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成田闘争

なりたとうそう

成田闘争とは、半世紀以上続く成田空港をめぐる闘争である。 一般的には三里塚闘争としても知られるが、タグとして使用されていないため便宜として本名称を採用する。
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日本の玄関口、成田空港
この成田空港の敷地内には、なんと私有地がある。正確には私有地を取り囲むように空港が建設されているのだ。この私有地には現在でも民間人が居住し農作業やペンション業に従事している。

空港周辺をドライブなどで通ったことがある人は、とある農家の入口に「農地取り上げを許さない」「第3滑走路粉砕!」などと物騒な文句が書かれた看板がこれ見よがしに置かれてあるのを見たことがあるはず。

また、何故か他の空港に比べて警察の警備が厳しく、空港の隣には機動隊が駐在し周辺地域は常に警察車両が巡回している。

そして年に数回、「空港の廃港」を主張する団体がデモ行進を行っている。

なぜこのようなことになっているのか?
成田空港を語るには避けて通れない血塗られた負の歴史がある。

背景

1966年。羽田に次ぐ国際空港の建設地に選ばれた三里塚周辺は、戦後満州沖縄からの引揚者が国策で入植し、20年近い歳月をかけてようやく自分の土地で耕作することが出来るようになった農家が多かった。そのため国側も建設地の選定に際し、「先祖代々の土地ではないから、容易に手放すだろう」とタカをくくった節もあったのである。

国側も相場の5倍以上の値段で土地を買収すること、民家の建て替え費の保証など破格の条件で立ち退きを提案し、住民も移転に応じたため、予定された90%もの土地を買収することに成功した。
しかし、空港建設予定地の外に住む農家は保障の対象外であったため、これらの者は空港に強く反対した。というのも、当時は空港との共存が一般的ではなく、その上戦争の記憶がまだ色濃かったため、「騒音で牛の乳が出なくなる」「実は軍事空港で、戦争になったら爆弾を落とされる」といった噂がどこからともなく流れ、戦争を経験している農民たちは新空港の建設に酷く怯えたのである。もちろん根拠のないデマであるが、国側は農民たちの不安払拭に努めず、残った強硬派の反対派に対しては空港建設を大前提かつ「金で動くに決まっている」という不誠実な対応を取り続け、建設計画を進めた。
この政府のやり方に猛反発した地元農民は三里塚芝山連合空港反対同盟を結成し抗議を始めた。農民主体の反対運動にはまだ幼い子供や老人、主婦なども加わり、後に革新政党である日本社会党日本共産党も支持に回り、運動は大きな広がりを見せた。
実際には、建設予定地の住民が多額の補償金を受け取って騒音に悩む必要のない土地へ引っ越して行ったことへの不満や嫉妬の方が大きく、移転に応じた者の家に糞尿を撒き散らすなどの嫌がらせ行為も行なっていた。

これが半世紀以上に渡る「三里塚闘争」の幕開けであった

新左翼の受け入れと過激化

抗議する地元農民に対し、空港公団(国)側が公権力を駆使した土地の強制収用を示唆したこと、また新左翼の活動が活発な時代だったこともあり、1967年に羽田闘争において機動隊と衝突した全学連の学生を見た反対派の指導者が新左翼の受け入れを表明。これに乗じた中核派をはじめとする過激派集団が成田入りし、代執行に際しては学生運動の衰退によって勢いをなくした学生たちが成田空港を「日帝の海外侵略基地」「軍事空港」と決めつけ闘争対象とし、勢力挽回を目論み反対運動に参加し事実上の大暴動に発展した。
新左翼の介入によって勢いを得た反対派は無許可の大規模集会やデモを頻繁に開いて機動隊と衝突を繰り返し、測量に来た空港公団職員や労働者を竹槍で襲い負傷させるなど、行動を過激化させた。

新左翼と連携したことによって、反対同盟は農地を守ることを目的にした「市民団体」から「極左暴力集団」へと変貌し、事態は完全に泥沼化することになった。反対運動は長年に亘り流血を伴う凶悪な事件が発生するなど、現在に至る深い禍根を残すことになったのである。

