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東峰十字路事件

とうほうじゅうじろじけん

東峰十字路事件とは、1971年9月16日に千葉県成田市で発生した殺人事件。新東京国際空港(現成田国際空港)建設予定地第二次行政代執行の後方警備に出動した神奈川県警察特別機動隊を反対派のゲリラ集団が襲撃し、隊員3名が殉職した。
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概要編集


三里塚闘争の詳細と第二次行政代執行までの流れは成田闘争を参照。


事件発生までの動き編集

同年2月から3月に行われた、新東京国際空港建設予定地への第一次代執行時には数千人単位の一般市民(野次馬)が現場に押しかけ、それらの者が支援学生らのアジテーションを受けて投石を行うなどの機動隊への妨害を行ったことにより、警察の代執行警備は著しい支障を来した。


同年8月末には千葉県警警備本部が、その教訓から第二次代執行においては支援の反対派のみならず一般市民をも代執行現場に近づけない方針を立て、計9000名を動員して団結小屋の外周を検問線(ピケット・ライン)で三重に包囲するという「三重丸作戦」が立案された。この「三重丸作戦」は、沖縄戦において旧日本軍の神風特別攻撃隊対策でアメリカ海軍が採用した作戦からヒントを得たものだという。


しかし、9月13日に開かれた会議で、調整・連絡機能・予算権を持つ警察庁が、地方においてこれだけの期間・規模の警備実施前例がない、東大安田講堂事件以降は新左翼学生集団による大量動員作戦が陰りを見せている、などとして千葉県警の上記計画に難色を示し、動員数は3分の2に減らされた。これにより動員数は3000名余削られたが、団結小屋に対処する部隊への配分が優先され、結果として外周部警備が手薄になった。

この事が後述するような悲劇の一因となってしまう。

実際、神風特攻隊対策でアメリカ海軍が採ったレーダーピケット艦による警戒も、担当した駆逐艦が哨戒網に穴をあける「目潰し」目的や「叩きやすい敵を潰して、着実に出血を強要する」目的で狙われて被害が多発していた。


それでも警備する地域は広範囲に及び、「一個師団」にも相当する総勢約5500名の警備部隊が動員される大規模な警備実施であることに変わりはなく、9月16日には警視庁の他神奈川や埼玉など関東各県から応援部隊が現地へ派遣され、千葉県警は全職員の実に3分の1が成田に動員された。


警備部隊の主な配置計画は以下の通りである


基幹隊約3000名を拠点周辺に割くこととし、"最強"とされる警視庁機動隊約2500名を強固に固められた団結小屋がある駒井野一帯から西側の大清水三叉路にかけて、千葉県他関東各県の機動隊は一坪用地と天浪方面にそれぞれ配置する

残りの関東管区機動隊約2500名を8個大隊に分けて空港周辺地域に投入する。この管区機動隊の中には警察署勤務の警察官を招集した臨時編成の部隊(特別機動隊)も含まれていた。その内、神奈川県警から送り込まれた神奈川連隊第2大隊については、団結小屋の包囲部隊の東側(三重丸の一番外側の円に当たる)の東峰・天神峰方面に配置し、反対派がデモ行進などに利用する小見川県道44号線十字路を中心に後方警備や道路封鎖を実施させる。


反対派の作戦編集

一方の反対派は、第一次行政代執行および7月に行われた農民放送塔仮処分阻止闘争の経験から、実力闘争に参加する全員が団結小屋や地下壕に立て篭もる第一次行政代執行までの戦術を転換し、支援学生と若手農民(青年行動隊)から成る「ゲリラ部隊」を結成して外周警備の警察による阻止線を突破し、機動隊の規制によって足止めされた野次馬と篭城部隊を合流させて機動隊と対峙するという計画を立てた。反対派ではボール紙で現地の立体模型を作ってルートが決められ、無線機を持った支援者の主要地点への配置や警察無線の盗聴など、機動隊の動向を察知する体制も整えられた。

15日には中核派など新左翼の活動家約2000人が現地入りしており、翌日の代執行当日には5000人を越すとみられていた。中核派は代執行に先立つ9月10日に東京で開かれた総決起集会席上で、代表が「権力の手先である機動隊を殲滅、北総地帯を解放区とする」と宣言し、機関紙『前進』には「農民を殺してでも空港建設を強行せんとする佐藤(首相)よ!(空港)公団よ!その雇兵たる機動隊よ!三里塚に来るなら来い。だが、生きて帰れるとは思うな」との委員長アピールが載せられた。また過激派グループの間では、「警察は権力の手先であり、すきあらば殺せ」が合言葉になっていた。


代執行当日編集

9月16日からの新東京国際空港建設に伴う第二次行政代執行警備のため、千葉県警察代執行警備本部は千葉県警察機動隊の他、警視庁機動隊、関東管区機動隊など、総勢5300人の警備部隊を動員した。

