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東峰十字路事件

とうほうじゅうじろじけん

東峰十字路事件とは、1971年9月16日に千葉県成田市で発生した傷害致死事件。新東京国際空港(現成田国際空港)建設予定地第二次行政代執行の後方警備に出動した神奈川県警察特別機動隊を反対派のゲリラ集団が襲撃し、隊員3名が殉職した。
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概要

事件発生までの動き

1971年2月22日から3月6日の間に実施された土地収用第一次行政代執行は、空港建設に反対する地元農民や中核派、学生らの執拗な抵抗に加え、支援に集まった労働者、野次馬までもが機動隊や空港公団に対し投石を行うなどの妨害を行なったことで大きな成果を得られないまま終了した。
これを受け警察側は第二次代執行では暴徒鎮圧用の制圧部隊に加え、野次馬らが代執行現場に入るのを防ぐために後方支援を行う部隊を投入する事を決定した。
警察の作戦は以下の通り。

  • 地元の千葉県警察、応援派遣された警視庁、埼玉県警察の機動隊を、反対派が立て籠もる駒井野、天浪などの団結砦周辺に三重に配置し、反対派・一般人の侵入を防ぐ。
  • 神奈川県警察から派遣された特別機動隊第2大隊を代執行現場から離れた東峰地区に配置し、道路封鎖、付近に隠している武器の押収などの後方警備に当たらせる。

警備に動員した機動隊5500人の内3000人を代執行最前線の警備に当たらせ、残り2500人を8個大隊に分け、周辺地域に排他することになった。

一方、空港反対派も新しい方針を打ち出した。それまでは団結砦や地下壕に立て籠もる「籠城作戦」を取っていた。
しかし第一次代執行において、空港公団が鉄塔や団結小屋を重機を用いて強制排除し、体を縛り付けて抵抗していた反対同盟員が振り落とされて重傷を負った。
そのため第二次代執行では「ゲリラ部隊」を組み、各地で警備に当たっている警察部隊を襲撃、阻止線を強行突破して足止めされてる野次馬を籠城部隊と合流させて機動隊と対峙する戦略を立案。現地の模型を作って入念に打ち合わせを行い、また警察無線を盗聴し機動隊の動向を確認するなどした。

また代執行前日には2000人の中核派が現場入りしており、当日には5000人の活動家が妨害に出ると予想されていた。
この時、過激派集団は「機動隊の殲滅」をスローガンにしており、「警察は権力の手先であり、隙あらば殺せ」が合言葉であった。

そして代執行当日。最前線で機動隊と反対派が衝突する裏で、ゲリラ集団が後方警備の部隊を次々と襲撃した。

堀田大隊と反対派の衝突

東峰地区の警備を担当することになった神奈川県警察特別機動隊第2大隊は隊長の名を取り「堀田大隊」と呼称された。堀田大隊261名は代執行当日、早朝に幌付きトラックなど14台の車両に分乗し集合場所の川崎臨港警察署を出発。代執行開始直前の午前6時30分頃に東峰十字路に到着した。
十字路付近に反対派が火炎瓶や鉄パイプなどの武器を隠しているとの情報に基づき、第1中隊が二手に分かれて南北に、第2中隊が西側に展開して捜索を開始した。

一方、地元青年行動隊らで結成されたゲリラ部隊も早朝に東峰十字路南方の芝山町横堀地区に集合、途中武器を補給しながら、東峰地区に向かっていた。十字路南方の県有林で休憩していたところ、堀田大隊の到着がゲリラ部隊に伝わり、集団を青年行動隊を含む先発隊と支援グループ中心の後発隊の2つに分けて行動を開始した。先発隊は東峰十字路を迂回して北方へ回りこみ、後発隊は少し遅れて東方から十字路に向けて西進するかたちで現地へ向かった。

代執行が開始された頃、堀田大隊と反対派は東峰十字路で接触した。
堀田大隊は検索のために部隊を各中隊、少人数の小隊に分散させた状態で700人を越す集団から襲撃を受けることとなった。

火炎瓶や鉄パイプで武装したゲリラ集団に対し、堀田大隊はあくまで後方支援を目的として編成された部隊であるため、装備は作業着にヘルメット、警棒だけで、非常に貧弱な状態であった。
捜索に当たっていた福島誠一警部補率いる第1中隊第1小隊(通称「福島小隊」)は十字路の北側に展開していたが、ゲリラ部隊の先発集団に中隊本隊との間を分断され、孤立してしまう。

福島小隊からの救援要請の警察無線を傍受した大隊本部は、警備本部に対して警察無線で救援部隊を要請すると同時に、付近を検索中の第2・第3中隊を包囲された第1中隊第1小隊の救援に向かわせようとした。しかし両中隊と大隊本部もゲリラ部隊の後発集団と南下してきた先発集団に襲撃されて指揮系統は混乱に陥り、大隊は総崩れとなった。さらに車両故障のため20分遅れて到着した第3中隊も別の集団に襲撃され、警察車両数台が炎上した。
上空には警視庁のヘリが待機し東峰十字路の監視を行なっていたが、事件発生直前に無線機が故障してしまい、状況を警備本部に伝えれなかった。

