ロベルト・シューマン
ろべるとしゅーまん
1810年6月8日、プロイセン王国ツヴィッカウで書籍販売・出版業を営んでいたアウグスト・シューマンとその妻ヨハンナの子として産まれる。
5人兄弟の末っ子で兄が3人、姉が1人いた。
7歳の頃に父に連れられドレスデンに行き、ウェーバー指揮によるベートーヴェンの交響曲を聞いて感動。ピアノで小さな舞曲を作曲して周囲の注目を集めるようになった。
9歳の頃には同じく父に連れられボヘミア・カールスバートでイグナース・モシェレスのピアノリサイタルを聞き感銘を受けた。これがきっかけでピアニストを志すようになった。
10歳でギムナジウムに入学、ヨハン・ゴットフリート・クンチュの指導を受けピアノを練習する。
父アウグストもシューマンの音楽的才能を認め、高価なシュトライヒャーのピアノを買い与えている。
1821年、11歳の頃に合唱と管弦楽のためのオラトリオ「詩篇第150番」を作曲したのを初め、即興で幻想曲や変奏曲を作って家族に聴かせていた。
父アウグストはシューマンが音楽的才能を発揮させていくことに喜び、シューマンが15歳の頃にウェーバーにシューマンを弟子にしてもらえないかと手紙を書いた。しかし返事はなくウェーバーは1826年6月に死去。8月にはアウグストも死去する。
その直前には姉エミーリエが29歳で入水自殺しており、シューマンは死や葬式について考えることが出来なくなったとされる。
一方で文学にも情熱を燃やし、ドイツ文学サークルのリーダー的存在となる。シラーやゲーテ、クロプシュトック、ヘルダーリン、ホフマンらの作品に親しみ、シラーとゲーテは自身にとって偶像的存在になった。
またロマン派の作家ジャン・パウルからは特に大きな影響を受けている。父アウグストも愛読していたとされる。パウル作品が好きすぎて自分より傾倒の度合いが少ないものを敵視しかねないほどだった。
1828年3月にギムナジウムを優等で卒業、ライプツィヒ大学法科に進学する。
神学科に進んだ友人のエミール・フレクシヒ、法科のモーリッツ・ゼンメルと同居生活を送ることになったシューマンはゼンメルの紹介でギスベルト・ローゼンと知り合う。ローゼンはハイデルベルク大学への転校が決まっていたがシューマン同様大のジャン・パウル好きで意気投合、ふたりでバイエルン王国を旅している。
しかし大学では冷徹な法学になじめず、自然の少ないライプツィヒの暮らしもあって大学への出席率は次第に低下。ピアノを入手すると学生仲間の中から弦楽器奏者を見つけて室内楽の演奏に熱中するようになった。
1828年にはピアノ教師のフリードリヒ・ヴィークのもとでピアノを師事する。このころにはブラウンシュヴァイクの楽長ゴットローブ・ヴィーデバインに自作の曲を送り助言を頼んだ。ヴィーデバインからは天性の多くのものがあるが専門技術と音楽的要素の用い方がいまだ不十分との返事をもらい、シューマンはヴィーデバインに作曲法の研究に取り掛かるべきと存じますと感謝と決意の手紙を送っている。
ローゼンからの手紙を読んだシューマンはハイデルベルク大学への転校を思い立ち、後見人であるゴットローブ・ルーデルに相談し賛同を得た。ハイデルベルク大学には高名な法科教授がいたが、すでにシューマンは法律は頭の中になかった。
ハイデルベルク大学の高名な法科教授のひとりであるティボーはアマチュア音楽家としての側面を持ち、音楽に関する著書があったことからその期待があった。
ゼンメルからは法律か音楽かを選ぶよう忠告されたが、シューマンはこの時点では決めかねていた。
母ヨハンナはアウグストとは違い息子が音楽の道に進むことには反対であったが、ヴィークの指導の下で才能を発揮し、ヴィークもシューマンの才能と資質は音楽家になるべきことを証明し、無理やり法律家にするのは愚かだと回答。ヨハンナは納得しシューマンが音楽の道に進むことを認めた。
1830年にライプツィヒに戻ったシューマンはヴィークの家に住み込みでレッスンを受けるが、次第にヴィークの厳しい指導方針に不満を募らせるようになる。
1831年にはついに右手を故障しピアニストを断念することになる。目の病気にかかり失明の恐怖にさらされたシューマンは音楽から離れようとも考えたが、1832年には作曲家として身を立てることを決意する。
1834年にはヴィークに弟子入りしたエルネスティーネ・フォン・フリッケンと恋仲になり一時は婚約に至るものの、フリッケンの複雑な家庭事情もあって婚約は解消。
その後はヴィークの娘クララと恋仲になるものの、それを知ったヴィークは激怒、クララを厳しい監視下に置きシューマンを出入り禁止にし彼を誹謗中傷した。