当日早朝6時45分に代執行が宣言される。一坪共有地では日本社会党議員など一坪地主が座り込みを続けており、「砦」と呼ばれた3カ所の団結小屋には反対派住民(三里塚芝山連合空港反対同盟)と支援グループが立て篭もっていたが、警備部隊は行政代執行法に基づいてこれらを排除すべく、行動を開始した。


代執行が開始された直後から、各地に分散した「ゲリラ部隊」が計画に従って団結小屋周辺の後方警備を担当する部隊を次々と襲撃した。空港予定地北西側の大清水等で爆弾ゲリラやバリケード構築などの動きがあったため、対応にあたる警備当局の意識は東峰方面に向けられなかった。


事件発生までの堀田大隊と反対派の動き編集

神奈川連隊第二大隊は、指揮官(大隊長)が神奈川警察署次長の堀田安夫警視であることから「堀田大隊」と呼称された。

神奈川警察署員を中心に、神奈川県各所の警察署に勤務する警察官で構成された堀田大隊261名は代執行当日、早朝にパトカー、幌付き輸送車、大型警備車など14台の車両に分乗し集合場所の川崎臨港警察署を出発。代執行開始直前の午前6時30分頃に東峰十字路に到着した。

代執行前日に東峰十字路近辺の雑木林の中に反対派が凶器を隠匿しているとの情報が入っており、「東峰十字路付近で検問にあたるとともに、付近を検索、山林内に隠匿された火炎瓶、ゲバ棒の発見につとめる」とする任務遂行のため東峰十字路を中心に第1中隊が二手に分かれ、第1小隊が北方の北林事務所方向、第2小隊が南方の朝日台方面の検索を担当し、第2中隊が西側の団結街道方面の検問と街道左右の雑木林の検索に従事した。第3中隊第1小隊は大隊本部で車両警備に当たり、第2小隊は空港公団事務所へ向かう手筈だったが、車両故障のため到着が遅れていた。


一方、道案内役の青年行動隊と叛旗派・プロ学同・日中派・解放派・フロント・労学連・人民連帯・宇都宮大全共闘などの過激派学生集団で結成されたゲリラ部隊も早朝に東峰十字路南方の芝山町横堀地区に集合、途中武器を補給しながら代執行の最前線に向かっていた。十字路南方の県有林で休憩していたところ、堀田大隊の到着がゲリラ部隊に伝わった。機動隊を突破するか、撤退するまで待つか意見が割れたが、代執行が行われている駒井野へ向かうには東峰十字路を通らなければならないため、ゲリラ部隊は堀田大隊の挟撃を目論み、集団を青年行動隊を含む先発隊と支援グループ中心の後発隊の2つに分けて行動を開始した。先発隊は東峰十字路を迂回して北方へ回りこみ、後発隊は少し遅れて東方から十字路に向けて西進するかたちで現地へ向かい、付近の松や杉が密生する雑木林に潜んで隊員が現れるのを待った。


一方、午前5時から6時にかけて、東峰十字路とは空港予定地を挟んで反対側に位置する大清水地区で学生による爆弾投擲や検問が実施されていたことから、警察本部は警視庁部隊を差し向け、結果としてこれが陽動の役割を果たす


衝突編集

代執行が開始されて間も無く、両者は東峰十字路で接触した。

午前6時45分ごろ、公団事務所へ向かおうとする第3中隊第2小隊の後方に停車していた第1中隊第1小隊所属の輸送車が火炎瓶攻撃を受け炎上し、直後に藪の中から赤、白、黒ヘルのゲリラ部隊が現れ、鉄パイプや竹槍を振りかざし襲いかかった。

堀田大隊は各中隊・小隊単位で過激派グループに包囲され、圧倒的に不利な状態で襲撃を受けることとなる。


午前7時ごろ、「北林事務所方面に火炎ビン二、三百本が隠されているとの情報あり、検索せよ」との指示を受け、十字路北側に展開していた福島誠一警部補率いる第1中隊第1小隊(「福島小隊」)は検索を終了し、整列していたところに現れた白、赤ヘルのゲリラ部隊の先発集団に中隊本隊との間を分断され、孤立してしまう。

