概要
1958年に、東京~博多間にて運行されていた特急『あさかぜ』を契機に、『富士』『さくら』『はやぶさ』などの名門特急に投入され華々しいデビューを飾った。軽量構造の車体、密着自動連結器と大容量油圧緩衝器による走行中の衝撃防止、空気バネ台車の採用、電源車を連結し電源を一括供給、その電力による全車冷房完備と厨房設備の完全電化、全車同一形式による固定編成化、丸みを帯びた車端部に青15号にクリームの帯を巻くなど、当時としては画期的な新機軸を多数採用。その優秀さゆえ『走るホテル』と称され、後の後継車両14系や24系、はては夜行列車全般を言い表す『ブルートレイン』の元祖となった車両である。1970年までに計473両が製造され一世を風靡したが、のち急行転用改造や廃車を経て数を減らし、JR化後の1997年に引退、翌年に少数の保存車を残し解体された。
なお、近年の絵師は車体色を14系や24系と混同することが多いが、当系列は明度の低い「青15号」が基調であり、その後の「青20号」(フタロシアニンブルー)とは色相も異なる。
主幹形式(寝台車・食堂車・電源車)
ナハネ20型
1958~70年にかけて253両が製造された、本系列最多勢力。ナハネ11型がベースで、定員54名の区画も変わらないが(ただし各形式とも通路の配置が反転している)、寝台の上下間隔が広くとられ居住性が改善されている。新造車のほかにナロ20・ナハ20・ナハフ20からの台枠流用改造車が存在したが、改造後短期間で廃車されている。
ナハネフ22型
1964~70年に26両が製造された、2等寝台(後のB寝台)緩急車。寝台特急には座席車の連結を廃止する方針からナハフ20の代替として製造された。3段寝台を8ボックス設置し、定員48名。丸みを帯びた流線型の非貫通先端部が特徴で、この部分は展望室となっている。
ナハフ20からの改造車が存在したが台枠から上は新造になり、これも短期間で廃車されている。
ナハネフ23型
1964~70年に20両が製造された緩急車。ナハネフ22型と違い、こちらは分割・併合を前提とした切妻前面の貫通構造となっており、のちのスハネフ14・オハネフ24のご先祖様といえる。定員はナハネフ22型同様48名。
ナハフ21からの改造車が存在したが、やはり車体は新造となったものの短期間で廃車されている。
ナロネ20型
1958年に3両のみ製造された1等(のちのA寝台)寝台車。全個室の最上級客車で1人用個室「ルーメット」10室と、2人用個室「コンパートメント」4室で構成され、定員18名。登場から1975年の退役まで一貫して『あさかぜ』のみに充当され、格下げ転用されることはなく1976年に廃車された。
ナロネ21型
1958~70年に59両が製造されたプルマン式1等寝台車。定員28名。後年急行転用により余剰となり一般座席車のナハ21に改造された車もあった。
0番台
初期製造グループ。喫煙コーナー・給仕室・荷物保管室・和式ならびに洋式トイレが設置された。のちに後述の100番台と同等に改造され500番台となる。
100番台
『みずほ』のナロ20型連結がなくなったのに伴い、給仕室がいろいろあって最終的に専務車掌室に変更されたため分けられたもの。この仕様変更は以降の標準仕様として定着した。
ナロネ22型
1958~63年に8両が製造された1人用個室・解放寝台合造車。個室6室、喫煙ルームを挟んで解放寝台が16区画設置され、定員22名。のちの乗務員室の窓新設改造よって全車100番台化された。
あさかぜが24系25型化される1978年まで活躍を続け、保存車が北海道に存在する。
ナシ20型
1958~70年に計36両が製造された食堂車。客車食堂車としてはスハ43系の食堂車マシ(→カシ)36に次ぐ電化キッチンを備えた車両である。カシ36が大きめの車軸発電機の電力で賄う電化キッチンだったため熱量不足に陥り(加えて調理師の作業習慣からコンロが割れるという想定の斜め上の故障も多発)、やむなく石炭焚きに改造したのに対し、本形式はディーゼル発電セットからの電力により必要な熱量を確保した(加えてコンロも、今見かけないようなえらく頑丈な構造となっている)。
日本車両と日立製作所という製造元の違い(工業デザイナーが参加したか否か)、さらに増備途上での仕様変更により個体差が激しい車両である。詳細はwikipediaの記事を参照のこと。
リンク先のとおり、この時代の電化キッチンというのは有り体に言えば電熱器のたぐいであるが、家庭用のものとは桁違いの容量・熱量を持ち、コンロ1口で3~4KW(家庭用は0.6~2KW)、オーブンや炊飯器まで含めた総容量としては15~23KWもの消費電力量と熱容量を持つ(カシ36のものは9.6kW)。
