フリードリヒ2世 Friedrich II
生没*1712年1月24日 - 1786年8月17日
第3代プロイセン王:在位:1740年5月31日 - 1786年8月17日
その優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、オーストリア継承戦争(フランスと組んでオーストリアなどと交戦)、七年戦争(イギリスと組んでオーストリア、ロシアなどと交戦)でホーエンツォレルン家の領土と領民を倍増させた。また、「君主は国家第一の僕(しもべ)」と謳い啓蒙専制君主の典型とされる。
フルート演奏をはじめとする芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。学問と芸術に明るく哲学者の[[ヴォルテールと親密に交際し自ら書を著し哲人王とも呼ばれ功績を称えてフリードリヒ大王(Friedrich der Große)と尊称されている。
ドイツにジャガイモ栽培を広げたことでも知られる。
逸話
●フリードリヒはポーランド王位継承戦争でオーストリアの友軍として出陣した折にオーストリアの将軍プリンツ・オイゲンに師事する機会があった為か、オイゲンはマリア・テレジアの結婚相手にフリードリヒを推挙したことがあった。だがカトリックのマリア・テレジアと結婚する為にプロテスタントのフリードリヒがカトリックに改宗するのは難しく実現しなかった。
●フリードリヒは寒冷でやせた土地でも生育するジャガイモの栽培を奨励しそれまで休耕地となっていた土地にジャガイモや飼料作物(クローバーなど)の栽培をすすめた。
ジャガイモ栽培は食糧事情の改善に大きな役割を果たしたと言われジャガイモをその外見から民衆が嫌っていることを知ると彼は毎日ジャガイモを食べて模範を示したといわれ、ジャガイモ普及のため自ら領内を巡回してキャンペーンを行った。
また民衆の興味を引き付けるよう、ジャガイモ畑をわざわざ軍隊に警備させたといった逸話が伝えられている。
●代用コーヒーの最も古い記録はフリードリヒ2世統治下のプロイセンでのことである。
●ベルリン市民は老年のフリードリヒに親しみを込めて「老フリッツ」と呼んでいた。
●父親であるプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の軍人的な英才教育があまりにスパルタだったため、元々母譲りの芸術肌的なフリードリヒはイギリスに亡命しようとしたことがある。
しかし、それが露見して幽閉され、手引きしたハンス・ヘルマン・フォン・カッテ少尉は見せしめの為にフリードリヒの前で処刑された。
その後は父王に恭順を示して廃嫡は免れ、趣味の音楽、読書は続けながらも、父王の課した軍務はこなしたが、亡命事件は彼の内面に大きな傷跡を残し、その人格を歪めさせたともいう。
●オーストリア継承戦争ではかねてよりプロイセンが返還を要求していたシュレージェン地方をオーストリアより割譲されプロイセンを強国にのし上げた。
しかし、亡くなった神聖ローマ帝国皇帝カール6世の娘マリア・テレジアのハプスブルク家世襲領の継承に賛成する代わりにシュレージェン地方を要求して受け入れられないと見るやシュレージェン地方に侵攻し、その領有を認める代わりに和平したオーストリアに対して、戦況がオーストリア優位になる度にその報復を恐れて二度も和平を破って対オーストリア戦争に再参加した。
そして、フランスの後見で神聖ローマ皇帝となったバイエルン王国のカール7世が死去し、後継者は神聖ローマ皇帝の継承を望まなかった為に神聖ローマ帝国を守護するという大義名分を失ったフリードリヒはイギリスを通じて三度目のオーストリアとの和平を望むも、戦況がオーストリアに有利だった事もあって流石に拒絶され、ザクセン王国・オーストリアの連合軍に攻め込まれる事となるが、連勝して逆にザクセン王国の首都ドレスデンを占領してザクセンの戦意を喪失させ、その状況にオーストリアも1745年12月にドレスデン条約でプロイセンと講和を結び、こうしてプロイセンにとってのオーストリア継承戦争はプロイセンの念願を果たした勝利として終わった。
しかし、こうした多分に自己中心的な外交で神聖ローマ皇帝フランツ1世の后でありオーストリア大公となったマリア・テレジアの恨みを買ったばかりか、同盟を結んでいたフランスからも度々オーストリアと単独講和をして足を引っ張っぱっては戦況を不利にした上に、ドレスデン条約でまたも単独講和し、翻意するように要求しても拒否された事で恨みを買い、それはプロイセンは七年戦争で国際的に孤立する事となる一因となった。
●フリードリヒは女性を蔑視する発言をたびたび公の場でしており、ロシアのエリザヴェータ女帝、そしてオーストリアとは宿敵であったフランスのルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人が七年戦争においてマリア・テレジアに味方したのは彼女たちがフリードリヒを個人的に嫌っていたからだと言われ、事実ポンパドゥール夫人を「魚屋の娘」と呼んだり雌の犬に「ポンパドゥール」と名付けたり(ビッチという皮肉)、エリザヴェータが亡くなった際、知人に宛てた手紙で「太った娼婦」と書いたりしている。
また后エリザヴェート・クリスティーネにも彼女の献身的な努力にもかかわらず無関心で、七年戦争後に久々に会った折も「マダムは少し太られたようだ」と述べただけで、夫妻の間には子は無かった。