この襲撃により、大隊長の堀田警視が腕を骨折したほか、大隊全体で80名以上が負傷した。この中には全身火傷や右眼失明などの重傷者も含まれる。若い隊員の中には、あごの骨を砕かれ全ての歯を失い、全身を100針も縫った者もいた。襲撃の様子を目の当たりにしたトラック運転手は、顎を竹槍で刺し貫かれた隊員がいたと証言している。

完全に孤立した福島小隊30名は、包囲するゲリラ部隊200名から激しい攻撃を受け、本隊と反対の十字路北方への退却を余儀なくされた。

福島小隊の惨劇


以下は当時の報道より。

ゲリラ集団は無防備の隊員に対し石や火炎瓶を投げつけるなど容赦ない攻撃を行なった。
この時使用された火炎瓶は一升瓶と農薬を使った改良型であり、瓶が割れると十数メートルもの火柱が上がった。また隊員たちも作業着であったため、あっという間に火が全身に燃え広がった。
火炎瓶を投擲され火だるまになり、のたうち回る隊員はゲリラに取り囲まれ、鉄パイプや角材で滅多打ちにされた。火炎瓶を受けなかった隊員も、土地勘がない上に周りにあるのは反対派の農家ばかりで助けを求められず、右往左往しているところを捕らえられ、近くの茂みや林に引きずり込まれて滅多打ちにされた。それだけでなく、隊員に無理矢理土下座をさせたり手錠で木の幹に繋ぎ、制服を引きちぎって裸にするなどした。
また、農家へ逃げ込んだ隊員に農民が農業用フォークで胸を突くなどの暴行を加えている。
福島警部補は逃げ遅れた所に火炎瓶を投げつけられ、苦悶しながら炎を消そうと転げ回っていたところを襲われた。反対派は他の隊員から取り上げた手錠を福島警部補の両腕にかけ、ヘルメットを剥ぎ取った上で暴行を加えた。無抵抗の福島警部補は鉄パイプや釘を打ち込んだ角材で顔や胸などを殴られ、顔が砕けその場で絶命した。この時の日頃の恨みを晴らすかのような陰湿な暴行には他の反対派からも静止が入ったという。
また、福島小隊第1分隊隊長の柏村信治巡査部長と、同隊隊員の森井信行巡査も福島警部補同様陰湿な暴行を受け、搬送先の病院で死亡した。その他福島小隊は20人が重傷を負い、部隊はほとんど全滅した。
3人とも全身に大火傷を負っており、死因は脳挫傷と脳内出血であった。

反対派は警官たちが後で証言できないよう、顔や口を重点的に狙って打撃を加えた。
隊員たちは上衣の下に防弾チョッキを着ていたが、それでも胸を骨折した者がいた。

やがて血塗れで倒れた隊員たちを残し、ゲリラ集団は入り組んだ地形を利用し逃げ去った。この時隊員36人が拉致されたが、後に警視庁第2機動隊の検索によって全員無事に救出された。

事件後行われた現場検証では、叩き割られたヘルメットや血染めの上衣、ズボン、竹槍が多数発見された他、道の脇に生えているススキには血がべっとり付着していた。

事件後、堀田警視はインタビューにて、「本当に地獄だった。助けに行った隊員たちが次々やられた」と当時の状況を語った。福島警部補ら3名の殉職には「非常に申し訳ない気持ち」と声を詰まらせた。襲撃について、「35分に始まり50分には混乱が終わっていた」と証言しており、短時間での犯行であったことが伺える。
当時の映像では、雑木林に囲まれた道で火炎瓶を受け退却する機動隊や破壊された車両、血の滲む包帯姿でベッドに横たわる隊員の姿などが確認できる。

事件直後の警察部隊の動きとその後の代執行

堀田大隊襲撃の一報は即座に代執行最前線の警備本部にももたらされ、警備本部は精鋭の警視庁第2機動隊を救援に向かわせた。「病院に搬送された警察官4名のうち1名が死亡」との情報が入ると現場の隊員たちは激昂し、先を争うようにそれぞれの団結砦に殺到した。
隊員たちの攻勢は猛攻を極め、その日の内に団結砦は制圧された。駒井野では学生10人を乗せた鉄塔がクレーンで倒され、火炎瓶の燃料に引火し学生たちは火だるまになった。
体が燃え上がる学生を見て、機動隊員は盾を地面に打ち付け歓声を上げたという。

元々国が勝手に空港建設を決め、強引な作業に着手したこともあり警察にも反対派に同情する者はおり、作業の妨害などで逮捕しても農作業への配慮から起訴せずすぐに釈放していた。
しかし、この事件の「警察官の死亡」という結果に警察の態度は一変し、反対派の集落を巡回する機動隊員は農民に対し「人殺し」と罵声を浴びせるようになった他、逮捕した反対同盟員への取り調べも厳しいものとなった。

