概要
スハ43系客車とは、1951年から日本国有鉄道(国鉄)が製造した客車形式である。いわゆる「旧客」の1つ。本形式は急行型客車であったが、数年して間もなく普通列車運用に就くことが多く、鉄道ファンからは一般型客車と呼ばれる事も多かった。尤もこれは当時の客車の投入に対する考え方によるものであるが、新製車の投入先は優等列車が優先されていたためであり。したがって、国鉄としては本形式には正式な意味で急行型や一般型に分類される明確な車種を設けていない。
国鉄民営化直前の1987年まで定期運用に就き、現在JR東日本では臨時列車ながらも動態保存車が運行されている。
特徴
後年の改造や郵便車・荷物車などの重量制限によるものを除き、TR40・46・47という大型の鋳鋼製ウイングばね式台車を用いている。
車両の振動が解析され、戦前まで横揺れの幅を抑えるため釣りリンクを短く(310mm程度)、バネは軸ばねが柔らかく枕バネが硬い様式を、全く逆にし、車種によっては防振ゴムも用いた。
しかしこれらは高速運転を当たり前にしていたアメリカや、日本国内資本でも関西私鉄や満鉄では当たり前の流儀で、出遅れていただけとも言える。
吊りリンクの延長は、TR23の系譜に属すTR43・45(70系・80系電車)にも適用された。
TR40の系譜の台車は2軸としては極めて重く(1個6t超=1両に2個要るので台車だけで12t超)、軽量化の動機にすらなったことを考えると、振動特性に配慮しながらもそこそこ軽いTR23系統であるTR45(1個5t程度)を履いた車両を多く作ったほうが適切だったというのは何とかの後知恵だろうか。
全く目立たない小さな特徴であるが、車内に露出するネジ類(木ネジ含む)が全てプラスネジに切り替えられた最初のグループである。これは本系列が増備されている時期が朝鮮戦争と重なっており、金属くずの価格が高騰していたため、ネジのような小さな金属類はたちどころに盗まれてしまっていた事への対策だった。
それまで標準で用いられていたマイナスネジは、小銭をドライバー代わりにして外すことが出来てしまうので、発見次第修理するにも今度はネジ自体が高くなっていて難しくなった。プラスはそういうことが一切できないので、十分に対策たりえたのである。時代が下った2020年代の今日では全くマイナスの木ネジは流通しておらず、モハ63の展示用復刻では若干の不都合が生じた。
主な形式
普通車
スハ43
1951年から製造された3等車。車体の完全切妻化や雨樋管をプレスによる偏平な形状に変更など様々な新仕様が取り入れられ、特に台車はTR47台車という新形式により乗り心地を大幅に改善された。
698両が製造され後に軽量化の為(もあるが10系の改造寝台車であるオハネ17・スハネ16に乗り心地の良い台車を召し上げられたという一面もある)1961年~1963年にかけて328両がTR23台車などに履き替えられオハ47に改番。
また製造後の重量検査の結果、自重がオ級に収まっていた160両(台枠の厚み圧縮や合板厚の削減座席台座の鋳物製品から薄手のプレス製品への変更など逐次軽量化の工夫があり、メーカーによっては後年のグループは軽めに仕上がっていた)がオハ46に改番された。
スハフ42
スハ43の緩急車版で、こちらも1951年から新製された。車掌室は車端部にあるのが特徴。
合わせて335両が製造された。スハと異なりスハフは台車を交換したところで重量等級が下がらないため、台車履き替えは実施されなかった。軽量化は車体そのものに手を付けたオハフ45の新造またはオハフ33 630(1両のみ)の改造まで待つこととなる。
オハ47・オハフ46
前述の通りスハ43をTR23台車などに履き替えた車両。台車のブレーキテコの形状と寸法を変更し台車の上心皿と下心皿を改造したTR23台車を履き替えた(一部の車両は円軸コロ受やTR34台車を使用したのもあった)。オハフ46は、全てオハ47から改造された車両である。
車両自体の軽量化したものの、揺れ枕の吊りリンクが短いTR23台車を流用している関係で乗り心地はやや悪くなった(ブランコの理屈通り、振幅自体は抑えられるもののキコキコという小刻みで不快な振動を助長するためである)。従来系列より下に50mm厚いスハ43の台枠構造に起因して心皿は必然的に加工したものの(スハ43のTR47と、後述の特別2等車スロ51~54のTR40Bの差異は心皿及び中梁部分の構造である)、揺れ枕吊りの延長(グリーン車・寝台車などでは実施し、TR23DまたはEと呼称)にはまず支点の高さを20cmほど引き上げるため、それがぶら下がっている中梁を取り替えねばならず台車の解体が要り工数と費用が大幅に嵩み、普通座席車には実施されなかったためである。
