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ワキ204

わきにひゃくよん

ワキ204とは、JR東日本205系の6ドア車の通称。ここでは当該の「サハ204」とその後JR東日本で導入された派生車について解説。
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ワキ204とは、1990年から製造された、当時混雑の顕著だった山手線205系用の6ドア車(サハ204)の通称(実質的な蔑称)である。


解説編集

現在、(特に関東圏で)JR・主な大手私鉄電車で多用される「20メートル級4ドア・ロングシート装備」という雛型の源流は、太平洋戦争中の1944年に登場した42系の戦時改造による扉増設車と、前後して登場した戦時型の63系まで遡る。


そして戦後も63系や後継車である72系、新性能車の101系103系が大量に製造され、さらに大都市圏の大手私鉄にも波及して、戦後からバブル時代に至るまで日本の経済成長を支えてきた。


しかし混雑は酷く、東京集中と地価高騰により郊外ニュータウンも次々と造成され、国鉄五方面作戦実行後も容易に解決できる問題ではなかった。さらに1980年代末はバブル景気もあってラッシュ時の混雑は激化。短期間で単純にホームを延伸して編成を伸ばすことが出来ない事情から、JR東日本では限界まで扉の数を増やし、さらに座席を収納できる車両を山手線に導入することにした。いわば手っ取り早く(立席)定員の確保と乗降時間の短縮を狙った電車である。


当然ながら6ドア車はラッシュのピーク時間帯を除けば旅客サービスの低下に直結する存在である。朝のラッシュ時終了までとはいえ座席が使用出来ないこと、その後の時間帯も他車と比較して極端に座席数が少ない(従来車の約半数)こと、さらにその座席も座り心地も良くない、座席上の網棚も位置が高い上小さくて使い難い、(特に冬季閑散時の)冷暖房使用期の保温性の問題など、あからさまに立席で乗客無理矢理にでも詰め込むような構成であった。そのため登場当時から「椅子無し電車」「貨車に人を載せるのか」「戦時・終戦直後の再来」(太平洋戦争中、大都市の電車は混雑時に詰込みが利くよう外せる座席は片っ端から撤去していた)など、否定的な意見や論評が多数を占めるほどだった。


この考え方はJR東日本の一部路線や同時期の大手鉄道各社に波及し、同様の詰め込み偏重車両が投入されたが、上記の理由から一般的な乗客からは総じて不人気であり、少なくとも混雑時には絶対に重要物を持っては乗車してはいけないことだけは間違いない代物だったのである。

その後いつしか一部のマニアの間で、これらの車両の嚆矢である「サハ204」を、大型有蓋車(貨車)を意味する「ワキ」と合わせて「ワキ204」と呼んだことが始まりである。他に家畜車の「カ」を組み合わせて「カキ204」とする別バージョンもある。


こうして他扉化は進められ、首都圏の鉄オタ達は「21世紀の電車はみんなこうなるのか?」と戦慄していたが、ホームドアと拡幅車体が普及したことで2010年代までに消滅していった。


座席収納機能を持つ車両は他でも複数投入例があるが6ドア車を導入したのはJR東日本以外では東急田園都市線(こちらも私鉄屈指の混雑路線であり平成20年代に東西線に抜かれるまで混雑率日本一の私鉄線だった)のみであり極限まで混雑した路線への最終手段だったことがうかがえる。


車両解説編集

基本的な構造は母体である205系を基本とするが、台車等異なる点も存在する。

山手線向け 900番台編集

1990年(平成2年)に試作車である900番台が2両製造された。車体は205系をベースに6ドアに増やした様式だが、ドア間の窓が縦長になった関係で外板上部の継ぎ目の位置が上がっている。台車はJR発足後に新たに開発されたTR241が採用されている。暖房は通常座席下に設置されるが、本車では折り畳み座席であるため下にスペースが取れないため床暖房が採用されたほか、冷房装置は開口部面積の増加に対応するため、基本番台より2割ほど強力なAU717を搭載した。なお、900番台は閑散時に車端から2枚目のドアを締切る機能があり、締切表示灯も設置されていた。この2両は座席操作回路を追設改造したヤテ42編成(クハ205-42他)に組み込まれて連結位置の検討・変更が行われ、11両編成化前の時点では2・9号車に連結されていた。