新左翼の介入と反対同盟の過激化を受け、空港公団はついに公権力を持って土地を収容するという手段に出た。

土地収用法に基づく強制代執行である。

第一次強制代執行

1971年2月22日から開始された第一次土地収用強制代執行において、暴徒と化した反対派は現地に於いて空港公団や全国から送り込まれた機動隊と衝突を繰り返した。

農民は地下壕や団結砦に立て篭もり、過激派は火炎瓶や人糞を袋に詰めた「黄金爆弾」を投げつけ、作業員に暴行を加えるなど執拗に抵抗を行った。公団側は殆ど作業が出来ず、初日は1時間半、2日目の23日は開始わずか4分で早々に引き上げることとなった。24日も開始間も無く反対同盟と代執行班・ガードマンが揉み合いになり、農家の子供(少年行動隊)が自ら掘った溝に転落し負傷するなど、双方に怪我人が出た。25日以降、それまで空港公団の後ろに控えていた機動隊が前面に出て主力となり、反対派の排除を開始した。この後、機動隊の増強、作業の中止などを繰り返し、殆ど成果を挙げれず第一次代執行が終了した。

反対派と空港公団が衝突する中、代執行闘争を一目見ようと押し寄せていた野次馬も反対派に乗じて投石を始めた。対する空港公団も反対派が体を縛り付けている木や鉄塔を反対派の農民ごとクレーンを使って倒すという容赦のない土地収用を強行した(一応受け止めるために網を張っていたが、あまり役には立たなかった)。公団の他にも、現地に派遣されたガードマンらが投石や奪った竹槍などで反対派を攻撃したり、闘争に参加していた少年行動隊を警棒で乱打するなど、憎しみがぶつかり合った。このガードマンの多くは土地受け渡しに応じた地権者であり、反対派からは顔を合わせる度に罵声を浴びせられるなどの嫌がらせを受けていたが、反対派への攻撃を行ったのは東京などから派遣された者だった。
当時マスコミ世論は反対派側についており、テレビ局の車を使って機動隊を妨害した他、空港建設のために派遣された業者が投石用の石を提供したり、町の酒屋が火炎瓶に用いるための空き瓶を渡すなど、第三者の支援も空港建設の妨げになっていた。驚いた事に、空港公団の職員の中にも投石を行い逮捕された者がいた。

その一方で、警察は反対運動の経緯から農民の主張には理解を示していた。地元千葉県警のみならず警視庁など周辺地域から応援派遣された機動隊員も農民には同情的であり、作業の妨害で逮捕した農民を起訴せずすぐに釈放するなど生活に配慮していたり、機動隊員と反対派の農民がちょっとした雑談を交わすなど僅かに交流もあったらしい。

同時期に、赤塚不二夫が現地に駆けつけ闘争に参加したり、翌年あさま山荘事件を起こす連合赤軍が山奥に設置した拠点(山岳ベース)に反対派が野菜を差し入れたりしていた。

しかし、運動の過激化は運動の勝利を齎すことはなかった。かねてより敵対していた新左翼の傘下に日本共産党は早々に決別、日本社会党も一部の運動は手助けしていたが、運動の過激化に反発し「過激派とは共闘しない」と宣言。国会に議席を持つ政党の支持を失った反対派は国会に自分たちの声を直接届ける能力を失い、内輪の論理や規律ばかりが優先され、手段が目的化していった。
新左翼の中でも革マル派は三里塚闘争に否定的であり、現地で素行不良を繰り返したため反対運動を追放された。その後は敵対セクトが多く参加していることもあり、度々嫌がらせを行うなど妨害をしていた。

6月。政府は第二次強制代執行を9月16日から開始すると決定した。
第二次代執行では全国から機動隊を招集し、初日から最前線に配置して反対派を排除する方針が立てられた。第一次以上に激しい衝突が見込まれ、空港公団からは「死人が出るのではないか」との声も上がった。