事件から4日後の9月20日。機動隊は支援の学生が撤退したのを見計らい、反対派の農民小泉よね宅に代執行を行なった。初めての民家への代執行は一時間程で終了し、流血に始まった第2次代執行は終了した。

堀田大隊について

堀田大隊は第二次代執行の後方支援のため、神奈川警察署職員を中心に各警察署、交番に勤務している若手警察官を招集した特別機動隊である。
特別機動隊は大規模な警備作戦の時のみ出動するが、隊員達は定期的に集まり暴徒鎮圧の訓練などを受けるため、本機動隊よりは劣るがそれなりに精度の高い部隊である。
しかし、堀田大隊の隊員たちは先述の通り普段は暴徒鎮圧とは無縁の勤務をしている警官を急遽集めて作った部隊であり、大隊長の堀田警視を含め隊員たちは機動隊の経験がない上に訓練すら受けていなかった。
加えて後方支援が目的のため直接ゲリラと衝突することは予期されておらず、装備は作業着にヘルメット、警棒といった程度であった。
万が一に備え100名前後のゲリラには対応できるように編成されており「必要ならば撤退しても構わない」と指示されていたが、1000人近い集団に襲われた上逃げ道を塞がれることはまったくの想定外であった。
無防備かつ土地勘の無い部隊を本機から離れた場所に配置した結果犠牲者を出した本事件の反省から、

  • 特別機動隊は絶対に使わない。
  • 警備の前日に部隊を成田入りさせ、準備万端の状態で任務に当たらせる。
  • 後方支援部隊を本隊から離れた場所に配置しない。

以上の3点をこれ以降の警備の原則にした。

反対派の逮捕

警察はそれまでの反対運動での逮捕歴がある空港反対同盟青年行動隊員らを中心に、同年12月8日から15次に亘って153人を逮捕し、55人を起訴した。(凶器準備集合12名、凶器準備集合・公務執行妨害11名、凶準・公妨・傷害・傷害致死32名)

しかし目撃証言や遺留品が少なく、さらに反対派の自白は「信憑性に欠ける」として誰が誰に何をしたのかという具体的な証拠を提示できなかった。
中核派による犯行だという意見も出たが、事件発生時中核派の活動家らは東峰十字路から離れた代執行最前線にいた事が判明した。

結果、公務執行妨害と凶器準備集合には有罪判決は出たものの執行猶予付きとなり、実刑を受けた者はいない。


事件のその後

マスコミ世論は事件発生まで反対派寄りの報道をしており、測量や第1次代執行ではテレビ局の中継車を使って公団の妨害を行っていた。また時代は新左翼に寛容であったため、中核派などの左翼を英雄視したり児童向けの漫画雑誌でも左翼活動を取り上げるなどしていた。
しかし、東峰十字路闘争における警察官の殉職を受け、マスコミ各社は掌を返したように反対派を非難、本事件の犯人探しを行なった。
翌年にはあさま山荘事件山岳ベース事件など左翼による殺人、立て篭もり事件が発生したこともあり、世間に過激派に対する嫌悪感が広がった。
対する中核派は警官殺害を正当化し、駒井野団結砦崩壊時に負傷した学生を挙げ世論の情報操作を訴えた。駅前で活動する学生に勤め帰りのサラリーマンが詰め寄り、言い争う姿が各地で見られたという。

反対派も当初は警察官の死亡を天罰と喜んだが、事態の重さに気づき沈黙した。加えて、小泉よね宅への代執行における機動隊の急襲を目の当たりにし、また妨害行為で逮捕され稼ぎ手がなくなったことなどもあり、次第に闘争から身を引き土地移転に同意する農家が続出した。これらの農家は中核派、闘争を続ける反対派から激しいバッシング、嫌がらせを受けた。

開港直前の管制塔占拠、1985年の10.20成田現地闘争などを経て、凄惨な暴力闘争は沈静化した。
1990年代頃から元被告らが政府との対話を行い、空港建設時の強硬姿勢について、政府から謝罪を引き出した。1994年10月11日に開催された第12回成田空港問題円卓会議にて、警察官時代に事件の捜査の指揮を執っていた運輸大臣と元被告が握手を交わすに至った。その後、多数の地権者が移転に応じたことで、B滑走路の建設を含む空港の二期工事が進展した。

事件から36年後となる2007年、殉職した3警官の慰霊碑に元被告らが献花した。謝罪の言葉は無かったが、元青年行動隊員は「今なら亡くなった警官や遺された家族の気持ちになれる」と語った。

現在、元被告の方々は反対運動から身を引いて農業に専念し、野菜や果物を作って静かに暮らしている。

惨劇の起きた東峰十字路では千葉県警察機動隊が駐在し厳戒体制を敷いており、東峰地区では訪れると必ずといっていいほど職務質問を受ける。

反対派の主張


反対派によれば、機動隊との衝突では相手に致命傷を負わせることは絶対に禁止としていたので、警官惨殺に直接関与したのは大学闘争で敗れ機動隊を逆恨みしていた大学生らだという。

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