保存などが行われている。また、旧・若柳駅、およびそこから石越駅方面およそ1㎞の線路が動態保存用・レールバイク運転用に保全されており、動態保存車両の乗車会も毎月開かれている。こちらは「くりはら田園鉄道公園」の名が与えられた。なお、駅舎は廃止直前の状態に手を加え、この駅と全く同じ構造をしていた沢辺駅の木造駅舎の部品を用いて修理したとのこと。

なお、動態保存に使用される区間の終点には信号所が存在し、片町裏信号所の名前が与えられている。


余談編集

  • 鉄道会社の制服は、一般的に黒や紺などの無彩色もしくは寒色系のカラーリングであることが多いが、栗原電鉄の制服はかつての東武鉄道にも似た茶色、すなわち全国的にも珍しい暖色系の色が採用されており、第三セクター化後も引き続き用いられた(メイン画像も参照)。
    • 何の因果か、本鉄道廃止から1年半後の2008年11月より、東武鉄道の制服もブラックネイビーへと一新され、これに伴い暖色系の制服は鉄道業界からほぼ姿を消すこととなった。

  • 映画「男はつらいよ」第41作「寅次郎心の旅路」の序盤にて、栗原電鉄時代のこの鉄道が登場する。車寅次郎が列車に揺られていた最中、自殺願望のサラリーマンのおかげで列車が止まってしまい、どうにか無事だったその男を寅さんが諭すところから物語が動き出す・・・という場面で登場する鉄道がそれ。この時はわざわざ列車の運転を止めてロケが行われた模様。

  • 1960年台の一時期、「宮城中央交通」を名乗っていたことがある。他の会社を吸収合併したことが理由とのことだが、どう見ても宮城の中央と呼ぶには不釣り合いな位置にあるどういうことなの…。結局その後5年ほどで再度経営分離し、名前も元の「栗原電鉄」に戻った。この時分離した会社が、後の宮城交通であり、この名残で栗駒駅にはこの会社の営業所が間借りしていた。

  • 細倉鉱山閉山に伴い廃止となった東北本線との接続線であるが、その後の新車両導入の際、車両搬入を目的として何度か接続線が復活している。このためにわざわざレールを敷き直したらしい。

  • この鉄道の存在意義の一つであった細倉鉱山では第一次世界大戦に伴い亜鉛の採掘量増加が見込まれ、その精錬にかなりの電力を必要とする事情から、当時の鉱山の所有者が1918年に発電事業に着手した。しかし、同年11月の大戦終結に伴い亜鉛の採掘量が急激に減少して大量の余剰電力が発生、この消費のため私営の電気鉄道である「宮城電気鉄道」が建設されることとなった。これが、後の仙石線である。
    • この建設の最中である1923年、細倉鉱山では大規模な火災が発生し、さらに関東大震災まで起きた結果、経営者が鉱山の事業から手を引いてしまい、鉱山資源の輸送がほぼ途絶えたため、栗原軌道の建設は栗駒までで一時中断となってしまっている(この時多数存在した支線の免許も全て失効してしまった。)。なお、宮城電気鉄道の建設は日本生命の融資により続行され、1928年に全線開業を果たしている。

関連タグ編集

廃線  鉱山

初恋*れ〜るとりっぷ : かつてまんがタイムきららMAXで連載されていた4コマ漫画。仙台市が舞台のためか、2巻20話「くりでん*とりっぷ」にて「くりでんミュージアム」が登場している。

その縁があってか、連載終了後の2022年7月に、くりでんミュージアムにおいて「初恋*れ〜るとりっぷ」とのコラボが開催されるというニュースが流れた。


外部リンク編集

くりはら田園鉄道公園くりでんミュージアム

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