クララとの結婚をめぐってかつての師匠ヴィークと闘い続けるシューマンはその中で「ピアノソナタ第1番」、「幻想小曲集」、「ピアノソナタ第3番」、「子供の情景」、「クライスレリアーナ」、「幻想曲」などを作曲している。
1839年にはとうとう和解不可能とみなしシューマンはクララの同意を得てヴィークを訴訟。それを知ったヴィークはクララを追い出し相続権を停止させようとするが、法廷では有効な申し立てをできず罵詈雑言を喚き散らす有様で人々から物笑いの種になった。
さらにヴィークは偽名でシューマンを非難する手紙をクララのリサイタル当日に届けさせるが、シューマンはこれを名誉棄損で訴え、いずれも勝訴。1840年9月にふたりは結婚式を挙げている。
それまではピアノ曲を中心に作曲していたシューマンだったが、結婚が近づくころから歌曲を手掛けるようになる。1840年には120曲以上の歌曲・重唱曲を作曲し、後年「歌曲の年」と呼ばれた。
1841年にはライプツィヒ時代の代表作とも称される「交響曲第1番」が完成。「序曲、スケルツォと終曲」(作品52)、「ピアノと管弦楽のための幻想曲」(後の「ピアノ協奏曲第1楽章」)、「ニ短調交響曲」(後の「交響曲第4番」)などオーケストラ作品を手掛けた。
1842年にはフランツ・リストの勧めで室内楽曲にも足を踏み入れ、1841年を「交響曲の年」、1842年を「室内楽曲の年」と呼ぶこともある。
しかし1842年に過労で倒れ、ボヘミアの温泉に保養に行っている。それからは筆が進まず1843年まで停滞していたが、エクトル・ベルリオーズがライプツィヒを訪れたことが刺激になりオラトリオ「楽園とペリ」を完成させる。「楽園とペリ」の成功はシューマンの作曲家としての名声を決定的なものとし、この年にはヴィークがシューマン夫妻に和解を求めている。
1844年にはロシア旅行に出て、クララがサンクトペテルブルクでロシア皇帝の前で演奏しピアニストとして成功するが、5か月間の旅行はシューマンにとって大きな負担であり高所・尖端などの恐怖症を示すようになる。
幻聴によって作曲が出来なくなり、回復には気候条件の変わったところがいいと考え1844年にドレスデンに移る。
ドレスデンではペダルピアノを導入し、「ペダルピアノのための練習曲」、「ペダルピアノのためのスケッチ」、「BACHの名による6つのフーガ」などを作曲。「ピアノと管弦楽のための幻想曲」を改訂した「ピアノ協奏曲」を完成させている。
1846年5月からは幻聴や耳鳴りで作曲できなくなり、双極性障害の症状も現れるようになったが、その中で「交響曲第2番」を完成させる。
しかしドレスデンはライプツィヒと比べシューマン夫妻にとって居心地のいい場所ではなく、1850年にはデュッセルドルフに移住する。
デュッセルドルフでは指揮者としても活動し成功を収めるも、右手の不自由を理由に指揮棒を取り落とす、ミサ曲で曲が終わっても指揮を続けるなどの事態からオーケストラとの関係が悪化。オーケストラの練習と公開コンサートの指揮を続け、補助指揮者としてユリウス・タウシュに合唱団の練習を任せるという形で合意したが、1853年秋にはヨーゼフ・ヨアヒムを招いた公開コンサートで演奏を始めることができなかったことからとうとう指揮者から外されてしまった。
病の進行によって神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などが発症するようになったが、その一方で「チェロ協奏曲」、「交響曲第3番」、「ヴァイオリンソナタ第1番」、「ヴァイオリンソナタ第2番」、「ピアノ三重奏曲第3番」などを驚くべき速筆で手掛けている。
1854年2月27日、幻覚や幻聴に苦しむ中でライン川に身を投げる。その様子を見ていた漁師によって救助されるが、救助されたシューマンは精神病院への入院を望み、ボン近郊エンデニヒの療養所に収容された。
療養所でも次第に症状が悪化し、1856年にはすっかり寝たきりになっていた。
7月23日に危急の電報を受け取ったクララはエンデニヒに急行、神経を刺激しないために療養以来会っていなかったシューマンと再会した。
1856年7月29日に死去。享年46。
長年シューマンを蝕んできた病の正体は100年近く医学界の謎とされていたが、1959年に第三期梅毒だったとの結論が下され、死因は梅毒による進行性麻痺だったとされている。
また指の故障の原因も当時梅毒治療のために水銀が使用されていたためだったのではとされている。