圧倒的に不利な状況下に陥った福島小隊からの救援要請を傍受した大隊本部は、警備本部に対して救援部隊を要請すると同時に、付近を検索中の第2中隊と遅れて到着した第3中隊を包囲された福島小隊の救援に向かわせようとした。しかし、時を同じくして団結街道を担当していた第2中隊が白ヘルのゲリラ100人と衝突し、第3中隊と大隊本部もゲリラ部隊の後発隊集団と南下してきた先発隊集団に襲撃を受けた。第3中隊は第1中隊第2小隊と大隊本部に合流して十字路でゲリラに対処するが、負傷者が相次ぎ、十字路南方約1キロの朝日台三差路まで、第3中隊第1小隊は団結街道入口T字路まで後退した。ほとんど同時刻に分散した学生に一斉攻撃を受けた堀田大隊の指揮系統は混乱に陥り、部隊は総崩れとなった。しかし両中隊と大隊本部もゲリラ部隊の後発集団と南下してきた先発集団に挟み撃ちにされ、警察車両数台が炎上するなどして指揮系統は混乱に陥り、大隊は総崩れとなった。直接攻撃を受ける前に輸送車、パトカーに避難した隊員に対しても反対派は石や火炎瓶を投擲し、激しく攻撃した。


事件の直前、上空には警視庁のヘリが2機待機していたが、早朝から出動し反対派の動向監視を行っていたため1機は給油に戻りもう1機は事件発生直前に無線機が故障してしまい、状況を警備本部に伝えれなかった。

さらに堀田大隊が襲撃を受けている最中に別の場所で検問を敷いていた機動隊に学生ゲリラが火炎瓶を投げつけ、パトカー、一般車両など数台の車両が炎上する騒ぎが起きており、警備本部による位置特定が大幅に遅れてしまった。さらに堀田大隊の隊員は土地鑑が無いため、場所の詳細を警備本部に伝えることができなかった。


他部隊からの救援が来ないまま、完全に孤立した福島小隊30名は隊形を整え、後退しながら阻止線を張って防戦を試みた。当初は福島小隊が優勢だったものの、過激派学生の数が増えるに連れて次第に劣勢となり、負傷者が続出し本隊と反対の十字路北方への退却を余儀なくされた。


福島小隊の惨劇編集


以下は当時の報道より。


殺せ!」「生かして帰すな!」などと叫ぶ黒ヘルのゲリラ集団は、撤退する隊員に対し石や火炎瓶を投げつけるなど容赦ない攻撃を行なった。

ゲリラは火傷を負って倒れた隊員を取り囲むと出動服を剥ぎ防護装備を奪った上で更に手錠をかけるなど抵抗できない状態にして鉄パイプや釘を打ち込んだ角材で滅多打ちにした。

火炎瓶を受けなかった隊員の一部は民家に匿われたものの、土地勘がないため右往左往しているところを数名のゲリラに捕らえられ、近くの茂みや林に引きずり込まれて滅多打ちにされ土下座を強要される者もいた。反対派の家へ逃げ込んだ隊員はそこに潜んでいた学生と農民から農業用フォークで胸を突かれるなどの暴行を受け、裸にされて手錠で木に繋がれさらにリンチを加えられた。

福島警部補は火炎瓶を投げつけられ、苦悶しながら炎を消そうと転げ回っていたところを襲われた。反対派は他の隊員から奪った手錠を福島警部補の両手にかけ、ヘルメットを剥ぎ取った上で暴行を加えた。無抵抗の福島警部補は鉄パイプ、ゲバ棒で顔や胸などを殴られるなどの暴行を受け危篤状態になり、病院へ搬送中に死亡した。

福島警部補の補佐を務めていた第1分隊隊長の柏村信治巡査部長と、ゲリラに対処していた同隊隊員の森井信行巡査も福島警部補同様倒れたところに陰湿な暴行を受け、それぞれ搬送先の病院、空港公団の救護室で死亡が確認された。柏村巡査部長は駆け付けた救援部隊に「福島隊長は大丈夫か」と言い続けながら息を引き取った。

撤退した隊員はさらに北上したところで再び東峰十字路へ向かう県道に出たが、そこで待ち受けていたゲリラと後を追ってきた集団に挟み撃ちにされ更に暴行を受けた。


この襲撃によって堀田大隊長が腕を骨折し、壊滅した福島小隊含め大隊全体で80名以上が負傷した。この中には全身火傷、失明、全身打撲などの重傷者も含まれる。重傷者の多くは事件後の犯人特定や証言を困難にするため顔や口を集中的に攻撃されており、若い隊員の中には顎の骨を砕かれ全ての歯を失った者もいた。襲撃の瞬間に居合わせ、負傷者の搬送に協力したトラック運転手は顎を竹槍で刺し貫かれた隊員がいたと証言している。隊員たちは上衣の下に防護装備を身に付けていたが、かなり固いもので殴打されたためそれでも胸を骨折した者がいた。

また、この時使用された火炎瓶は一升瓶と農薬を使った触発式であり、瓶が割れると十数メートルもの火柱が上がった。隊員たちも作業着であったため、あっという間に火が全身に燃え広がった。小型のものも使われたようだが、雨あられと降り注ぐ火炎瓶は盾では防ぎきれず、隊員たちは全員火傷を負った。


