概要
1910年から1991年まで宇野駅(岡山県玉野市・宇野線)と高松駅(香川県高松市・予讃線)の間で国鉄・JR四国が運航していた鉄道連絡船。
青函連絡船と同じく貨車(下記の事故までは客車も)航送が行われていた。
のちに国道30号の指定航路区間とされ、複数の民間フェリー会社が並行して航路を敷くこととなった。これを総称して宇高航路と呼ぶ。
運用状況
宇野駅および高松駅の両駅における本航路における在来線への乗り継ぎ連絡は「四国三大走りのひとつ」と呼ばれていた。(残りのふたつは高知県にある土讃線窪川駅のバス乗り継ぎ連絡と、徳島県にある小松島港仮乗降場の南海フェリー乗り継ぎ連絡)
連絡船から在来線(あるいはその逆)への乗り継ぎの際、その長距離の移動の疲労を軽減するために座席の確保を狙い、全力ダッシュを行う者が後を絶えなかったためである。そしてこの無謀な競争は時に降車・降船を急く乗客たちの無謀な押し出しに伴う、桟橋からの転落や行列の将棋倒し(いわゆる群衆雪崩)などで死者を出す事もあった。それでも連絡船航路の廃止まで止むことは無かった。
それだけならばいざしらず、運命の1955年(昭和30年)5月11日、のちに紫雲丸事故と呼ばれる「国鉄戦後五大事故」のひとつが発生する。濃霧の瀬戸内海上で連絡船同士が衝突し紫雲丸が沈没、168人が死亡したのだ。しかも、この事故の中でも最も衝撃的だったのは「死亡者の大半が遠足あるいは修学旅行中の小中学生であった事」である。この事故は全国津々浦々の子を持つ親たちに四国の親子たちの置かれていた「親は子どもの死を覚悟して修学旅行や遠足に送り出さなくてはいけない」「子どもたちは死を覚悟して修学旅行や遠足に行かねばならない」という現実を突きつけたのである。
この連絡船事故がきっかけとなり連絡船の交通状況が見直され、これに伴い「三大走り」などに代表される危険な乗継乗降実態が暴かれた事で、この改善のために瀬戸大橋の構想が大きく具体化し、やがて架橋に結びつくことになる。
1972年、11月ホーバークラフトが就航。
急行便(急行列車と同じ扱い)としての営業で、時間帯によっては先発出港した連絡船を海上で追い越すダイヤだった。
1988年4月10日の瀬戸大橋線全線開業に伴い連絡船とホーバークラフトの運航は終了。1985年から投入されていた高速艇は存続したが1990年に運航を休止、翌1991年に正式に廃止となった。
その後の宇高航路のお話
なお、同ルートでの民間航路は現在も運航されているが、2010年頃からの高速道路1000円化などで赤字がかさみ、度々具体的な廃止の話(〇年〇月で廃止予定になる→後に撤回)が出るなど、予断は許さない状況にある。
とはいえ、瀬戸大橋が強風で封鎖・運休されるたびに宇野・高松のフェリー乗り場に乗客が殺到し、積み残しが出るなど混乱に陥っている。四国フェリーなどは1隻が余剰で休船になったはずが、この振替輸送実施時に到底間に合わず1年経たずに第一線に復帰という事態になった。もしかしてそれはギャグでやってんのか?
その後宇高国道フェリーは無期限運行休止に突入。国道フェリー撤退により、長らく続いたフェリー会社複数制がついに終焉を迎えた宇高航路。最後に残ったのは四国フェリーとなったが、同航路は未だ苦しい状態が続く。
2000年代まで、1日100便以上の運航体制と24時間運用を行っており、便数では鹿児島県の桜島フェリーを上回る規模であった。
しかし国道フェリー撤退前後も四国フェリーは一貫して減便を続けたため、現在は1日10便、夜8時過ぎには終便を迎え、深夜便からは完全に撤退している。
加えて乗船代の値上げ、旧型船のみを存続させより快適な船が撤退、子会社化などサービスの悪化も続いている。それでもなお経常赤字が続いており、四国フェリー社は「このままでは更なる値上げや減便が必要になる」と補助を訴えている。
しかしながら四国フェリーは他にメイン航路として小豆島や直島への航路を抱えており、補助金頼みの姿勢や同航路を子会社運営としたことからも同航路へ関心自体が薄れている恐れもある。
実はそれを証明するように、四国フェリーは宇高国道フェリーの無期限運航休止直後に宇高航路を子会社である四国急行フェリーに移管させている。(表向きには「子会社(小規模会社)に移管させる事で宇高航路の収益実態を、より透明化して国に窮状を訴えやすくするため」と説明している)
2017年現在では5往復10便、1隻体制(約2~3時間に1本)まで縮小しており、何らかの理由で瀬戸大橋線が不通になった場合、振り替え輸送時の指定航路にされてはいるものの、実際の代行輸送手段として使用するのはかなり厳しい状況にある。
なお高松側の乗船口が港湾部の再開発によりJR駅近くのサンポート高松(実は、かつての宇高連絡船桟橋部分の跡地)に移転した為に、乗船は往時よりも便利にはなった。
本四航路一本で末期までサービス向上に努めていた国道フェリーが残っていれば、宇高航路はここまでの危機を迎えていなかったのではないか、とも考えられる。
何れにせよ、多額の税金を投与して作られた瀬戸大橋との共存、あるいは撤退その他をどのように集約させていくか、それに同航路の存続はかかっているだろう。
……とか思ってたら、2019年11月8日、ついに四国フェリーが宇高航路の年内廃止(当初の宣言上は12月上~中旬がメド)を宣言した。またかよ……と地元も呆れかけたが、今度はご丁寧にも廃路線まで約1ヶ月と、もはや全く話し合いの場すら与える気の無いレベルの発表となり、岡山・香川では、てんやわんやの大騒ぎになりつつある。
そして、ついに岡山県および香川県は航路存続を断念するなら経営支援はもうしない、支援会議も解散すると四国フェリーに通告。四国フェリーはこれを受け入れて12月15日の最終便をラスト運行として翌16日より航路を休止すると発表。
こうして、航路発足より109年続いた宇高航路は、その1世紀余りの歴史に幕を閉じる事となったのであった。(※)
一方、かつて連絡船で使われた船はその後インドネシアやパナマに売却された。2008年にJR四国はその内の阿波丸に再開するツアーを開催した。(参考)
ちなみに何度でもいうが、この航路は国道30号の海上区間(いわゆる海上国道)である。
つまり旧一級国道であり国交省管轄の指定区間国道。早い話が国に管理維持責任がある航路である。(いわゆる「高速道に平行している下道の国道」と同じ扱い)
もっとも近年は別地域での同様の航路(国道57号三島航路など)において休止と再開の絶望視も多く見られるようになっている。
(※)宇高航路は元をただせば江戸時代初期より続く金毘羅往来(金毘羅丸亀街道)の「下津井~丸亀」航路を前身として1920年(大正9年)に航路変更を行ったものでもあるため、そこから数えればゆうに400年近い歴史のあった航路である。
ちなみに宇野港~高松港の直接航路がなくなるだけで、海上交通としては迂回路にはなるが直島(宮浦港)経由で宇野港から高松港へと行くことはできる。(ただし時間は直通ですら宇高航路の倍以上かかり、宮浦での連絡時間も必要になる)