山手線向け 0番台編集

1991年(平成3年)に登場した量産車で51両が製造された。同年12月より山手線が11両編成化されることになり、その際に6ドア車は10号車に組み込まれることになった。11両編成化で既存の補助電源の容量が不足するため、自車用のDC-DCコンバーターを追加したこと、ドア締切り機能の省略、車内の荷棚・モニターの変更以外は900番台の構造が踏襲されている。なお、試作車を含めた山手線向けの車両には、試作要素として扉部分に文字放送用のモニターが装着されていた。この頃は情報化社会への期待感が高かった時代だが、当時は外部の情報インフラが整わなかったため、結局山手線向けのみの装備に終わってしまった。


横浜線向け 100番台編集

1994年(平成6年)に横浜線の8両編成化の際、26両が増結車として製造されて編成中の2号車に組み込まれた。既に205系の増備は終了して209系の量産が進んでおり、そのため台車が209系と同等とされたほか、文字放送モニターが省略され、編成上DC-DCコンバーターも不要なため搭載されていない。


山手線投入車の転用編集

1996年(平成8年)の埼京線恵比寿延伸の際に、上記のヤテ42編成が埼京線に転出したため、サハ204は1両が余剰になり902が保留車になった。その後2001年よりE231系投入による大規模転配で、転用改造のために種車になるサハ205を捻出するために、混雑の激しい埼京線への転属が始まったが、実際には使用条件が該当するのが埼京線以外ないという余剰活用に近い措置だった。なお1両だけ2003年(平成15年)に30が、11両編成中3両を抜いた形で横浜線に転属している。


廃車編集

2013年(平成15年)から埼京線にE233系7000番台が投入されて205系の置き換えが始まり、特に6ドアのサハ204は優先して置き換えられたため翌年2月には運用を終えた。引き続き横浜線にE233系6000番台が投入され、同線の205系は同年8月をもって引退して「6ドアの205系」は姿を消した。しかしながら、引退後一部の車両がインドネシアに輸出され、現在もジャカルタ近郊で使用されている模様である。


JR東日本の後継車編集

JR東日本では1995年以降、首都圏の一部の路線で6扉車の新規連結・また増強を行った。

サハ208 京浜東北線編集

京浜東北線では103系の置き換え用に1993年から209系量産車の投入が進められていたが、1995年製のウラ36編成以降の新造車から6号車に6扉車を連結することになった。また既存の編成にも順次6扉車を組み込み、捻出した6号車(サハ209)を新造する編成に転用する編成替えも行われ、1997年までに試作車3編成を除く78編成に6扉車が組み込まれて同時に京浜東北線の209系化が終了した。その後2007年から始まった209系の淘汰・転用の際に、6扉車を含む付随車は全車が不要になり、2010年までに全て廃車となった。

サハE230-901 中央・総武緩行線編集

1998年に製造されたE231系の試作編成の5号車に組みこまれていた車であり、製造当初はサハE208-951と名乗っていた。長らく中央・総武緩行線で活躍したが、同編成は2020年に8両編成化の上で武蔵野線に転用されることになり、その際に編成から外されて同年12月に廃車となった。

サハE230 0番台 中央・総武緩行線編集

上記の試作車の後、2000~2006年にかけて46両が各編成の5号車に組み込まれて登場した。2015年からは山手線から転入のE231系500番台よって既存編成の置き換えが始まり、0番台は常磐線・武蔵野線・八高線への転出が始まった。また残存編成も余剰中間車を利用して500番台に準じた編成に組み替えられた。その際に6扉車は転用・再使用の対象外とされたため廃車が進み、2020年3月に最後の2両が営業から外されてJR東日本から6扉車が姿を消した。