やがてゲリラ集団は入り組んだ地形を利用し逃げ去った。この時隊員36人が武装解除され、うち30名が拉致された。また、大盾や手錠などの個人装備がゲリラに略奪されている。救援に送り込まれた警視庁機動隊が東峰十字路に到着した時にはゲリラは逃げ去った後であり、現場には血まみれで呻く隊員が残されていた。拉致された隊員は、正午過ぎに手錠をかけられ数珠つなぎにされた状態で周辺各所に取り残されていたところを警視庁第2機動隊によって全員無事に救出された。


当日午後に行われた現場検証では、叩き割られたヘルメットや血染めの上衣、ズボン、竹槍が多数発見された他、道の脇に生えているススキや砂利には血がべっとり付着していた。


事件後、一部始終を目撃した反対派寄りの住人は「今回はやり過ぎ。ひどい」と語った。反対派の農民ですら、「警官を殺してくれとは言ってない」「遺族が可哀想」などと学生の暴走を非難した。

また、過激派グループの指導者も後に「メンバーのリンチ行為を制止するのが大変だった」「機動隊が何人死んだのかと愕然とした」と語った。


当時の映像では、雑木林に囲まれた道で火炎瓶を受け退却する機動隊や破壊された車両、血の滲む包帯姿でベッドに横たわる隊員の姿などが確認できる。

事件を取り上げた新聞記事では、竹槍を持った反対派に囲まれ倒れている(土下座させられている?)隊員や、炎上する警備車両の横で逃げ惑う隊員を空撮した写真が掲載された。

また、反対派に衣服を剥ぎ取られた福島小隊員については、「重症警官らは装備を外し靴まで脱いで休憩しているところを襲われた」と誤報道がされた。


殉職後、福島誠一警部補は警視に、柏村信治巡査部長は警部に、森井信行巡査は警部補二階級特進した。


堀田大隊について編集

事件当時、神奈川県警察では常設の警備部第一・第二機動隊の他、関東管区機動隊が設置されており、代執行当日には基幹隊2隊と管区機動隊3隊の計5個大隊約1000名が成田へ派遣されていた。関東管区機動隊の隊員は、平素は地域部集団警ら隊として各警察署で活動に従事するが、定期的に集合して部隊訓練を行っており、第一・第二機動隊と同様に錬度の高い部隊である。成田の代執行には、基幹隊、管区機動隊合わせて5個大隊約1000名が派遣されていた


しかし、堀田大隊はそれらの部隊とは異なり、代執行最前線への反対派支援勢力と武器供給の遮断等後方支援を目的として臨時編成された特別機動隊であった。 隊員らは刑事・防犯・交番・パトカー勤務等を普段している機動隊の訓練を積んでいない若手警官が中心で、隊長にも機動隊勤務の経験が無く、武術の有段者もいるとはいえ部隊としての練度は低かった。さらには隊員の装備も警棒と作業着といった程度であり、非常に貧弱な状態で現地に投入されていた。大隊は150人前後のゲリラに対応できるように編成されており、「必要なら撤収しても良い」との指示も受けていたが、500人を超える大集団に襲われることは全くの想定外であった。


結果として、機動隊の精鋭が行政代執行の最前線で警備実施をしている間に、後方支援に当たっていた現地に慣れない臨時編成部隊が反対派の大集団に襲撃される構図となり、衆寡敵せず堀田大隊は潰走することとなった。


また、前述した通り代執行時には警視庁航空隊のヘリコプター2機が上空から反対派の襲撃を警戒していたが、1機は早朝から爆弾ゲリラに備えて移動する部隊の先導を続けていたために事件発生当時給油中であり、もう1機も無線機が飛行中に故障したため、反対派の襲撃隊の動静を警備本部が把握できなかったことも被害を大きくした要因であった。また東峰地区では無線の感度が低く、更にこれまでの警備実施で一ヵ所に連絡が集中して使い物にならなかった反省から用途と区域で無線周波数を分割していたことがかえって混乱に拍車をかけ、その上大清水で火炎瓶投擲でパトカーと一般車両が炎上する事件が重なったことも、本部による堀田大隊の位置確認を遅らせた。


その後警察側では、警備計画の不備により練度が低く土地勘のない「弱い」部隊を本機動隊から離れた遠方に配置した結果甚大な被害をこの事件で出した反省から、


  • 外周警戒部隊をあまり遠方に配置しないこと
  • 機動隊を前日までに成田に集結させて、準備万端の形で投入すること
  • 特別機動隊は絶対に使わないこと

以上の3点を以後の警備計画での原則とするようになる。


司法解剖編集

下着だけを纏った状態で空港公団の工事事務局に運び込まれた3人の殉職者の遺体は、半身が焼けただれ顔が異常に膨れ上がるなど正視に忍びない惨状であり、立ち会った警察官は同僚の変わり果てた姿に嗚咽を抑えきれず、また、負傷者を搬送した堀田大隊員は盾を投げ捨てその場に泣き崩れた。ベテランの検視官ですら、残虐行為により著しく損壊した遺体を前にして「これが人間のすることか!」と激昂したという。空港公団の職員は臨時の祭壇を作り、殉職者の冥福を祈った。


