ドイツ南部、シュヴァーベン地方より興った家系で、同地には家名の由来となる同名の城が現存する。
15世紀初頭にブランデンブルク選帝侯の地位を得てから発展が本格的に始まり、1701年にプロイセン王国を成立させる。18世紀半ばの王フリードリヒ2世の代に神聖ローマ帝国内でオーストリアに次ぐ有力領邦の地位を固めた。
1871年、プロイセン主導によるドイツ統一が成ると時の国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位(プロイセン王はそのまま兼任している)。第一次世界大戦でドイツ帝政が崩壊するまで3代にわたり帝位を継承した。
のちのドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクは帝政の復活も目指していたというが、結局ヒトラーに利用される形で彼を登用するのみ留まり、その復活を見ることなく生涯を終えた。
ヒトラーは帝政復活そのものについては否定的だったとも言われ、ヴィルヘルム2世の再即位を命じたヒンデンブルクの遺言を握りつぶしたという。もっとも、ヴィルヘルム2世も快進撃を続けた当初のナチスの戦争遂行には賛意を示し、好意的な面もあったとされる。
一方でヴィルヘルム2世の長男である皇太子ヴィルヘルム・ヴィクトール・アウグストは一時ヒトラーと協力し、「ヒトラー大統領・ヴィルヘルム首相」という新政権樹立も画策したが、これは父であるヴィルヘルム2世の反対によって実現しなかった。
1941年にヴィルヘルム2世が死去すると、皇太子ヴィルヘルムは代わってホーエンツォレルン家当主となり、なおも皇帝即位や第三帝国への干渉を諦めなかったが、これが仇となって第二次大戦後の敗戦後連合国に逮捕、軟禁生活を送り、1951年に心臓発作のため死去した。
長孫ヴィルヘルム・フリードリヒ・フランツ・ヨーゼフは貴賤結婚のためヴィルヘルム2世存命中に継承権を放棄し、皇太子ヴィルヘルム死後はその次男ルイ・フェルディナント(1世)が家督を継承。
その三男ルイ・フェルディナント(2世)が父に先んじて事故死したため(その兄二人は同じく貴賤結婚により継承権放棄)、現在はヴィルヘルム2世から見て玄孫にあたるゲオルク・フリードリヒがホーエンツォレルン家当主である。現在はドイツ国内で一市民として暮らしている。
どうでもいいが現当主は割とイケメンなようだ。一応は英王位継承権も持っていたりする。なお、結婚に際しては長年の幼馴染と結婚しており、お互い30歳半ばを越えての結婚にもかかわらず既に4子に恵まれている。
ヴィクトリア英女王から見て、ヴィルヘルム2世とその子孫はもっと長子系の子孫に相当する(ヴィクトリア女王の第一子・長女がヴィルヘルム2世の母・ドイツ皇后のため)。ただしイギリス王室は21世紀初頭に至るまで兄弟間男子優先継承を採用していたため、女系の子孫であるホーエンツォレルン家のイギリス王位継承順位はそれほど高くはない(2018年現在170位前後)。
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フリードリヒ2世(プロイセン) フリードリヒ ヴィルヘルム ハプスブルク/ハプスブルク家
ホーエンツォレルン楓:たぶん関係ない。