概要
1927年の開業以来、旧小田原急行鉄道は旅客輸送に電車を用いてきたが、
このときの電車は総じて手動進段式・つまり間接制御ではあったものの手動で直列・直並列・並列に回路をつなぎ替えてやる必要があるものばかりであった。
目的の速度になるまで運転士の判断でノッチを切り替えていかなければならないため、非常に運転が面倒なのである。
一歩刻みを間違えれば乗り心地は悪化するだけなら可愛いほうで、回路が壊れて電車がストップ、立ち往生という事故も起こりかねないため、
戦時中の大東急時代になってようやく、自動で回路が切り替わる間接自動制御の電車が登場するようになったが、それ以前の車両は自動制御には改造されずに戦後を迎えた。
で、『HB』って?
ウェスティングハウス製の主幹制御器に由来する呼び名で、先に述べた間接非自動制御のものを指す。
当時の電車といえばほぼ例外なく抵抗制御であり、制御器には電気で動くカム軸という部品が存在する。このカム軸を動かすための電源を架線から直接取り入れるのが『HL』、車上で低圧電源に降圧してからから供給するのが『HB』である。
小田急開業当時からの車両であるモハ1(→東急デハ1150→小田急デハ1100)、モハ101・121・モハニ131(→デハ1200)、および全線複線化を機に登場したモハニ151(→東急デハ1250→小田急デハ1300)、モハ201(→東急デハ1350→小田急デハ1400)はもともとHL車であったが、1950年に電動発電機(MG)を搭載して制御方式をHLからHBに変更した。これらの電車が『HB車』と呼ばれるようになったのはこの改造によるものである。
その後
しかし何度も言うようにHLとかHBといった制御方式は、速度を上げるためには運転士が自らの判断でノッチを入れていかなければならず、それゆえ操縦が面倒で効率が悪く、より高性能な自動制御のABF車やABFM車が登場すると次第に運用上のネックとなっていった。また車体が17mにも満たないものばかりだったほか、1100形を除く大部分は2扉であったために戦後急増した乗客を捌ききれないのも淘汰の要因となった。そのため1960年代後半になってモーターを4000形(初代)に譲り、車体はスクラップとして廃棄・解体されるか地方私鉄へと売り飛ばされていくことになった。
関連タグ
HL車:名古屋鉄道における関節非自動制御車の呼称だが、実際にはHB相当の車両が多かったうえに電装品のメーカーもバラバラなので厳密な意味でのHL制御車ではない。