●マリア・テレジアの長男である皇帝ヨーゼフ2世はフリードリヒ2世を崇拝しており母后は大変このことを悲しんでいたとされる。
しかし、ヨーゼフ2世はバイエルン継承戦争ではフリードリヒと敵対し、マリア・テレジアは息子とフリードリヒとの間で和議に苦心することになった。
●ドイツ貴族を父にもつ(母はロシア皇女)ロシア皇帝ピョートル3世は狂信者と言えるほどフリードリヒ2世を崇拝しており、七年戦争中に崩御した叔母・エリザヴェータ女帝の後を継ぐやいなや、真っ先に無条件の即時講話をプロイセンに申し入れ、これが敗北寸前だったフリードリヒの大逆転に繋がり「ブランデンブルクの奇跡」と後世で呼ばれた。当然、フリードリヒは狂喜したが、一方のピョートル3世はロシア軍から致命的な不評を買い、1年も経たずに軍にクーデターを起こされ、廃位・殺害されてしまった(クーデター側に加担し夫・ピョートルに代わって女帝となったのがエカチェリーナ2世)
●姉のヴィルヘルミーネ王女とは非常に仲が良く、頻繁に手紙を交わしていた。ヴィルヘルミーネが病床に臥している際には、「貴女は1日でも長く生きてください」「姉上がいなくなったら私は世界一孤独な人間になってしまいます」と送っており、ヴィルヘルミーネが亡くなった際には非常にショックを受けていたと伝えられている。
●フリードリヒは士官の膝枕で仮眠をとったり負傷した兵卒の傷の手当てに自らのハンカチを差し出すなどあらゆる階級の将兵との交流を好み、絶大な人気を得ていた。
またコリンの戦いにおいて、劣勢の自軍を鼓舞するため、第3連隊の旗を手に「ごろつきどもよ、永遠の生を得たいか? Hunde, wollt ihr ewig leben?」という言葉を放ったとされている。
クーネルスドルフの戦いやトルガウの戦いでも同様の行動を取ったとされるが、そのたびに流弾で軽傷を負い、特に前者では乗っている馬を二回殺されたうえに、被弾するも煙草入れのお蔭で跳ね返ったとう逸話もある。
●神聖ローマ帝国の名将となるエルンスト・ギデオン・フォン・ラウドンは当初はロシア軍にいたが、そこを辞してプロイセン軍に入る事を望み、フリードリヒとも面会する機会を得たが、彼の風貌が冴えない事からフリードリヒは彼の願いを聞き入れず、ラウドンはオーストリア軍に入隊する事となった。
その後の七年戦争でラウドンは積極果敢な指揮で名声をあげ、フリードリヒはラウドン相手に特にクーネスドルフの戦いで戦死しかけた敗北を喫した事もあり、かっての自身の誤りを認めたかオーストリアにヨーゼフ2世を訪問した折に同席していたラウドンに「元帥殿。貴方は私の正面でなくどうぞ隣にお座りください」と声をかけたという。
●父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の時代より鍛えられてきたプロイセン軍は他国の軍隊よりも早く行軍し、早く射撃をする事が出来き、隣の兵士との間隔が触れる程に近接した状態で行軍出来る程に高度な調練を受けた軍隊であった。
フリードリヒはこの軍隊を用いて、敵軍の前を各部隊が横隊の隊形のまま全体的には縦隊のようになって横断し、次第に後尾の部隊が斜めにずれていくことで敵の側面で一斉に方向転換をした折には全軍横隊になるように調整し、これにより急な隊形変換をし難い相手の横隊側面に兵力・火力を集中して優位に立つ斜行戦術を良く用い、これに伴うように大砲も軽量なものを造らせていた。
この戦術でオーストリア継承戦争でオーストリア軍に何度も勝利し、七年戦争でもロイテンの戦いではオーストリア軍がプロイセン軍が退却していると誤認したこともあり、この戦術を成功させてほぼ二倍の相手に勝利した。
しかし、オーストリアにはこの戦術は知られ、コリンの戦いでは神聖ローマ帝国軍に対処されて敗北した。そしてこの戦術は戦う前からプロイセン軍を疲労させ、相手が隊形変換を行うと対処しづらい面も持っていた。
また緻密な隊形変換が求められるこの戦術は高度に訓練された兵士でなければ実行は困難で、戦争が長期の消耗戦となると訓練された兵士が失われていき、訓練不足な新兵が多くなると行われる事は無くなっていった。
●あのナポレオン・ボナパルトも偉大な戦術家として名前を挙げ、「もし大王が健在であったら、私はプロイセンに一指も触れる事は出来なかったであろう」と称賛しており、戦争でプロイセンを屈服させた際にはわざわざ墓参りに行っている。
晩年
平和を手に入れた後のフリードリヒ2世は再びサンスーシに戻り忙中に小閑を楽しむ穏やかな生活にかえった。
その余生は、忙しい政務の中で時間を作っては文通やフルート演奏・著述を楽しむ日々でこのころ『七年戦争史』(もとは『我が時代の歴史』とも)を著している。
しかし、晩年のフリードリヒ2世は次第に孤独で人間嫌いになり人を遠ざけるようになっていった。姉のヴィルヘルミーネ王女やダルジャンス侯爵など親しい人々は既に世を去り愛犬のポツダム・グレイハウンドたちだけが心の慰めだった。
もともと優れない健康もさらに悪化し痛風、心臓の発作、水腫、呼吸困難に悩まされ一日の大部分を肘掛け椅子で過ごすようになり、「もう牧草地に放り出してもらうより他あるまい」と自嘲しつつ最後の願いとして愛犬たちのそばに埋めてほしいと頼んだという。
フリードリヒ2世は1786年8月17日、サンスーシ宮殿で老衰により死去し、遺体は遺言に相違して、ポツダム衛戌教会に葬られた。
その後、第二次世界大戦中に遺体は各地を転々とさせられるなどの運命をたどったがドイツ再統一後の1991年サンスーシ宮殿の庭先の芝生に墓が移され現在は生前の希望通り犬たちと共に眠っている。