1978年で現役は終了したが、減価償却の関係からJR移行時まで車籍が残り各地に留置されていた。
マニ20型
1958年に3両のみ製造された電源車。車体長が17.5mと短いのが特徴。少数派故カニ21に追い立てられるように各地を転々とし、秋田で全車最期を迎えた。
カニ21型
1959~70年に29両が製造された電源車。マニ20型に比べて車体長が20mに拡大され、荷物室拡大や燃料タンクの容量拡大などがなされた。最終増備車123~125は電源装置の遠隔制御機構が搭載され、他車にも追加されたが車番の変更はされていない。
のちに後述のカヤ21型に一部が改造された。
カニ22型
1960・63年に『はやぶさ』用に6両が製造された電源車。前述2形式がディーゼル発電だったのに対し、こちらは加えて直流電化区間にて架線から集電しMGで発電する方法が追加されたため、屋上にPS18型パンタグラフが2基搭載され、燃料タンク容量拡大、補助タンク2基と炭酸ガス消火装置などいろいろ積みまくった結果、荷物・燃料込みの最大重量が64t、軸重16tと幹線機関車並みになった。
あまりに重くなったため規格の高い路線以外は速度制限を受けることとなり、熊本以南を速度制限を受けて走るよりも長崎本線を強化して最高速度で走ったほうが得策とされ、結局『さくら』で運用された。食堂車を含めた編成全部の電源を2基のパンタグラフから直流1500Vで受電するのも、走行中はともかく停車中の架線の負担があまりにも大きかった(電車1両の力行時とほぼ同じ量の大電流が常時通電するため)。
後年の鉄道雑誌に、関連するためか同じ文脈でほぼ同じ年代のドイツ語圏の鉄道(スイス・西ドイツ(当時)など)で使われていたパンタグラフ付き電化厨房食堂車が挙げられている。
しかしそれらの場合、15kVという特別高圧・小電流である上、食堂車パンタが取るのは駅や操車場で電気機関車を切り離している間の食堂車の熱源の分だけであった。
彼の地は冷帯で夏場のエアコンなどは当時一般的でない国でもあり、そもそも1/10の電圧(同じことをするのに10倍の電流量になるのに)でより大規模なことをしようとするほうが無理である。
軽量化の失敗と後年の20系を彷彿とさせる追加装備により想定以上の重量となったが、九州方面で使う分には許容範囲だったようで、5番目の九州特急となる「富士」向けの追加製造も内定していた。従来の電源車もDGとMGの両用に改造して、両方方式が今後の標準スタイルとする計画も考えられた。
ところが、高度経済成長による生活水準の向上により、九州以外の列車にも当系列を充当することになった。非電化区間や交流電化区間の多い地域にも20系が進出することになる。そうなると、直流電化区間でしか使えないパンタグラフやMGなどの存在意義はなく、カニ21にカニ22のDG技術や燃料タンク増設などの経験をフィードバックした方式が標準とされた。
これにより、他の電源車と共有運用をするため日立製の3両は早々にMG撤去、最終的には1968年の「ヨンサントウ」改正で架線集電を放棄、肝心のMGとパンタグラフも撤去され、発電エンジン専用となったことから燃料タンク増設と荷物室の荷重増加改造を行ったうえで予備車扱いとなった。
うち2両が24系に編入され、後述のカニ25となった。デザインラインが全く違うことから目立つ存在であった。
20系の電源車全てに共通することとして、給電電圧が三相交流600Vと特急電車・気動車は勿論12系以降の新型客車(全て440V)とも異なる電圧を設定してしまったため、そのままではそれらと全く互換性がなく、必ず何らかの改造を伴う結果となった。
※電源電圧などを共通にしたのは、一般に供されない皇室用新一号編成(1960年~)のみ。
20系の基本型電源車の規格を一号編成に小型化して適用し、一号編成とほぼ同じ発電装置を20系付属編成用電源車であるマヤ20にも積んだ。
主幹形式(座席車)
ナハフ20型
1958~63年に9両が製造された2等緩急座席車で、定員68名。座席は一応回転式クロスシートであるが、これは基地における転換作業の簡易化を狙ったもので、のちに改善されたものの、乗客が任意に転換することはできなかった。ナハネフ22同様、車端部は流線型で左半分が展望室となっている。
初期の車両は展望室側の曲面ガラスが分割され角ばっているが、これは大型曲面ガラスの製造技術が確立されていなかったことによる。
