概要
自動車とそれを利用する旅客を1本の列車で運送する輸送形態の総称。
ざっくり言ってしまえば、フェリーの列車版である。
欧米でも古くから行われてきた列車だが、日本でも国鉄末期から民営化後の初期のJRに至るまで運行されていた。
日本のカートレイン
1985年7月から「カートレイン」が運行され、当初は徹夜で並ばなければ切符が買えないほどの人気があった。しかし末期はバブル景気崩壊による景気悪化や後述の制約の多さ故に利用客が減少したことなどから1999年までに全て廃止された。
日本のカートレインの大半はパレット積み込み形式(パレット上まで乗用車が自走し、パレット上に固定した後、それをフォークリフトが貨車まで運ぶ方式)であった。
カートレイン→カートレイン九州
日本初のカートレイン。運行期間は1985年夏季~1994年夏季。
運行当初の愛称は単に「カートレイン」だったがのちに他線区でも同様の形態の列車が運行されるようになったため1988年に「カートレイン九州」と改称された。
運転開始時の運行区間は汐留駅~東小倉駅間だったが、汐留駅は1986年11月に廃止されたため首都圏側の発着駅は1986年夏季から恵比寿駅に変更された。
1987年から広島駅での利用が可能となる。下り列車は下車のみ、上り列車は乗車のみで、下り列車で下車した乗客の車を乗せた貨車はそのまま切り離された。
1990年末から東京側の発着駅が浜松町駅に再変更された。
編成は20系客車と高速運転に対応したワキ10000形貨車(運行開始時は6両、1985年に3両増結し9両となり、1987年に広島駅止まりの2両を増結した)を混結した編成だった。
20系時代は余剰となったA寝台車2両(1985年12月に1両増結して3両)だったが、1993年末から尾久車両センター所属の14系B寝台車に変更された。これに伴い寝台料金もB寝台に値下げされ定員も増えている。
運行終了から5年後の1999年にプラレールで「カートレイン」として商品化。編成はEF81形300番台(銀)+ナハネフ22+ワキ10000形で、初期のカートレインを意識して20系客車としているが実在しない20系B寝台車を組み込んだ編成だった。
翌2000年には牽引機をピンク塗装とした「カートレイン2000」に置き換えられ、無印の「カートレイン」は現在では希少品となっている。
ワキ10000形は車体を台枠から取り外し、台枠上にトミカを載せることができるギミックがついていた。このギミックは歴代のカートレインシリーズに継承されている。
カートレイン名古屋
1986年の年末年始から運行。運行区間は熱田駅~東小倉駅。14系「ユーロライナー」用個室グリーン車2両(1986年年末年始のみ3両)とマニ44形荷物車4両を混結した編成だった。ユーロライナーの展望車を連結したこともあった。
マニ44形の最後尾に鯱を描いたテールマークを取り付けていた。
1987年~1993年はゴールデンウィーク、夏休み、年末年始に運行した。1994年ゴールデンウィークを最後に廃止。
1986年年末年始の運行では名古屋駅、岐阜駅、小郡駅、下関駅、門司駅で旅客のみの取り扱いも行っていた。
運転開始から最後まで急行扱いだった。
運行終了から7年が経過した2001年にプラレールで「ユーロカートレイン」としてDD51形ディーゼル機関車+展望車(「ファミリーりょこうサロンカー」の流用)+ワキ10000形の編成で商品化された。
カートレイン北海道
青函トンネルが開業した1988年の夏季から1997年の夏季まで運行。運行区間は恵比寿駅(1991年以降は浜松町駅)~白石駅間。特急扱い。
24系客車4両とワキ10000形貨車9両を混結していた。
運行終了から14年が経過した2011年にプラレールで「いっぱいつなごう トミカ搭載貨車セット」としてDD51+カニ24+ワキ10000形4両の編成で、さらに運行終了から実に26年が経過した2023年に「いっぱいつなごう トミカをはこぶぞ!EF65カートレイン」として実際には牽引していないとされる1118号機+カニ24+ワキ10000形4両の編成で商品化されている。
このほか2018年には「カートレイン北海道」としてイベント限定プラレールが販売されている。
カートレインくしろ
道内のみで運行されたカートレイン。1997年~1999年に運行。運行区間は白石駅~新富士駅または釧路駅。急行扱い。
24系客車または14系座席車とワキ10000形6両を使用。初年度は24系客車による全車B寝台で個室(ソロ)と半室ロビーもついていた。
翌98年には自動車積み込み用のワキ10000を改造の上、積み込み方式を従来のパレット積み込み形式から日本初となる自走乗り込み方式に転換。連結面上を自動車が走行出来るよう連結器などに改造を施し、妻面にシャッターを追加した。これは、後述するように車両制限が厳しかった従来のものから、RV(現在のSUV車)を積めるよう改善を検討した結果である。自走乗り込みや降車が可能な設備を用意するため、釧路貨物最寄りの新富士駅から釧路駅へと発着地が変更。