なお類似車として、「東田子の浦事故復旧車」が1両のスハ42以外、オハ47(と緩急車オハフ46)にしか見えない外形で復旧しているが、いずれもオハ35系の形式で車番を付けられている。
現在名古屋市の「リニア・鉄道館」で「スハ43」として展示されている車両は、廃車時点でオハ47のまま長期保管されていた車両で、展示に際し再度台車をもとのTR47に戻したものである。
スハ45・スハフ44
スハ43・スハフ42の北海道向け仕様車は、オハ61系に対するオハ62系と同様、別形式が与えられた。車体の基本構造はほぼ同じだが(外観も遠目には大差ない)、冬場-20℃台も当たり前な気候に順応するため、窓の二重化や暖房システムの強化、部材の凍結防止対策がなされている。
なお、後天的にスハ43・スハフ42を北海道向けに改造したグループは、構造的にこのスハ45・スハフ44とほとんど同じながらこれには編入されず、元形式の別番台に改番された。
※ここに荷物合造車(オハ35系のスハニ32相当)がないのは、60系客車の台枠を使った改造車で登場したためである(オハニ63→オハニ36・スハニ37)。
オハ46・オハフ45
スハ43・スハフ42の軽量型グループ。年々軽量化の取り組みは続けられていたが、積車状態で「オ」級(32.5~37.5t、メジアン35t)に収まるよう設計・製作されたものがオリジナル車である。
これらは100台以下のグループだが、オハ46には398以降の番号を持つものが多数派となっている。これらは製造時点では「スハ43」として竣工しており、製造後の計重で「オ」級に収まることが分かり改番されたもの。続き番号に揃えるのは却って混乱するからか、形式を書き換えただけであり、そのため計重しても重かった車両群(製造所による)の部分はさらに飛び番となっている。
なお、なぜかオハフ45ではなくオハ35系の形式であるオハフ33 630に改番されたもとスハフ42 18の軽量化改造項目はオハフ45のものとは全く異なり、座席のナハ10系用のものへの交換、内装材の新建材系素材への取替、床下水タンクを軽合金製品への取替と、スハ42→オハ36のそれと類似する。
優等車両
マシ35・カシ36
1950年予算で1951年に登場した食堂車。洋食を基本とするためか全幅2.8mの車体では通路を差し引くとテーブル配置は横1+2の3列、計30席分しか席が作れなかった。合計5台のみであるが、設備の違いで形式が分かれ、当初はマシ35が3台、カシ(当初マシ)36が2台で登場している。
カシ36では電化キッチンを搭載したが、※電源が車軸発電機で不安定な上、当時の調理師の鍋使いが結構荒く(あおる際なのか叩きつけるようなフライパンの振り方をしていた)、電熱線を埋め込んだ天板面が割れたりもした。この不具合のため、登場の2年後ひとまずカシ36はキッチン設備のうちコンロと温水器を石炭ストーブに、食材用の電気冷蔵庫を氷冷蔵庫に交換(これに伴いマシ35形10番代に編入)、5年後に軽量客車として登場した10系のオシ17も厨房に関してはマシ35相当となっている。
後年の20系客車や151系電車の食堂車のコンロは、電源の余力が出来ようやく完全電化キッチンとなったが、カシ36の問題点を反映し、今市販の電気コンロではまず見かけない、恐ろしく頑丈そうな鋳物製品と思しき五徳の間にシーズ線が潜らせてある。
新製された鋼製二軸ボギー食堂車では最初の形式のはずが形式番号が35と5つ(30~34)飛んでいるのは、この時期日本は連合国占領下で、進駐軍用列車の食堂車(調理車と言ったほうが適当なものも含む)が改造で作られていて、これらに30~34が充てられていたため。
後に空調設備が車軸動力からディーゼル駆動に変更されており、この時点で厨房の再度の電化も不可能ではなかったはずだが(かつ車両用電気コンロも完成の域にあった)、結局石炭焚き・氷冷蔵庫のまま1970年頃終焉を迎えた。
この形式から台枠が下に厚くなっており、台車もスハ42以来のTR40(~TR40A)に見えるが実は心皿の低くなった専用設計、TR46となっている。
※実際になされた改造とは逆に、将来の厨房電化を見込んだ設計となっていた(つまりマシ35→マシ36の積りだった)。また、当時の石炭レンジ調理では、ステーキや炒めもの等特に強火が欲しい場合、調理師は石炭にさらにラードなどの油を加えることで一般家庭ではおよそ使わないような強火を日頃から使っていた。
