客車についてはスハ32系を参照。
概要
国鉄の前身にあたる鉄道省が1930年から1932年にかけて製造・導入した電車の総称である。
沿線に軍の重要施設が点在する横須賀線は1925年の電化後輸送量が増大。
さらに並行して湘南電気鉄道(後の京浜急行電鉄)が建設されていたことから、それに対抗する目的もあって電車の導入が決定。当時の省線としては例のない長距離運転を行う電車として開発された。
横須賀線の電車運転開始は湘南電鉄の開業より1ヵ月弱早い1930年3月15日(湘南電鉄開業は同年4月1日)であるが、本形式の導入が間に合わなかったため30系・31系などの既製の17m級鋼製電車、さらにはクハ15形など木造車も投入していた。
長距離運転を行う電車であることから座席定員を多く確保するため三等車も2扉で製造された。
さらに扉を車端部に配置して扉間にボックスシートを配置する内装としたが、混雑緩和とドアエンジン設置のためデッキのない構造で扉付近と車端部にロングシートを配置している。
東京鉄道局管内の電車としては初めて貫通幌と引戸を設置し、他形式との併結も可能ながら同系車のみで編成を組むなど従来の省線電車とは異なる特徴を持っていた。
そして制御車・付随車に限っては省線では初めて20m級車体を採用した。
電動車モハ32形のみ従来通り17m車体としたのはモーターは従来形式と同じMT15形であったことから、引張力を考慮してのものとされる。当時すでに私鉄では20m級車体を持つ電動車は登場している。
車体の外観は同時期に製造されていた31系とほぼ同様である。製造時は雨樋を取り付けられなかったが車両限界の拡大に応じて取り付けられたのも同一。
前照灯は幕板部に設置され、その横の運転台窓上にホイッスルを備えていた。このホイッスルは1937年頃にタイフォンに交換され、前照灯は1936年頃に屋根上に移された。
制御機器は31系と同じ電磁空気カム軸式に芝浦製作所もしくは日立製作所製CS9形弱め界磁接触器を追加したもの。
モーターは前述のようにMT15形で、弱め界磁率を70%にしたMT15A形を搭載している。後に電機子軸の直径を150mmから155mmに拡大したMT15C形に改造された。
ブレーキは旧型国電共通のAE式電磁空気ブレーキ。
台車はモハ32形はTR22(DT11)形イコライザー台車、その他はTR23形ペンシルバニア形台車でこれも同時期に製造された31系と共通する。
連結器は製造時は自動連結器を備えていたが、1935年1月から6月にかけて柴田式密着連結器に交換された。
2扉クロスシートで二等車を連結した長距離電車ということもあって戦後の80系の礎となった形式のひとつでもあるが、何の偶然かライバルである湘南電気鉄道の戦前の愛称は「湘南電車」だった。
形式
基本形式
- モハ32形
電動車。32系で唯一17m級車体。1930年度に日本車輌、川崎車輛、田中車輛、汽車製造で32両、1931年度に川崎車輛で13両が製造された。
初期に製造された13両は編成の向きの関係上奇数・偶数問わず上り向きとされたが、以後は奇数が上り・偶数が下り向きとなった。
車内のボックスシートを片側6組とするため客用扉がやや前寄りになっているのが特徴。
ボックスシートのシートピッチは1400mm。
- サロ45形
二等付随車。1930年度に田中車輛で10両、1931年度に日本車輌で3両が製造された。
当初は基本編成に組み込まれていたが、1935年頃に付属編成に組成変更された。
31系のサロ37形と準同型で2扉ボックスシート、シートピッチは1760mm。
- サロハ46形
二等・三等合造車。1930年度に10両、1931年度に3両が製造された。製造は川崎車輛製。
当初は付属編成に組み込まれていたが、1935年頃に基本編成に組成変更された。
二等席部分はサロ45形、三等席部分はサハ48形と同型。
1934年から1937年にかけて関西急電向けに製造されたものは42系に属する。
- クハ47形
三等制御車。1930年度に10両が製造された。全車下り向き。製造は日本車輌。
モハ32形と同型だが20m級車体のためボックスシートは片側8組。
- サハ48形
三等付随車。1930年度に18両、1931年度に10両が製造された。製造は日本車輌、汽車製造。
クハ47形から運転台を廃したような形態。
1934年から1937年にかけて関西急電向けに製造されたものは42系に属する。
- クロ49形
