Königreich Preußen
プロイセン公国および神聖ローマ帝国のブランデンブルク辺境伯領を前身とするドイツ北部の王国。史上最も成功した軍事国家。首都は初めはケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)、神聖ローマ帝国崩壊後はベルリンにあった。国章は王冠を被った黒鷲。
スペイン継承戦争の際に、プロイセン公フリードリヒが皇帝への援軍の見返りとして東プロイセンを支配する「プロイセンの王」として即位することを認められたのが始まり。
東プロイセンの他に、神聖ローマ帝国の領域内(ドイツ本土)のブランデンブルク辺境伯領などを事実上の領土とした。むしろ国力の中心はベルリンを中心とするブランデンブルクにあり、神聖ローマ帝国外にあって王号を名乗るのに障害が少ないプロイセンを本拠地として王を称したという方が実態に近い。かくして成立時はあくまでもドイツ諸邦のやや有力な一角に過ぎず飛び地が多い弱小国だったが、名君が多く生まれ、先進的な官僚制と卓越した軍事力によって、成立から一世紀足らずで列強までのし上がった。他に大きな特徴としては、近世ヨーロッパの君主制国家では珍しく、国民に信教の自由が認められていた。
最終的には現在のドイツ北部の大半とポーランドの半分に当たる広大な王国となり、非ドイツ系の領民を多く抱えるハプスブルク家を排除して、ドイツ統一を成し遂げてドイツ帝国を名乗る。なお、プロイセンもポーランド人自治領としてポズナン大公国を属領としていた(後に大公国を廃止しポーゼン州とする)。
ドイツ統一の中核であるが、国王ヴィルヘルム1世や首相ビスマルクはドイツ人の統一の願いには冷笑的で、あくまでも純粋にプロイセン王国の勢力拡大の手段としてドイツ統一戦争を起こしている。とくにヴィルヘルム1世はプロイセン王としての矜持を強く持ち、直前までドイツ皇帝となるのを嫌がった。
王家のホーエンツォレルン家はプロイセン国王とブランデンブルク選帝侯などを兼ね、ドイツ帝国成立後はプロイセン国王とドイツ皇帝を兼ねていた。有名な人物に啓蒙専制君主として知られるフリードリヒ2世 がいる。第一次世界大戦敗北後、革命が起こってドイツ帝国ばかりかプロイセンの王権すら維持不可能となる。こうしてプロイセン国王(ドイツ皇帝)ヴィルヘルム2世は退位し、故地はプロイセン州となる。
英語のプロシアが使われることも多く、漢字の表記は普魯西(普)になる。