事件後行われた司法解剖の結果、死亡した3名の機動隊員のうち小隊長の福島誠一警視は、頭蓋骨亀裂骨折、頭頂部から後頭部にかけ脳内出血、12対の肋骨のうち胸部1本、背中16本が折れ、折れた骨は肺に突き刺さっていた。このほか顔、頭、左右胸部などに28ヵ所の打撲傷があった。同小隊分隊長の柏村信治警部は、顔から左肩にかけて2度(水ぶくれができる)から3度(皮膚がただれたり、黒く焦げる)の火傷、頭蓋骨亀裂骨折、胸肋骨2本折損、頭頂部5ヵ所に打撲傷、左右腕、背中に多数の打撲傷があった。また、同じく同小隊隊員の森井信行警部補は、頭蓋底骨折、頭部に多数の打撲傷。顔、アゴ、および胸から肩にかけて3度の火傷、左肩および左右の足に打撲傷があった。3名とも死因は脳挫傷と脳内出血であった。


捜査編集

警察は今回の事件を計画的殺人事件として千葉県警に捜査本部を設置して捜査を開始したが、捜査陣は機動隊に守られなければ現場に入ることもできず、現場検証が行われたのは事件から6時間も経過してからだった地元住民らは基本的に用地を売却せずにその地にとどまる「空港反対派」であるため、捜査陣は機動隊に守られなければ現場に入ることもできず、捜査協力は望むべくもなかった。したがって、機動隊員の死亡に空港反対派、または支援者の中の何者かが関わっていることは明白であったが、誰が致命傷を与えたかが問題となり、人物の特定は難航し捜査関係者は苛立ちを募らせた。


500人以上の集団が最大3キロメートル以上の道のりを警備当局に察知されることなく集結して堀田大隊に襲い掛かったたことから、警察は地元の地理に詳しい青年行動隊又は常駐学生がこの襲撃に参加しているものとにらんだ。過去の言行や、襲撃グループに白ヘルの学生がいたことから中核派によるものとの見立てで捜査が当初進められたが、当日の中核派の活動家らは駒井野と天浪の団結小屋に立て篭るか大清水にいたことが明らかとなり、現行犯逮捕者がおらず有力な物的証拠も得られないまま、警察による捜査は行き詰った。捜査本部は「コンピューター捜査」と称して、あらゆる証言や物証を複合的に検証して、犯人を特定しようとした。


捜査当局は、空港反対運動での逮捕歴がある空港反対同盟青年行動隊員らを中心に、同年12月8日から15次に亘って地元住民や常駐学生らのべ153人を逮捕連行し、55名を起訴した(凶器準備集合12名、凶器準備集合・公務執行妨害11名、凶準・公妨・傷害・傷害致死32名)。


それまでに行われた第一次代執行や農民放送塔の撤去の際には、反対運動の経緯から警察にも同情的な雰囲気が残っており、反対同盟員を逮捕しても農作業への配慮等から起訴を見送り数日で釈放するなどしていたが「警察官の死亡」という事件の結果に、警察の取り調べは厳しいものとなった。


反対同盟では家族会を結成し、逮捕者に対する支援を実施した。


事件の影響編集

マスコミ・世論編集

三里塚闘争開始以来マスコミは全般的に反対派に同情的な論調であり、移転に応じた地権者を「裏切り」「寝返り」扱いするようなありさまだった。また、マスコミは反対派への情報提供などの便宜を図ったり代執行の際には反対派が立てこもる砦に中継車を横付けして機動隊が手を出せないようにするなどの実質的な支援もしていた。新聞・テレビ・週刊誌だけでなく、少年漫画雑誌までもが巻頭特集で反対派の子弟が参加する少年行動隊を取り上げるほど、当時は新左翼・反政府活動に寛容な時世でもあった。

直接の反対運動や支援に関わらないが反対派農民に共感を持つ者も少なくなく、警察の指導に反して火炎瓶の材料となる空瓶を反対派に渡す酒屋や空港建設に携わる労働者の中には工事車両を使って投石用の石を秘密裏に提供する者があったほどであった。


しかし、初めての闘争での死者を出した今回の事件ではマスコミは一転して反対派への批判を行い、「三警官殺し」の犯人探しをするようになった。また新聞各紙は反対派が警官の死亡を喜んだことを「人殺しを賛美する外道」と痛罵した。