皇族御乗用電車として1931年度に2両が製造された貴賓車。全車下り向き。製造は日本車輌。
これまで皇族御乗用車は木造客車ナイロフ20550を電車に連結できるよう改造した車両を使用していたが、その置換えを目的に製造された。
沿線の葉山御用邸への往来や軍籍にある皇族の横須賀への往復など皇族方が定期的に利用される横須賀線用に誂えられたものであり、モハ32形と2両編成を組んで定期列車の東京方に併結された。その為編成の先頭に立つことはまれであった。
運転室直後に便所と洗面室、その後方に特別室を備え、この部分の外部に御紋章取付用の台座が設けられた。
内装は肘掛付きのボックスシートが2組、折り畳みテーブルと扇風機が設置されていた。
特別室後方に扉があり、その後方は随伴員控室。こちらはサロ45形などの二等車とほぼ同様の内装で、扉脇までボックスシートが続いているのが相違点。
1941年には本形式を使用して初の電車によるお召し列車運行が行われたほか、1947年6月の昭和天皇和歌山県行幸の際にもお召し列車に使用され、吹田工機部で制御回路や紋章取り付け設備の改修が行われている。
157系のクロ157は後継にあたり、基本的に編成の中間に組み込まれていた点も共通する。
改造形式
- サロハ66形
当初32系はクロ49形を除いて便所を備えていなかったが、長距離を運行する電車であることから便所設置の要望が多く寄せられたことから1935年に便所の取り付けを実施した。
床下に水タンクを備え、圧縮空気で揚水する方式が初めて採用され、折り返し時間が短いため便所の扉の開閉に合わせて自動的に便器を洗浄できる水洗式となった。
便所は仕切りのある車体中央部の三等室側に設置された。
関西急電向けのサロハ46形と区別するためサロハ66形に改称されたが、後に関西急電向けのサロハ46形にも便所が設置されたためあまり意味のない改形式となってしまった。
サハ48形も車端部に便所を設置、便所対面側のロングシートをクロスシートに交換したが形式名は変更されなかった。
その後サロ45形を付属編成に、サロハ66形を基本編成に組成変更するにあたり、サロ45形2両を半室三等室化、便所の設置などの改造を行い本形式に編入したが、三等室側のボックスシートが1組少ない2ボックスでシートピッチが1545mmとやや広くなっており、扉脇のロングシートは900mm長い2200mmとオリジナルと異なる内装になっていた。
この補充として京浜線から31系のサロ37形2両が横須賀線に転属している。
- サハ78形
1944年に横須賀線で二等車が廃止されたことに伴い、サロハ66形は通勤形に改造。63系サハ78形の続番としてサハ78009~023に改称された。
便所を撤去し扉を増設、4扉ロングシートとなった。
続いてサロ45形も同様の改造を実施することとしたが、同年8月16日に横須賀線二等車が復活することとなったため改造は6両でとどまった。
そのためサロ45形改造車はサハ78024・027・030・031・032・034と欠番が生じている。
1968年に御殿場線が電化された際に、同線に投入されたサハ78018・023の2両に便所が設置され、400番台に改番された。
- クハ85形→クハ79形
横須賀線二等車復活に伴い、代わってクハ47形を4扉化する計画が始動した。
42系クハ85形の続番としてクハ85027~036に改称する計画だったが、空襲の激化や資材・人手不足に伴い、実際に改造されたのはクハ85030・036の2両にとどまった。
1949年に80系の就役に合わせてクハ79形に編入された。
- クハ47形50番台
飯田線への転属にあたり不足となる先頭車を補うため1951年にサハ48形3両を方向転換したうえで、豊川分工場で運転台を設置した。
運転台はオリジナルのクハ47形とほぼ同型だが、乗務員扉の位置が70mm後方にずれているのが特徴だった。
当初はオリジナルの続番が与えられたが、1959年12月に50番台に改番された。
1953年にサハ48形6両、さらに1956年から1961年にかけて計7両が改造された。
1956年・1959年に改造された5両は横須賀線、1961年に改造された2両は高崎線に投入された。
1953年度の改造車からは運転室の奥行きが拡大されたほか、1959年度・1961年度改造車は前面窓がHゴム支持、助士席側の1枚は開閉可能な2枚窓としていた。
- クハ47形(事故復旧車)