スロ51・52/スロ53・54
いわゆる「特別2等車」として登場。
51・52と53・54とでシートピッチが違い、53以降の1160mmがその後の標準となった。
スロ53と54の相違は新造時点での照明器具が電球か蛍光灯かの差しかないが、別運用のため形式が分けられた(後に53も蛍光灯に改造される)。
外形上、全てスハ43のグループに完全に属しているように見えるが、実は台枠の中心部分の組み方が前系列オハ35系のそれに近く台枠底部のレール面上高さが高いため、台車もTR47ではなく、その前身のTR40(バネの柔らかいTR40B)となっている。
この台枠の構造差のため、後年冷房化の対象となったスロ54は冷房機器・電源の搭載により重くなる自重を帳消しにするためTR23を改造したTR23D、E(内容は上述のオハ47参照)に、他の形式は通勤客車や荷物車などになった際にTR23等へ交換して荷重を確保しているが、これらは心皿高さを大きく変更したりはしていない。
マイネ41
一等寝台車。直前に登場したマイネ40は分類上、大抵オハ35系に分類される(折妻のため)。
TR40台車・空調設備など類似項目が多いが、マイネ40は台枠の差異のほか、後年履いていた台車があとからの交換によるものであるの(元はTR34で、揺れ枕リンクが短く振動特性が悪いところへ空調のドライブシャフトが車軸から直に走行振動を車体に伝えるため、かなり問題になった)に対し、41形は製造時点からである。
一等車として運用されていた時代は短く、1955年には二等寝台に格下げされている。
晩年は車体の重さ以外は10系のオロネ10と共通に使われるようになった。
スロネ30
二等寝台車(登場当時)。4人1室の個室形であるが、これは治安が悪化し戦前のような開放式寝台が心もとないということで内側から鎖錠可能な個室が望まれたという、あまりありがたくない理由による。
600mm幅の寝台が2段積みという、昭和50年台以降であればB寝台レベルの設備であるが、当時今のB寝台にあたる三等寝台は肩幅程度の寝台幅かつ三段のものに限られていたので、一応優等車両の体をなしていた。
但し先述のマイネ41など元の一等寝台が格下げになると非冷房の本形式は見劣りし、かなり早期に荷物車などへ改造されて消滅した。
他の私鉄会社でのスハ43系
南海電気鉄道
当時の国鉄紀勢本線方面への直通列車として、モハ2001形3両牽引+客車1両による「南紀直通客車列車」が運行されていたが、使用されていた客車は国鉄からの借り入れであった。自社所有客車での運用を望んでいたことから、スハ43をベースとして1952年5月にサハ4801形が1両新製された(名義上は木造車体の電車の鋼体化改造。あくまで「ベース」であるためか、屋根高さや台車中心距離などが原型スハ43と異なる)。塗色は当時の南海でおなじみ緑色1色で、客車列車のなかでも異彩を放っていた。定期検査時は従来通り国鉄からの借り入れをとっていた。
本来は南海電鉄としてはより豪華な、なんとなれば二等車相当の車両を作りたかったらしいが(商売であるから集客を考えるのは本来当然である)、乗り入れ先の国鉄から、「国鉄の三等車相当であること」という条件が付けられ、その枠内での「豪華さ」を図ることになった。
当初より蛍光灯照明(今と異なり蛍光灯が高価で珍重されていたため、まず優等車から使うのがセオリーであった)で座席もシートピッチはスハ43と同一寸法ながら一見二等車の様な仕立てのため、特別料金を取られると勘違いが多発、紀勢線内ではむしろ空いていたという。
暖房熱源は南海線内は電車から供給の電気、紀勢線内は蒸気を用いた。
その後、国鉄キハ55系ベースのキハ5501・5551形「きのくに」の台頭や、難波駅建て替え工事の関係で南海の客車列車は1972年3月に終了した。モハ2001形が退役したため、晩年はモハ1551形4両牽引+客車1両の組成だった。
津軽鉄道・大井川鐵道(大井川鉄道)
いずれも国鉄からの譲受車両である。津軽鉄道ではオハ46が2両在籍しストーブ列車の客車として運用される。大井川鐵道ではオハ47が4両(そのうちの3両はオハ46からの改番で、スハ43として竣工したのち重量検査で軽かったことからオハ46となったもの)、スハフ42が4両在籍し、SL列車の客車として活躍中。
関連タグ
- スハ44系:派生系列。