運行最終年となる99年には一転して14系座席車(カーペットカーと座席車各1両)を連結した座席方式に変更したが、同年限りで運行を終了した。
カートレインさっぽろ
1999年夏期のみ、東青森駅~白石駅間で運行。急行扱い。
14系座席車とワキ10000形で運行。カートレインくしろの99年度編成と同様のもの。
衰退した原因
- 制約が多かった
搭載できる自動車は、全長4670mm、車幅1700mm、車高1985mmまでで、基本的に5ナンバー車のみ(軽自動車も不可能だった)。その為、1980年代末の税制改革に伴い中~大型クラス乗用車の3ナンバー化が進み、搭載不可能な車種が増えてしまった。
特に1990年代以降に台頭したミニバンやクロスオーバーSUVは大半が搭載できず、世間の流行にマッチしなくなっていた。
「カートレインくしろ」では自走式に変更したことで、ある程度の車載制限緩和を目指している。ただし、この改造によりこれまで一両三台が積載可能だったのが一両二台に制限された。
燃料は移動に必要な最小限の量までにしておく必要があった。携行缶に抜き取るか、予め走り回って消費する手間が生じた。特に青函トンネルを縦断する便では、トンネルの防火対策基準のため厳しくこれが制限されている。
なお、貨車を常に客車より後位側につけておくことで、万が一火災が発生した場合に直ちに貨車部分を切り離せるようにしていた。そのため五稜郭駅などスイッチバックが必要な運用では、貨車と客車の前後を入れ替える作業もあった。
積載制限の最大の理由としては、種車が全長16m未満、全高3.7m程度、全幅2.6m台(※戸締め設備などを含めれば2.8m台であるが、貨車本体の車幅はこの程度に過ぎない)と併結客車などと比べても小柄なワキ10000形であったことがあげられる。
しかしカートレイン計画はそもそもが国鉄末期に大量の余剰が生じた有蓋車の有効活用にあったこと、そもそもワキ10000を最後に有蓋車が製造されていないこと、(ヨーロッパでは車を剥き出しで走行する例も散見されるが)日本では車が汚れるのを嫌ったユーザーに配慮して無蓋車での運用を想定しなかったこと等から対応が困難であった。
例え大型の対応車を作ったとしても、日本の車両限界や軸重の問題からおのずと対応サイズは限られてしまうことも予想される。
「カートレインくしろ」における自走式方式は一瞬光明をもたらしたものの、根本的解決には繋がらず、また「カートレインくしろ」の利用率が悪かったことから運行中止になってしまった。
同じ編成を使った「カートレインさっぽろ」の運行実績は反面良かったものの、こちらは青函トンネル問題を始めとする様々な大人の事情で一度限りの運行に終わり、結局自走対応貨車によるものも運行を終了してしまった。
- 飲食物の販売がない
車内販売は車掌による記念品販売程度で、駅弁や飲み物等の飲食物は始発駅で買っておくか、途中の指定された停車駅のキヨスクなどで買う必要があった。
- 分割民営化の弊害
国鉄の分割民営化により、会社によっては運賃収入の取り分が大幅に少なくなる事例が発生した。
もっともこれはカートレインに限った話ではなく、夜行列車全体や会社間直通列車の衰退にも繋がった。
特にJR九州は九州に入ってすぐの東小倉駅発着であったことから取り分が少なく、運行を継続する意欲が薄かったとされる。
バイク版「カートレイン」
こちらは自動車ではなく、バイクを積む列車である。類似したものなので、ここで記載する。
定期列車に専用の荷物車を連結しその車両にバイクを積み込み、ライダーとともに運んだ。
特に「MOTOトレイン」と「日本海モトとレール」はツーリング地として人気の高い北海道に向けて夏に運転された。
こちらもバイクの燃料を抜いておく必要があったが、フェリーよりも所要時間が短いことや都市圏の駅から乗って行けるという利便性から双方とも人気が高かった。
MOTOトレイン
国鉄→JR東日本が運転した列車。1986年夏季から運行開始。
上野駅~青森駅間の夜行急行「八甲田」に連結する形で運転され、一般の座席車とは別に専用の寝台車オハネ14形とバイク積載改造を受けたマニ50形荷物車を連結した。MOTOトレインの寝台車と「八甲田」の寝台車の連結部は施錠されており、完全に分割されていた。
当初は青森駅で青函連絡船に乗り換え、荷物車は航送されたが、青函トンネル開通後はそのまま臨時快速「海峡」として函館駅まで走った。
「八甲田」と臨時「海峡」は共通の編成が使用されており、青森駅到着後もそのまま停車して列車名を変更していた。