この公団側の予想は最悪な形で的中することになる。

第二次強制代執行

第一次代執行に於いて反対派に加えて野次馬や支援に来た一般人まで作業を妨害したため、警備側は全国から機動隊を大幅動員し、代執行周辺地域に検問を三重に設置し、野次馬や現地入りした過激派集団を寄せ付けない計画を立てた。
代執行予定地の最前線、特に反対派の拠点の団結砦が存在する駒井野木の根天浪に精鋭の警視庁機動隊と千葉県警機動隊を集中させ、その周辺は埼玉など関東各県から応援派遣された正規の機動隊が守り、関東管区機動隊は市内の駅や主要交差点の後方警備に配置されることになった。この管区機動隊の中には代執行警備に際して臨時に編成された一般署員の部隊(特別機動隊)も含まれていた。

対する反対派は各地の機動隊を襲撃し検問を強行突破して代執行予定地を目指す計画を立てた。農民は代執行予定地や周辺地域の模型を作ったり警察無線の盗聴を行なって機動隊の動向を察知するなど入念に打ち合わせを行った。
支援の過激派学生は代執行前日の時点で数千人が現地入りしていた。しかし、増強された機動隊の壁の中では不利と見た学生は少数を代執行現場に残し、大多数が数百人規模のゲリラ部隊を編成し、周辺地域に予め隠匿しておいた火炎瓶などを補給しながら外周警戒の機動隊と対峙する方針を立てた。

だが、過激派学生の真の目的はかつての大学闘争で敗れた恨みを代執行阻止闘争に便乗して機動隊に叩きつけることだった。

9月16日午前6時45分。第二次代執行開始が宣言された。クレーン車を投石や火炎瓶で攻撃する反対派に機動隊が放水とガス銃で応戦し、開始早々に双方激しく衝突した。
」と称された鉄塔や櫓を機動隊の装甲車が取り囲み、放水に煙る中火炎瓶やガス弾が飛び交うその様は、まるで戦国時代を思わせる凄惨な有様であった。
現場最前線で戦争さながらの攻防が繰り広げられる中、計画に沿って過激派学生と道案内役の若手農民(青年行動隊)から成るゲリラ部隊が外周警備を担当する機動隊を襲撃し始めた。

成田市各地で「ゲリラ戦」が展開する中、ついに成田闘争初の死者が出た。

代執行開始直後、駒井野団結砦から東に離れた東峰・天神峰地区の交差点「東峰十字路」で危険物の検索と検問を行なっていた神奈川県警の特別機動隊が、十字路周囲の雑木林に潜んでいた数百人のゲリラ部隊に襲撃され、多数の重軽傷者を出し潰走した。この衝突の最中、本隊から孤立した一個小隊30人が包囲する学生ゲリラから集中攻撃を受けてほとんど全滅、逃げ遅れた3人の隊員が火炎瓶を投げつけられ火だるまになり、装備を奪われた上で陰湿な暴行を受け惨殺された。

詳細は東峰十字路事件を参照。

機動隊全滅の情報を得たマスコミによって警察官死亡のニュースは全国に速報で届けられ、海外にも発信された。
死者が出たことを受け代執行中止が進言されたが、警備本部はこれを拒否し、「殉職者のためにも代執行を完了させる」として作業を続行した。
警官死亡の一報を受けた現場の機動隊員は激昂し、それぞれが担当する反対派の拠点に殺到した。一時は機動隊が劣勢になるも、仲間を殺された怒りに燃える隊員たちはガス弾や放水、煙幕を用いて反対派の抵抗を跳ね除けた。木の根では立てこもる農民が説得に応じて収容が完了し、残りの2拠点も機動隊の激しい攻撃によって次々制圧され、周辺各地に分散していた学生も検挙された。
駒井野では学生10人が籠城する鉄塔が強度不足によって倒れ、火炎瓶が爆発し学生が火達磨になった。その場にいた機動隊員からは歓声が上がった。

19日、空港公団及び千葉県知事は機動隊員や作業班の疲れなどから20日に作業をしないと発表し、これを受けて支援学生の主力部隊が帰郷した。
しかし、学生が撤収した隙に機動隊と公団職員が現れ、農民の老婆を引きずり出して民家を撤去した。
その場にいた反対派はほとんど抵抗できず、最初で最後となる民家の撤去を持って第二次代執行は終了した。
貧農の老婆の目の前で家を破壊する行為に反対派はますます憎悪を募らせたが、この「騙し討ち」を目の当たりにしてその容赦のなさに衝撃を受けたことと、一方多くの逮捕者を出したことで保釈金や裁判の費用の捻出などで出稼ぎに出る農家が続出し、物理的にも精神的にも運動から離れていく農家が出始める。