市井では反対運動に対し一気に態度を硬化した。同日夜の都内の主要ターミナル駅では、学生らが三里塚闘争支援のカンパに立ったり「学生側も危篤者二人。当局は巧みに報道管制をしいている」などと書かれたビラを張るなどしていたが、これに勤め帰りのサラリーマンらが「罪のない警官をなぜ殺したんだ」と詰め寄り、殺人もやむを得ないと悪びれないジーンズ姿の学生らと各所で論戦となった。また事件は大学紛争が収束し全共闘運動が急速に支持・勢力を失いつつある時期と重なり、さらに翌年にはあさま山荘事件の発生と山岳ベース事件の発覚によって新左翼全般に対する嫌悪が全国に伝播し、過激派と同列にみなされるようになった反対派から世論は急速に離れていった。

また、国鉄千葉動力車労働組合以外の労働者はこの事件で一斉に手を引いた。


反対派・地元住民編集

福島警部補死亡の報を聞いた地元の農民の中には「天罰だ」と歓声を上げる者もいたが、事態の重大さに気づき、続いて柏村巡査部長、森井巡査死亡の一報が入ると重苦しい雰囲気に包まれた。元々左翼集団の支持を受け入れる事を決めたのは反対派の農民であるが、あくまで空港建設に対する反対であり警察官の殺傷そのものを目的としていたわけではない。しかし、いつしか警察の殲滅をスローガンに掲げる学生が主導権を握るようになり、空港反対運動はかつての学園闘争と何ら変わらない憎しみがぶつかり合う争いへと変貌した。暴走の一途を辿る新左翼に対し、農民らは「我々の望んだ反対運動と違う」と惨状を嘆いた。

なお、反対同盟事務局長の北原鉱治は、新聞記者の取材に対し「機動隊が前面に出てこのような代執行をしたことが、一切の事態の原因です。力と暴力によって生きる権利を奪おうとしているのはだれなのか。だいたい県の責任たる代執行を、なぜ機動隊がやるのか。問答無用で死人が出るような状況を作っているのは権力側ではないか。警官三人が死んだ責任は国側にある」と述べた。同じく反対同盟代表の戸村一昨も、学生の蛮行を賛美、正当化し、殉職者に対する謝罪はしなかった。


事件後、反対派では、身内を殺害された警察の強硬な捜査や法廷闘争による疲弊に加えて、事件後の10月1日に、青年行動隊の三ノ宮文男が、精神的苦痛により自殺したことにショックを受けたことや、被告の保釈金や裁判費用捻出のために出稼ぎに出なければならなくなったことなどで、反対同盟員である地元住民の実力闘争離れが進んだ。なお、警察では三ノ宮が東峰十字路事件に深く関与していたと目していたが、反対派の証言によれば三ノ宮は事件時にリンチを受ける機動隊員に覆いかぶさって「もうやめろ」と暴行を加えるグループを制止していたとされる。


この後、三里塚闘争に係る実力闘争の実行は反対同盟員に代わって新左翼活動家が行い、青年行動隊ほか反対同盟は指示役や調整役を担うこととなる。指示役となった反対同盟は時にセクト同士を競わせるようにして実力闘争をけしかた。新左翼活動家の側も実力闘争の主体としての自負を持つようになり、各セクトは援農をだしにしたり活動家の女性を嫁がせるなどして、反対同盟の実力者や集会への参加が多く弁舌が達者な反対派農家を自派へ囲い込むようになった。


このことは、地元住民と新左翼活動家の間の歪な力関係や、反対派内部の党派争いを生む遠因ともなる。条件派に移行した農家には「脱落」の烙印が押され、学生らに自己反省を書かされたり、言葉だけでなく暴力も振るわれたりもした。


警察・機動隊編集

堀田大隊が襲撃を受けているとの情報は代執行最前線にも伝わり、所在地が特定されると東峰周辺の検問を担当している管区機動隊が応援出動し、警備本部からは精鋭の警視庁機動隊が東峰十字路に向かったが、現地に到着すると既にゲリラ部隊は逃げ去った後であった。

午前8時過ぎに「病院に搬送された警察官4名のうち1名(福島警部補)が死亡」との情報が伝わると、現場の警官たちは激昂し先を争うようにそれぞれの団結砦に殺到した。放水車の水を使い果たし、防石ネットが学生によって破られるなど一時は機動隊側が劣勢になるも、仲間を殺された怒りに燃える機動隊員は過激派学生への積年の怒りを爆発させ、催涙ガス銃や空港公団の重機を用いて必死に抵抗する反対派を攻撃した。隊員たちの攻勢は熾烈を極め、団結砦の中に立て籠もっていた農民や学生は警棒で乱打され血塗れになって引きずり出され逮捕され、その日の内に反対派の拠点は全て制圧された。

駒井野では学生10人を乗せた鉄塔が強度不足のため倒壊し、火炎瓶の燃料に引火し学生たちは火だるまになった。炎に包まれてのたうち回る学生を見て、機動隊員は盾を地面に打ち付け歓声をあげ、「ざまあ見ろ!」と学生を罵倒した。