しかし「八甲田」の乗客は臨時「海峡」を継続利用する場合も別列車扱いとなるため下車する必要があったが、MOTOトレインは同一列車扱いとなるためそのまま列車内で待機することができた。
こちらも徹夜で並ばなければ切符が買えないほどの人気がありライダーたちからは好評を博したが、臨時に格下げされていた「八甲田」の廃止と合わせて1998年夏季を最後に廃止された。
日本海MOTOトレイン→日本海モトとレール
JR西日本が運転した列車。1988年夏季から運行開始。
「日本海モトトレール」と呼ばれた年もある。
大阪駅~函館間の寝台特急「日本海1・4号」に専用にバイク搭載及び高速化対応改造された荷物車マニ50形5000番台を1両連結する形で運転された(座席はほかの利用者と共有)。
当初はJR東日本のMOTOトレイン同様「日本海MOTOトレイン」と呼ばれていたが、関西弁で「元とれん」と聞こえてしまうという理由から「元とれる」の語呂合わせで「モトとレール」に改めたエピソードが残っている。
また、モトとレール用のマニ50形5000番台は高速化に対応していたこともあり一時期荷物室付き緩急B寝台車であるオハネフ25形300番台の落成までのつなぎとして寝台特急「あさかぜ」の下関駅発着便や「瀬戸」に連結されていたこともある。こちらもまたライダーたちからは好評だったが「MOTOトレイン」の廃止に合わせたか1998年夏季を最後に廃止された。
バイクトレインちくま
国鉄時代の1986年夏季のみ運行された列車。大阪駅~長野駅間の夜行急行「ちくま」の編成最後部にバイクトレイン用に改造したマニ44を併結して運行した。
大井川鐵道の「フェリー列車」
1971年(昭和46年)より運行されていたもので、当時記念切符も販売された。
なんと導入していたのは車両限界の小さな井川線である。山岳地帯で並行道路が未整備のため運行されたものであった。
今後の日本のカートレイン計画
青函トンネルでは度々カートレインの運行が計画されているが、現状では計画段階のまま進展は無い。青函トンネルでの北海道新幹線と貨物の共用問題を解決するためにトレイン・オン・トレイン(大型の列車に貨物列車そのものを乗り込ませて運行するシステム)などと共に提唱されてはいるものの、具体化はしていない。
海外のカートレイン
欧州では1955年にイギリスのロンドン~パース間で運行された「カースリーパー」を皮切りに各地でカートレインが運行されている。
アルプスを抱える山岳国家であるスイス国内や英仏海峡区間などの長大トンネル区間を主として運行されている。
車両規格も日本と比べ大型のため、トラックやバン等商用車も搭載する
ドーバー海峡トンネル(ユーロトンネル)は当初からカートレインを運行する前提で計画・建設され、車両限界は高さ5.6m、幅4mに及び、大型バスも楽々積載可能な他、一般自動車用の積載部分は2階建て構造となっている。このため自動車を貨車に乗り付けたあと運転者や同乗者が客車に乗車するカートレインが日常的に運行されている。
上記地域以外にも長期休暇時に臨時列車として運行されていることもある。
アメリカでは1971年にオートトレイン社が「オートトレイン」として運行していたが1981年に同社の経営破綻に伴い廃止。その後1983年からアムトラックがバージニア州ロートン~フロリダ州サンフォード間でオートトレインを運行している。
台湾では樹林駅~花蓮駅間、宜蘭駅~花蓮駅間などで週末のみ運行されている。
カーラック
カートレインとは異なるが、自動車を鉄道で運ぶために作成されたJR貨物のシステム。またそれに使用された貨車を呼ぶ場合もある。
元々国鉄時代に使われた車運車ク5000形があった(一部はカートレインにも使用された)が、昭和40年代に作られた極めて古い車両であったため、JR移行の頃には自動車各社による専用の自動車運搬コンテナが使用されていた(「日産カーパック」で使用されたU41A形コンテナなど)。
これらは自動車を運搬した帰りが空荷のまま返却せねばならないという問題を抱えており、これを解消し「行きは自動車、帰りは汎用コンテナ」が積載出来る大型のラックカバーを装備した専用コンテナ車コキ71が製造された。この車両を使用したものがカーラックシステムで、自動車は積載手法によっては最大10台まで積み込めた。
しかし最大級に積載能力を増やすために台車径を従来の860mmから610mmまで縮めた(これにより車高を低くしている)ことやカーラックコンテナの複雑さからメンテナンスコストに難があり、更にカートレイン同様自動車そのものの大型化で積載効率が悪化したことから、後に用途廃止となり現存しない。
なお、コキ70番台による小径台車コンテナ車の開発はその後も試行錯誤しながら続いており、2017年にはISO規格40ftハイキューブコンテナ積載を目指したコキ73が登場している。