第二次代執行から一ヶ月後、東峰十字路事件に関与していたとされる青年行動隊の1人が「空港をこの地にもってきたものをにくむ」と遺書を残して自殺した。

泥沼化と更なる犠牲者

東峰十字路事件をきっかけに、それまで反対派寄りだったマスコミが一斉に政府側に寝返り、機動隊員の死を「天罰」と喜んだ反対派の農民は世論の指弾を受けた。
反対派に同情していた警察も仲間を惨殺されたことで態度を一変し、地元農民に敵意を剥き出しにするようになった。警備の機動隊は反対派農民と顔を合わせると「人殺し!」と罵声を浴びせるようにり、支援学生に激しい暴行を加える「報復」が多発するなど事態はさらに泥沼化の一途を辿った。
1972年に発生したあさま山荘事件や山岳ベース事件などの大量虐殺事件の発覚によって全国的に新左翼・過激派への嫌悪が広がり、反対同盟も新左翼と同列に見做され、支持を失った。
世間から指弾を受けるようになったことに加え、警察の取り調べや家宅捜索が厳しくなったこと、裁判費用や保釈金を用意するため地方へ出稼ぎに行かなければならなくなったことも追い打ちとなり、肉体的にも精神的にも追い詰められた農民は土地の受け渡しに応じるなど反対運動から離れるようになった。しかし、そうした農家は反対同盟から脱落の烙印を押され、畑を荒らされたり村八分同様の扱いを受けるなどした。過激派学生から暴力を振るわれたり、反省文を書かされたこともあった。

農民が運動を離れると新左翼各派が運動を牛耳るようになった。
反対派の農民は、機動隊と学生の憎しみ合う姿に「我々が望んだ反対運動ではない」と嘆き、身を引こうと考える者もいたが、東京などから(あくまで空港反対のために)女学生の活動家が嫁いできた農家などは、嫁に申し訳ないからと渋々運動を続ける羽目になった者も少なくない。
その新左翼も党派間での内ゲバが発生し、農民を自派に囲い込んで内部抗争を始めた。農民間でも新左翼との共闘に疑問の声まで始めたが、空港反対同盟を率いた戸村一作、北原鉱治の両名は思想が極左寄りになっていき、更に過激化した。そもそも極左過激派を受け入れたのは自分たちであるため、結局は縁を切れずに終わった。

そして、再び警察と反対派の双方に死者が出た。

1977年、反対派が空港妨害のために建てた「岩山大鉄塔」を抜き打ち的に撤去した空港公団に対する無許可の抗議デモで反対派と機動隊が衝突する中、非戦闘員であることをアピールするために赤十字マークの入ったゼッケンをつけて闘争の最前線にいた青年が死亡した(東山事件)。反対派は既に1名の死者を出しているが、機動隊との衝突における死者は初であった。
反対派はこれを「機動隊が催涙ガス銃を水平撃ちしたことによる銃殺」と主張し、その翌日に中核派によって交番が襲われ機動隊員が負傷した他、警察官が殺害された(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)。
余談だが、赤十字マークの着用は日本赤十字社の許可を得なければ認められず、死亡した反対派の行為は違法である。

また、宿場を燃やされた労働者が反対派の集落に放火するなど、相互間の憎悪は深まっていった。

管制塔襲撃事件と開港

複数の死者を出し、執拗な妨害を受けながらも成田空港は完成し、1978年3月30日が開港日に決定された。しかし、反対派がそれを許すはずはなかった。

1968年に機動隊と衝突した際に農民が密かに盗み出した空港の設計図を元に空港内部に通ずる下水道の存在を把握していた反対派は、拠点の一つである「横堀要塞」に籠城し、周辺各所でゲリラを展開して機動隊を引きつけることで空港の警備が手薄になった隙に排水溝から空港に突入し管制塔を襲撃する作戦を企てた。