1950年8月24日に身延線の内船駅~寄畑駅間のトンネルで全焼したモハ30173は、1952年に豊川分工場でクハ47形として復旧、当初はサロハ66形改造車の続番としてクハ47023とされたが、1959年にクハ47011(2代目)に改番された。
というのもこの車両は名目上は事故復旧車であるものの事実上は新製車で、基本的な形態はオリジナルのクハ47形と同様だが台枠は70系電車に準じ、全溶接完全切妻車体、内装は80系に準拠していた。
台車は豊川鉄道サハ1形が履いていたTR11形だったが、1966年にTR23形に交換された。
- クロハ49形→サロハ49形
使用頻度の減少したクロ49形を伊東線で一般用として使用することとし、1953年に大宮工場で改造したもの。
旧特別室側を二等室、旧随伴員室側を三等室に改造し、仕切り壁の位置を変更した。
この際にドアエンジンを設置していなかった前部扉にドアエンジンを設置している。
2両とも下り向きであったことからクロ49001はクロハ49000に改番された。
当時の広告では元々が御乗用電車であったことから素晴らしい乗り心地と豪華な室内で好評を博していると宣伝されている。
1956年には編成の中間に組み込まれるようになったため運転台と便所を撤去されサロハ49形となり、クロハ49002はサロハ49001に改番された。
この際に二等室と三等室の配置を逆転し、旧特別室側を三等室、旧随伴員室側を二等室にしている。
1963年に二等室→一等室の利用客増加に伴いサロ15形に置換えられ、扉配置を改造した上で全室三等車→二等車に改造、サハ48形40番台となった。
- クハ68形200番台
1963年から1964年にかけて、横須賀線に残存していたクハ47形2両を3扉化した車両。同時期に飯田線に転属していたクハ47002も3扉化され本形式に編入された。
クハ47002を改造したクハ68200はオリジナルのクハ47形のため便所の反対側の座席がロングシートのままだったが、サハ48形を先頭車化改造した2両を改造したクハ68210・211はクロスシートになっていた。
- クヤ9020形→クヤ99形
1951年6月26日の架線事故で焼損し休車状態となっていたサハ48008を改造した電気車性能試験車。
パンタグラフ2基を搭載し両運転台化、室内に測定室、倉庫、調査室、工作室、架線観測室、暗室、配線室などを配置した。
当初は濃緑色、後にぶどう色に黄色帯の塗装を纏った。
1959年にクヤ99形に改称され、1976年まで活躍した。
運用
戦前の動向
基本編成4両+付属編成3両の7両編成が組成され、横須賀線に投入された。
基本編成は横須賀駅方からモハ32-サハ48-サロ45-モハ32、付属編成は同じく横須賀駅方からクハ47-サロハ46-モハ32が基本的な編成だったが、横須賀駅方先頭車をモハユニ30形とした編成や5+2の7両編成(付属編成にサロハを連結しない代わりに基本編成の東京方2両目にサハを連結)もあった。
当時は中央線が最大7両、山手線・京浜線が最大8両編成であった。
1935年にモハユニ44形が導入され、サロハ46形・サハ48形に便所が設置されたことから4+3の7両編成に統一された。
当初屋根上の通風器はガーランド形1列だったが、通風改善のため1937年度に約50両が3列に増設された。翌年には戦時体制に入ったため中止されたが、室内天井に通風口を開ける工事は続けられたため屋根上の通風器が1列のまま天井の通風口が3列になっている車両も存在した。
1940年に開催予定だった東京オリンピックを記念して、1938年にモハ32形4両、サハ48形・サロハ66形各2両の4両編成2本が海老茶色とクリーム色のツートンカラーに塗り替えられた。翌年には元に戻されたとされる。
当時の旧型国電は33系、40系を中心に側面に方向幕を備えた車両もあった。大部分が戦後の更新修繕で埋められたとされるが、本形式でも少なくともサロ45004→サハ45004に方向幕を埋めた跡が残っていた。
戦時体制に入っても軍港への需要から横須賀線に二等車は残され、京阪神地区から51系のクロハ69形を転入させたが、1944年4月1日に廃止が決まり、合わせて座席を撤去しロングシート化、扉の増設などが実施された。
しかし海軍の要請により1944年8月16日に横須賀線二等車の復活が決まり、さらに戦況の悪化に伴う空襲の激化、資材・人手不足に伴い、実際に扉の増設が行われた車両はわずかだった。