一般座席車中最後まで活躍をつづけたが、ナハネフ20・22、ナハネ20に改造された。
ナハフ21型
1958~63年に10両が製造された2等緩急座席車。定員60名。ナハネフ23型同様、分割・併合を想定した貫通構造。食堂車より遠い付属編成の乗客のために車内に売店スペースが設けられ、飲食料品や新聞が購入できた。
後にナハネフ21・ナハネフ23に改造された。
ナハ20型
1958年に3両のみ製造された2等座席車。定員64名。車内設備はナハフ21型と共通である。
後にナハネ20に改造された。
ナロ20型
1958~60年にかけて製造された1等座席車で、定員48名。ナロ10型がベースで、室内には1.170mmピッチでリクライニングシートが展開し、シートピッチだけ見れば現代の新幹線N700系のグリーン車より広い。ほかにスポットライト式読書灯が1席毎に設置された。
これらはいずれも1964年の東海道新幹線開業後、20系担当列車の全車寝台車化の施策により、車体載せ替えによりナロ20型3両を残して消滅した。ナロ20自体は1975年改正で運用離脱、廃車されている。
これら座席車(特にナロ20)が存在した理由は、短距離利用者のためとも、企業・官庁等の出張旅費規定によるところとも言われている。
(一番廉価な2等寝台車の寝台券が経費で落とせないのに、座席車であればより総額が高価となる1等車への乗車は全額勤務先負担可能、という不可解な規定が1975年頃まで残っていたため)
改造車
防火・汚物処理装置取り付け
1970年代に入ってから沿線環境の都市化により、汚物を軌道周辺にまき散らしてしまう非衛生的な垂れ流し便所が「黄害」として問題になり、循環式汚物処理装置装備改造が順次行われた。ほぼ並行して1972年に発生した北陸トンネル火災を契機に車体各部の部材交換による不燃化もおこなわれた。
工事進捗の度が進むにつれ奥羽本線板谷峠を経由する特急「あけぼの」において(ちょうど、使用される1970年増備車が全般検査を迎えた時期である)、当該区間において悪天候・冬季にけん引機であるEF71に深刻な空転問題が発生し、ダイヤ遅れが頻発するようになった。調査の結果、汚物処理装置および不燃化部材の重量増で、重量が32.5トンを超過した「オ」級となっていることが判明した。(当初13両で410tであった編成重量が改造で全体で60tを超過し470tとなった。EF71の板谷峠区間での単機許容牽引重量である430tを大幅に超過している)
扱いとしては全ての20系客車の形式表記の前に重量増加車の証である▲マークを表記し、今後実質「オ」級として扱うが形式は変更しないこととなった。
同時に空転問題の激しいEF71には粘着特性に優れる(機器に若干無理はかかるがよほど空転しにくい)ED78の補機連結が常態化し、1980年の24系化の際はED78が2両増備され、ED78重連限定運用となった。(趣味紙では模型業界にうまみの多いEF71を売りたいスポンサー事情から、重量増加問題ともども取り上げられることの少ない話題である。本来のEF71の目的である車輛耐久性保持の観点もあるのか、1982年東北新幹線開業後はオロネ24を1両を減車・転用したうえでED78+EF71重連に変更と、条件が緩和した運用となった。)
マヤ20型
1963年の『みずほ』の20系化の際、門司~大分間の付属編成に連結する目的で旧型客車オハシ30・スハ32型から計6両が改造された電源車。荷物室が設置されなかったため職用車を表す「ヤ」となった。
本来付属編成用であるから発電設備の容量も小さいが、夏より小さな負荷である冬場(暖房は冷房の半分から1/3で足りる)に於いて、事故対応の突発事象とはいうものの、1963年11月に下関~東京の編成全体分を負担して走ったことがある。
ナハネフ20・21型
1964・65年にそれぞれナハフ20型3両、ナハフ21型6両を改造した車両。車体を流用したため、種車の窓割り2枚分をつなげて1枚としたため、寝台はナハネフ22・23より1ボックス分少なく定員42名となっている。寝台区分が広い分、定員が少なく、昼間の寝台解体時の居住性はすぐれていたとされる。
カヤ21型
1976~78年にカニ21型18両を改造したもの。20系の急行列車への格下げ時、機関車との間に荷物車を連結することになったが、その荷物車に20系が必要とする増圧圧縮空気を伝える元空気ダメ管がないこと(登場時点ではそうでもなかったが、後に110km/h運転を始めるに際し、後述の通り増圧機能付き電磁自動空気ブレーキにしたため、110km/h運転しない場合も含め元空気ダメの引き通しが必須となった)、元空気ダメ管非搭載機関車による牽引が予想されたことから、元荷物室に廃車された181系から持ってきた空気圧縮機(CP)を搭載したのが本形式で、荷物室がなくなったため形式が「ヤ」となった。最末期は電源車は後述する『ホリデーパル』を含めすべて同形式だった。