第四インター主力の反対派は3月25日深夜から行動を開始した。翌26日に反対派が横堀要塞撤去に出動した機動隊と衝突し、東峰十字路など周辺地域でトラックやタイヤに放火し警備部隊を撹乱させる中、第四インターらは下水道に加え、地上からも警備の機動隊を掻い潜りながら空港へ進撃を始めた。機動隊と反対派は各地で接触し、パトカーをトラックで追い立てるなど激しく衝突しながら、地下と地上の両方から成田空港へ突入した。反対派は機動隊を攻撃しつつ管制塔に侵入し、また建物をよじ登るなどして管制室を占拠した。職務中の管制官らは反対派と入れ違いに管制塔の屋上に避難したが、反対派は人質を取ることを禁じられていたためこれを逃した。反対派は管制用機器を破壊し、赤旗を垂らし、窓にセクト名やスローガンを落書きした。夕方、空港内で警官隊と衝突した反対派の部隊が撤収し、機動隊が管制塔に突入し残りのメンバーを逮捕した。この衝突で、第四インターの活動家が突入に用いられたトラックの荷台が炎上した際に全身に火傷を負って死亡したほか、事件の取り調べに精神的に追い詰められ、関与したメンバー1人が自殺した。

これによって開港が延期され、5月80日、反対派のデモや抗議集会が開かれる中ついに開港の日を迎えた。開港式では、当時の運輸大臣が「「難産の子は健やかに育つ」。こののごとく、本空港が健やかに成長していくことを念願する」との言葉を贈った。

開港後も空港へのアクセスを担う京成電鉄のスカイライナー放火事件が発生、他にも国鉄の航空燃料輸送列車が焼き討ちに遭うなど、関連施設や人物への妨害・襲撃事件が絶えなかった。千葉県警では常設の3個機動隊に加え、新たに「新東京国際空港警備隊(改称後は「成田国際空港警備隊)」」を新設した。


最後の武装闘争

1985年10月20日。空港の二期工事に反対する決起集会が成田市内の三里塚第一公園で開かれた。テロを警戒する警察によって所持品検査が行われ、危険物の持ち込みがないと判断されていたが、参加していた中核派を主力とする極左集団が公園内に隠匿していた火炎版や鉄パイプ、トラックで運び込んだ竹竿やゲバ棒など凶器を参加者に配り、武装させた。中核派全学連委員長が演説を行い、空港突入を主張し集会の参加者は暴徒化した。決起集会からデモ行進に移った暴徒は、届出のコースを外れて空港第3ゲートへ続く道を暴走し始めた。
午後4時過ぎ、事態の急変を受けて三里塚交差点で大盾を並べ阻止線を張っていた警視庁機動隊に、中核派は丸太を持って突っ込み、双方は衝突した。左右から挟撃しようとした機動隊に丸太部隊に後続してきた鉄パイプ集団が襲いかかり、交差点一帯は市街戦のごとき様相となった。
同時刻、革労協が空港周辺の山林などに放火し飛行機のダイヤが乱れた他、偽造した身分証とタクシーで検問を通り抜け、自分たちの車両と別の車両の2台に発火装置を仕掛けて逃走した。装置が作動し車が炎上すると、偽装消防車で乗りつけた別働隊が空港に堂々と忍び込み、ホースに見せかけた散弾銃で管制塔に散弾を撃ち込んだ。この「偽消防車作戦」は数年前から計画されていたとされる。
三里塚交差点の暴徒は最終的に警視庁機動隊によって排除され、中核派は241名の逮捕者を出して弱体化し、大規模な暴力闘争ができなくなった。

これを最後に成田闘争では死者、負傷者が出るほどの闘争は起きていない。が、空港公団関係者が中核派に襲われるなどの事件は平成初期まで続いた。
その影響は非常に大きく、空港内は事実上関係者と利用客以外の立ち入り制限は長く続き、検問所に於ける入場者の身分チェックは近年まで続けられた。