サロ45形に関しては横須賀寄りに鋼板で覆った防弾構造の特別室を設置している。
横須賀線専属の形式であったが、戦前にまだ青梅電気鉄道だった青梅線へ臨時列車で乗り入れたほか、大戦末期は状態のいい車両を常磐線、赤羽線、横浜線などに疎開させ、代わりに状態の悪い車両を横須賀線に転入させるという動きもあり、自力走行ができない電車を電気機関車が牽引して運行したという事例も確認されている。
戦後の動向
首都圏と軍都横須賀を結ぶ横須賀線に投入されていたこともあって11両が戦災、5両が事故廃車となった。
これらの中には70系客車に改造されたものや、私鉄に払い下げられた車両もある。東京急行電鉄3600形のほか、小田急電鉄1700形は事故廃車となったモハ32形の台枠を流用して製造されたとされる。
1945年12月にサハ48形3両が代用二等車として運用されるが、1946年9月にサロ45形を含めて全車が連合国軍に接収され連合軍専用車となった。
サハ48形のボックスシートは体格の大きい連合国軍人には狭かったためロングシートに改造された。
その後1949年7月30日に二等車の連結が再開された際にはサハ48形14両が代用二等車として使用されていたが、これらの中にも連合国軍に接収された車両があった。
連合軍専用車が廃止された際にはロングシート化されたサハ48形7両は引き続きロングシートのまま使用された。
この時期の横須賀線は42系や63系が転入するなどしており、戦前には見られなかった他形式との混結運用も見られた。
1947年には7+2の9両編成、1949年には7+3の10両編成と次第に長編成化されていった。
1950年に80系が就役したことから格差是正のため32系も更新修繕を実施。この際に扉を鋼製プレスドアに変更したほか、車体塗装を青色とクリーム色のツートンカラー、通称「横須賀色」に変更した。
これに先立ちモハ32028に試験塗装を行ったが、前面と右側が藤色とクリーム色の横須賀色風、左側が薄緑色と橙色の湘南色風という左右非対称の塗装がされ「お化け電車」と呼ばれたとされる。
同時期に京阪神地区から42系が導入されたほか、1951年に70系電車が導入されたことから、余剰となったモハ32形・クハ47形・サハ48形は順次身延線・飯田線に転出した。
この際に電動車を下り向き、付随車を上り向きに統一するため方向転換やサハ48形の運転台取付を行っている。
身延線に転属したクハ47形8両は豊川分工場で便所を設置している。この8両は便所の反対側の座席はロングシートのまま残された。
1953年の車両称号規定改正に伴い17m級車体のモハ32形はモハ14形に改称された。
1954年から桜木町事故の教訓から2度目の更新修繕が実施され、ベンチレーターのグローブ型への交換、内装の木部の取り換え、前面運行番号表示器の設置、パンタグラフのPS13形への交換、貫通幌の片幌化・鉄製幌座の設置、天井板の軽合金化、室内灯の2列化などが行われた。
また身延線に転属したモハ14形は低屋根化改造が行われ、妻面の印象が大きく変わっている。この時点では特に改番は行われていない。
1959年6月の車両称号規定改正に伴いモハ14形はクモハ14形に改称。同年12月に身延線用低屋根改造車が800番台に改番された。
1964年から1965年にかけて最後まで横須賀線で運用されていたサロ45形5両が内装をそのままにサハ45形に改称され、身延線と飯田線に転出した。ただし飯田線に転出した車両は短期間で大糸線に渡っている。
晩年
2扉のまま残された車両はサハ48形の一部が岡山で、サハ45形の一部が大糸線で使用されたほかは身延線、飯田線で運用された。
17m級車体のクモハ14形は1966年頃から京阪神地区から転入するクモハ51形・クモハ60形に置換えられる形で廃車が始まり、1970年度までに全車廃車となった。
その後も20m級車体の制御車・付随車は引き続き運用され、飯田線のサハ48形は52系の中間に組み込まれ、クモハ52形1次車との編成は狭窓が連続する編成で人気が高かったとされる。
サハ48形は宇野線の車両は1976年に、飯田線の車両は52系と共に1978年に全車廃車となった。
その後は1981年に大糸線と身延線から、そして1983年に最後まで残ったクハ47形2両が飯田線から姿を消し全車廃車となった。
1969年にクモハ14形2両が富士急行(現:富士山麓電気鉄道)に譲渡され、同社7000形として1983年まで運用されていた。