サハE230 500番台 山手線編集

205系の置き換え用に、2002~2005年にかけて104両が各編成の7号車・10号車に組み込まれて登場した。しかしながら活躍期間は最短で5年弱、最長で8年強と極めて短く、2010年2月から2011年8月にかけて全て新造の4扉車に置き換えられた。なお全数ではないが、台車等の再利用可能な部品類を新造する4扉車に流用して製造コストを抑えている。余談だがこの6ドア車を置き換えた2代目の10号車もまた山手線からの撤退の際に転用先がなく数年で廃車になった車が存在する。


座席収納編集

これらの6扉車の大きな特徴が、前述した朝ラッシュ時の「座席収納」である。前述のように始発(出庫)から朝ラッシュ終了まで格納された座席はロックされており、文字通り「椅子無し電車」となる。座席の使用開始時刻は路線によって異なっており、横浜線が9時、京浜東北線が9時30分、その他の路線が10時であった。座席の展開は手動であり、乗り慣れた乗客が使用開始時刻直前に6扉車に乗車して、ロック解除後に早速座席を展開して着席する姿が各線でみられた。なお、事故・悪戯防止の観点から手動での収納はできず、入庫後に遠隔操作で自動収納されていた。


評価編集

多扉車の評価は、評価する人間の主な利用時間帯によって正反対のものになる。すなわち、主にラッシュ時間帯に利用する、かつ着席を前提にしない(始めから諦めている)乗客にとっては乗降時間の短縮、それによる遅延抑止、さらに自身の乗降の容易化につながったため、評価は決して低くはない。またロック解除直前に途中駅から乗る客にとっては既に始発駅で席が埋まってる他の通常車より席に座れる可能性が高いので上述のようにあえてこの車を狙う客も多かった。

しかし主に閑散時に利用する乗客からは、上記のような各種の居住性の悪さから概ね評価は低く、またラッシュ時に利用する者も「掴まるところが少ない」「着席の機会が完全に無くなる」など否定的な評価をする者も決して少なくなく、全体から見れば贔屓目に見ても低評価な存在であったと言えるだろう。


多扉車の投入が適当な路線でも、運用方法の問題があった。例えば他の多扉車採用事例である営団・日比谷線~東武・伊勢崎線では、登場後の一時期を除き5扉車の全扉を全日・全区間で使用したが、上記のように特に冬季の車内保温(伊勢崎線の沿線は、冬季の早朝には氷点下5度以下まで冷え込むことも多い寒冷地である)の観点からは問題の多い運用であった。

本来であれば締切機能を活用して、ドアの全使用は、日比谷線内や東武線の一部区間だけに留めるのが望ましかったと言える。


都市計画の失敗を押し付けられたという点では、鉄道各社も被害者と言えるかもしれない(もっとも私鉄の場合はだいたい都市開発に投資しているので無罪というわけでもないが)。


本来のワキ204編集

これまで述べてきた「ワキ204」はあくまでも比喩表現であるが、本来の意味である貨車のワキ204も過去に存在した。ワキ1形の204号車として1938年に製造された同車は、戦後間もない1946年に進駐軍によって接収、「部隊料理車」に改造された。その後1949年に返還されたものの原番号に復さず、なんと「客車」扱いの荷物車(ナニ6335→2505)として1967年まで在籍した。さらに復籍の上新幹線用の救援用貨車935-5に改造され、最終的に1977年に廃車になった。


本当に「ワキ」に乗せられた例編集

太平洋戦争終結後の戦後混乱期は、食糧難による買い出し、外地からの復員や引き揚げによって旅客需要が激増した。当時、国鉄の客車は戦災や事故による喪失、資材難による整備不能、おまけに進駐軍による「接収」によって極端な車両不足に陥っており、不足する客車の替わりに「貨車」を旅客列車に連結して急場を凌いだ。

快適性・安全性の観点からは好ましくないが、機関車のデッキや客車の屋根にまで車外乗車が横行する危険極まりない状況では、たとえ貨車ではあれ「車外よりはマシ」だったのである。


関連タグ編集

JR東日本 205系 山手線 横浜線  埼京線 川越線 多扉車

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