ただしEF65PFなど空気元ダメ管を持つ機関車と、直接連結する場合に限ってはカヤ21側のコンプレッサーは止めておき、機関車の空気元ダメ管と接続された。変わったところではEF65の検車の関係で、本来は高速貨物用に空気元ダメ管を持つEF66が『あさかぜ81号』に充当したときも、EF66と空気元ダメ管が接続されカヤ21のコンプレッサーは使用しなかったという。
ナハ21型
急行『十和田』『だいせん』用に余剰のナロネ21型16両を改造した座席車。上段寝台を撤去し荷棚を設置、下段をボックス席として固定したもので、定員64名。格下げ車として後の715系電車に通じる改造であり、居住性はあまり優れていなかったとされる。
500番台
前項のように20系の全車寝台化に伴い、座席車形式4形式を、ナロ20型3両を残してナハネ20・ナハネフ22・23へ改造したグループ。こちらは車体を丸ごと載せ替えており、外観上オリジナル車と大差ない。
1000・2000番台
夜行急行列車に連結されていた寝台車10系グループの置き換えのため、相方となる12系客車から電源供給を受けられるように改造したグループ。うち1000番台は12系と直接連結する車両(12系側から給電される440V三相交流を600Vへ昇圧する変圧器を積む)、2000番台は20系同士で連結する車両にそれぞれ付番された。
このグループは12系に合わせる形でドアが鎖錠式から自動ドア(折戸式)へと改造され、扉回りの外形も若干変化している。
ナハフ20型は1000番台14両と2000番台8両、ナハネフ22・23型はどちらも1000番台のみで前者は11両、後者は3両が改造され、『ちくま』『さんべ』『かいもん』『日南』に充当された。
オニ23型
1988年にフジテレビの企画で来日した『オリエント急行』の国内での運行用控車として、既に廃車になっていたナハネフ23-8を改造した車両。ナハネフ23がまだ廃形式ではなかったので、車籍復活手続きが簡素だったゆえ、改造・改形式も容易だったと推測される。
塗装をオリエント急行並みに変更し、ワゴン・リ車寄りの片側連結面にかぎ式連結器とバッファーを装備。幌も合わせた規格のものに取り替えている。室内はシアターカーとして改装され、日立製ハイビジョンテレビのデモンストレーションに使用された。荷物車扱いだが、しいて言えばこのテレビが積荷か。運行終了後再度廃車。
カニ25型
唯一他系列へ改造された形式で、1975年の改正で24系『あかつき』の付属編成の電源車として2両が改造された。前述の通り、電源電圧は600Vから440Vへ変更されている(発電機の改造による)。ブレーキなども24系に合わせたほかはほぼ種車の面影を残していた。
700番台『ホリデーパル』
1984年に國鐵廣島鐵道管理局に登場した魔改z…ジョイフルトレイン。主な改造はモケットのオレンジ化、寝台をスペーサーで仕切れるようにして簡易個室にできるようにしたことである。当初はナハネフ22型1両とナハネ20型5両が改造され、700番台に区分されたが、塗装はそのままだった。のちに14系オシ14-1を改造し-701とし(この編成の場合、オシ14(→オハ14-700)の側を600V給電にも対応するよう改造)、「ラウンジカー」として連結。1990年に塗装を専用のものに変更し、この時カヤ21・ナハネフ23型を1両ずつとナハネ20型2両を塗装のみ変更して増結。臨時『あさかぜ』や臨時急行『玄海』などに担当されながらしぶとく生き残り、廃車を迎えたのは20系が完全引退した1997年3月のことであった。ナハネフ22が原型の特急色に復元のうえ某所で個人保存されているようである。(原則非公開)
このほか、全車両にブレーキ改造が施され最高速度110km/hへ上昇する改造が行われたほか、国鉄末期には14・24系同様の塗装へ改められ、窓上の細帯が消されていた。
この高速対応ブレーキは「電磁自動空気ブレーキ」で、今現在の電車列車で多く使われる「電気指令ブレーキ」とは異なるが、機関車からの指令で各車一斉に電磁弁を動作させブレーキ管の増減圧を行うため列車後尾でブレーキの応答が遅れるということはなく、少なくとも乗り心地という点では12系~24系の電気指令のない三圧式(CL)空気ブレーキより優る面を持つ。