殉職者が出たことを受けて千葉県警察本部長が辞表を提出したが、当時の警察庁長官は受け取らず「部下を殺した奴をここに連れて来い!」と怒鳴りつけた。


警察は反対運動の経緯からそれまで農民の言い分に理解を示していたが、事件直後から反対派に敵意を剥き出しにするようになる。警備の機動隊員は反対派の農民や学生に「人殺し野郎!」「この百姓が!」と罵声を浴びせ、逮捕した反対同盟員への取り調べも厳しいものとなった。

それでも警官の怒りは収まらず、支援学生を見つけると機動隊員数名が取り囲み、殉職者の敵討ちとばかりに袋叩きにするなどの「報復」が始まった。成田市内でバスに乗ろうとした学生を警官が引きずり下ろし、集団で痛めつけて反対派の畑に打ち捨てたり、夜間巡回と称して支援学生の寝泊まりしている小屋を襲撃し中の学生を半殺しにしたこともあった。当時は反対派の集落のあちこちで警官の暴行により動けなくなった学生の姿が見られたという。

学生だけではなく反対派の農民も「報復」の対象となり、厳しい家宅捜索を行い家財のほとんどを押収したり、デモなどで逮捕した際に必要以上に暴行を加えるなどの暴力沙汰が半年ほど続いた。


新左翼・過激派編集

事件後の反対派支援の新左翼学生らは、「警察権力が加えてきた弾圧に対する労働者、農民側からの階級的復讐である。責任は佐藤首相と警察機動隊にある」「アメリカはベトナム人民を殺し続けているが、佐藤(首相)はこれに協力している。だから、われわれ人民にも佐藤を殺す権利がある」「権力のイヌは殺されても当然だ」などと主張した。


また、この事件での警察官殺害のニュースは、大衆運動を離れ少数精鋭・過激化していく連合赤軍をはじめとした各地の極左暴力集団に強いインパクトを与えることとなる。連合赤軍の元活動家である植垣康博は「先を越された」という気持ちだったと当時を回想している。


同じ年には朝霞自衛官殺害事件・沖縄ゼネスト警察官殺害事件・渋谷暴動事件といった警察官や自衛官を標的とした事件が相次いでいる。


裁判編集

なお、刑事裁判中の1983年(昭和58年)3月8日に、三里塚芝山連合空港反対同盟は「熱田派」と「北原派」に分裂し、被告の大多数が「熱田派」に属すこととなったが、3名が「北原派」となった。これに伴い、最終弁論を巡って被告団および弁護団が「熱田派系」と「北原派系」に分裂した。


空港の2期工事の着工が迫る1986年(昭和61年)10月4日、千葉地方裁判所201号法廷(石田恒良裁判長)で判決が下された。事件当日のアリバイを主張していた3名に無罪、有罪とされた他の52名についても事件から15年が経過し社会生活上の不利益を受けていることなどが考慮され、3年から5年の執行猶予が付いた懲役刑(10ヶ月から3年)となり、実刑判決を受けた被告はいなかった。判決文には「地元農民の理解と協力を求めようとする姿勢が十分だったとは思われない」「新空港建設に反対する心情は理解できないわけではない」と同情的な文言が盛り込まれていた。


判決は、公務執行妨害と凶器準備集合などについては有罪であるが、傷害致死罪に関しては警察官に対する攻撃に直接関与したことを認めず、共謀共同正犯以上を認定しなかったと解される。


これは、本事件の遺留品や目撃証言が殆どなく、捜査段階での被告の自白には「信用性に疑問がある」こと等が最大の理由とされる。被告らはそもそも警察官への襲撃に全く関わっていなかったか、襲撃に関与していたとしても、数百人の多人数による騒乱状態の中で発生したため、誰が誰に対してどのような行為をしたかを具体的に示す証拠を千葉県警察や千葉地方検察庁は提示できず、自供調書と大きな齟齬があった。


弁護団は、286通に上る被告の調書の矛盾点を追及し、供述の信用性が欠けていることを強調していた。

この一審判決に対して承服しがたい点もあるとしながらも認定を覆すに足る証拠が不十分であることや諸般の事情を考慮した千葉地方検察庁が控訴しなかったため、この結果を実質上の勝利と位置づけ控訴をしなかった「熱田派」の被告らにはこれが確定判決となった。


一方、「北原派」に属する3名の被告(うち2名は後に小川派として北原派を離脱)は無罪を求めて控訴した。二審東京高等裁判所は、一審判決を支持し(1990年(平成2年)12月17日判決)た。3名のうち1名だけがさらに上告したが、1995年(平成7年)2月28日に、最高裁判所においても一審判決が支持されたことにより、執行猶予付きの有罪判決が確定した。