雪解け

90年代前後に入ると、国側もこれまでの対応のまずさを認識するようになり、また反対派側も冷戦の終結で世界観が代わり、世代交代が進むと一部穏健派の中で国との和解を探ろうとする動きが活発化した。穏健派は国側と円卓会議を取り持ち、国からの公式謝罪と今後は代執行を行わず対話による土地の収用を目指すとした言質を勝ち取るなど成果を上げ、当時警察官僚として成田闘争警備に関わっていた運輸大臣と反対同盟員が握手を交わした。これを機に土地の収用に応じる農家が続出していった。
また、空港によって海外旅行が身近になったことや、家族親類が空港や関連企業に就職したこと、毎日多くの人が利用する様子を見て廃港になどできないと悟ったこと、空港のおかげで町が発展したことなどもあり、反対運動から身を引く者も出始めた。
東峰十字路事件から36年後の2007年には、殉職した警察官の慰霊碑に同事件で逮捕された元反対同盟員が献花するなど、僅かに雪解けも始まっている。活動から身を引いた元反対同盟員の中には町長として強力に空港の発展に寄与する人物や、新左翼の構成員のほとんどが成田空港の近くに生活しないで反対派と苦楽を共にせず、自分達の思想のためだけに利用していると考え批判する人物が現れている。

反対同盟の現状

三里塚芝山連合空港反対同盟は現存しなおも廃港を主張している。しかし、反対同盟を率いた北原が死に、さらに著しい高齢化に伴うメンバーの減少でかつての勢いは面影を無くし弱体化している。
また、10.20闘争をきっかけに成田市が市内の公園で集会を開く事を禁じるなど、反対同盟(特に北原が率いた暴力に訴える過激派)の活動が制限されてしまい、現在では右翼団体などが罵声を浴びせる中、空港警備隊に囲まれ少人数でデモ行進を行い、最後に弱々しくシュプレヒコールをあげる集会を年に数回行うに留まっている。
それでも沖縄の米軍基地反対運動、TPP反対など左派と親和性の高い社会問題を通して他の左派勢力や韓国の団体との連携や組織のてこ入れと存続を測っているが、将来的な見通しは極めて不透明なままとなっている。
支援の極左団体も頻繁に集会に参加しているようで、特に中核派は現地に学生を駐在させ援農を行なったり、その様子をTwitterYoutubeで公表したりしている。
革労協に至っては、2000年代に入っても空港敷地内にロケット弾を撃ち込んでいた。

現在と影響

成田空港は開港から40年以上たった現在も未完成である。未収用農地を避けるように滑走路Bは短く作られ、横風滑走路も使用不能、深夜の利用も不可能になっている。

そうこうしているうちに大規模な拡張を前提として作られた韓国の仁川国際空港が「日本のハブ空港」と冗談交じりに言われるほどに発展し、これに対抗する形で羽田空港の国際化が進んだ。

成田空港も羽田の後を追う形で新滑走路とターミナルを建設したが、後手後手に回っている。おかげで「羽田を拡張すればよく成田は不要だったのでは?」と言われる始末だが、旅客はともかく貨物輸送は現在でも成田の独壇場であり、羽田だけでは首都圏の航空輸送需要は到底捌けるものではない。また羽田に関してはすぐ西側に「横田空域」と呼ばれる在日米軍の管制する広大なエリアがあり、民間航空が自由に使える環境ではないことに留意する必要がある。

成田空港以降、国側は「強引な建設は逆に長引き、暴力沙汰になりかねない」こと、民間人側も「新左翼の受け入れは事態を泥沼化させ、手段が目的化してしまう」ということを認識するようになり、双方ともに時間がかかっても話し合いによる解決を図るようになった。
新空港も多少コスト高でも土地問題が発生しにくい遠隔地や、海上に建設される傾向にある。

ドイツミュンヘンでも、新空港建設の際当初行政が傲慢な態度をとっていたが、同時代に起こった三里塚闘争を見ると態度を改め三里塚闘争を徹底的に研究し分析、対話路線へと方針を転換した。
4年間で約260回のタウンミーティングを開催して反対派を説得し、説得に成功したのちも裁判などを経て敷地面積や夜間発着枠の制限などで歩み寄りを見せただけではなく、ターミナルビルのデザイン会議に住民代表を招くなどして官民合作の態をとることに努めた。
決定から完成までに25年以上の歳月がかかったが、ミュンヘン国際空港はそのスペックを持てあますことなく機能させてドイツ第2、欧州有数のハブ空港として運営され、その開港式も成田とは対照的に地元住民の祝福に包まれたものだった。 

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