概要
鉄道用語の1つ。一般的には通勤形車両のうち、乗降口(扉)が片側5ヶ所ないし6ヶ所設定されている車両が「多扉車」に当てはまる。
各鉄道事業者は、朝ラッシュ時の混雑の緩和を図ろうと車両の増結を行うか列車の増発を迫られることになるが、ホームの長さの制約や運転間隔における地上設備の制約などがあって苦労を強いられることになる。そこで車両側に工夫をすることで列車の増発を図る、という方針のもとにその1つとしてうまれたのがこの「多扉車」であった。
1970年代に投入された京阪電気鉄道の5000系が、この「多扉車」の元祖。当時の京阪では架線電圧が直流600V電化であり、変電所容量の関係で最大7両編成までしか走行できないという事情もあって、苦肉の策で生み出された。
扉の数を広げる分だけ座席の数が減るという弱点があるため、ラッシュ時以外は2・4番目の扉を締め切ったうえでその区画に(扉上部に収納されていた)座席を出して着席サービスを確保するという独自の機構が搭載されたが、座席昇降機構自体は(特許を取得済みであったためか)他鉄道事業者へ波及することは無かった。
長らく京阪のみの導入だったが、平成に入ると混雑緩和のため首都圏のJR路線&大手私鉄にも「多扉車」導入の動きが加速し、まずJR山手線向け205系で試験採用。京阪のように全車両が「多扉車」とはならずも、編成の一部(特に駅ホームの階段が集中する箇所)を「多扉車」として運用した。
2010年代に入ると、首都圏ではバイパス路線の整備に伴う混雑緩和や(拡幅車体採用による)編成定員数の増加から「多扉車」の導入意義が薄れるようになり、またホームドアの整備の際ドアの配置が難しくなるという背景から「多扉車」の運用を取りやめる事業者が相次いだ。元祖となる関西地区の京阪でもホームドアの導入が決まり、他の経年車に先駆けて5000系を2021年までに退役。この結果「多扉車」は日本全国区から消滅している。
- ただし、日比谷線の運用から撤退した東武20000系列については20400型として地方線区へ転属させる際に一部の5扉車から2番目と4番目のドアの2ヶ所を塞いで3扉車への改造を行っており、多扉車の名残を見ることができる…と言えるのかもしれない。
- 西日本鉄道6000形などや京浜急行電鉄800形(2代)などのように、3ドアが標準・主流のなか4ドアを採用したこれらの形式もある種の多扉車といえよう(西武鉄道では3ドア→4ドア標準に改められたが…)。
- 現在、多扉車として完全な形で残っているものとしては、元JR東日本の205系サハ204形105号車が広島県の三菱重工業三原製作所和田沖工場のMIHARA試験センターに試験用車両として譲渡され、同じく能勢電鉄から譲渡された1500系(元阪急2100系)2両の牽引で試験用車両として運用されている。
余談
明治時代の鉄道黎明期では、蒸気機関車に牽引される客車に「車体の幅いっぱいに座席を設け、通路を設定しない」ものがあり、この客車は必然的に大量の扉がついていた。しかしトイレの導入などで客室内の移動が必要になるという観点から(客室内にトイレがない時代は、窓から放尿する者がいて罰金刑に処されていた事例もある)、この構造は廃止された。
これは元々、客車の構造を乗合馬車に由来していたイギリス(またここかよ……「お前らが言うな」)から導入した関係でそうなっていたものである。しかし日本では鉄道導入の時期が遅かったことが逆に幸いし、整備の途上で大型ボギー車(日本の所謂国鉄20m級は世界的に見ても、1,067mmレール幅の狭軌用としては南アフリカと並んで最大級で、標準軌の各国を含めても大きい部類に入る)に転換してしまったため、大陸国家のドイツやアメリカを模とした設計をするようになった結果である。
イギリスの中・長距離用客車は長くこの構造が続き、戦後、ヨーロッパの大陸国家やアメリカに(屈辱的にも)倣って貫通型の新世代客車“Mark.I”が導入されるが、本格的にこちらに転換するのは日本の東海道新幹線に対抗して開発されたHSTの導入がきっかけとなる。
この名残で、現在も使われているHSTの客車(Mark.III)は、ヒンジ式の外開き扉で、かつドアノブが外側にしかないという構造になっている。
そして、このHSTの置き換えの本命は元弟子である日本のクラス800で行われることになった。