事件のその後編集

開港直前の管制塔占拠、1985年の10.20成田現地闘争などを経て、凄惨な暴力闘争は沈静化した。

1990年代頃から元被告らが政府との対話を行い、空港建設時の強硬姿勢について、政府から謝罪を引き出した。1994年10月11日に開催された第12回成田空港問題円卓会議にて、警察官時代に事件の捜査の指揮を執っていた運輸大臣と元被告が握手を交わすに至った。その後、多数の地権者が移転に応じたことで、B滑走路の建設を含む空港の二期工事が進展した。

現在では実際に稼働し多くの人が利用する空港を前にして廃港にする気が失せたことや、空港のおかげで町が活性化したという事実、反対派の家族・親類が空港や空港関連の企業に就職したこと、海外旅行が身近なり反対派の中からも利用する者が出始めたこともあり、反対運動は終息しつつある。


現在、元被告らは反対運動から身を引き農業に専念し、野菜や果物を作って静かに暮らしている。

惨劇の起きた東峰十字路では千葉県警が厳戒体制を敷いており、東峰地区では訪れると必ずといっていいほど職務質問を受ける。


三里塚闘争は現在も継続しているが、反対同盟は指導者の死や構成員の高齢化などで弱体化しており、「空港反対」を掲げる団体のはずが「沖縄米軍基地反対」「安倍政権打倒」など、空港に関係ない活動にも手を出して必死に存続を図っている。

中核派などの過激派は現地に行って農業を手伝うなど支援を続けているが、それでも昔のように勢いは無く、対立する右翼団体が罵詈雑言を浴びせる中弱々しくシュプレヒコールを上げながらデモ行進をするだけの集会を年数回開いている。


追悼施設編集

事件の4年後、東峰十字路で福島警視ら3名が倒れていたとされる場所に慰霊碑が建立された。


円卓会議による決着前の1993年、社会党の伊藤茂運輸相が空港視察に先立って殉職警察官の顕彰碑に献花したが、反対派農民からは「社会党が反対運動に火を付けたから警察官が死ぬ事件が起きた。どういう気持ちで献花したのだろうか」との冷ややかな声も上がった。


事件から36年後となる2007年、殉職した3警官の慰霊碑に元被告らが献花した。ある元青年行動隊員は「当時は相手の立場にはなれなかったが、今なら亡くなった警官や遺された家族の気持ちになれる」と語り、静かに合掌した。


事件から半世紀経過した現在も、慰霊碑は現場に保存されている。


関連する事件編集

渋谷暴動事件…同年11月14日に発生した暴動事件。中核派による沖縄返還協定批准阻止闘争の警備に出動した関東管区機動隊新潟中央小隊所属の隊員が火炎瓶などで襲われ殺害された。殉職した隊員は成田の第二次強制代執行の警備にも出動していた。


あさま山荘事件

山岳ベース事件…翌1972年に発生した、連合赤軍による人質立てこもり事件とそれによって発覚した殺人事件。東峰十字路事件によって国民の間に芽生えた新左翼への嫌悪を決定的なものにした。

連合赤軍には、反対派の農家が米や野菜を差し入れていた。


東山事件…1977年5月8日に起きた反対派と機動隊の衝突で、無断で赤十字マーク付きのゼッケンを身につけた「非戦闘員」の東山薫が死亡した事件。反対派は「機動隊がガス銃を水平撃ちしたことによる銃殺」、警察は「仲間の反対派が投げた投石に当たった同士討ち」をそれぞれ主張。


芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件…東山事件の翌日の5月9日に発生した警察官殺傷事件。交番が火炎瓶の襲撃を受け勤務にしていた警察官が殉職し、他にも角材での殴打などで警察官数名が重軽傷を負った。東山事件の報復と見られる。


10.20成田現地闘争…1985年10月20日に発生した暴動。極左が管制塔など空港施設を襲撃した他、中核派と警視庁機動隊が三里塚交差点で衝突した。2018年現在成田闘争における最後の暴力闘争であり、中核派はこの事件をきっかけに暴動を起こせなくなった。


千葉県収用委員会会長襲撃事件…空港の二期工事が取り沙汰されていた1988年9月21日に発生した、千葉県収用委員会会長の弁護士を標的とした中核派によるテロ事件。成田空港のみ成らず千葉県全体のインフラ整備に甚大な負の影響を与えた。鈍器で執拗に殴られ重い後遺症が残った被害者は、2003年に自殺してしまった。


高江ヘリパッド問題…違法行為を続ける反対派の排除のため警視庁を始め各県から機動隊が派遣され、また極左も首を突っ込んできている。一部ネット上では第2の三里塚闘争と呼ばれている。



関連タグ編集

成田空港

機動隊

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極左暴力集団

中核派

成田闘争

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