概要
シカゴを拠点に運行したインターアーバン。豊富な資金力を背景に充実した設備を有し、シカゴへの通勤輸送で活躍した。しかしモータリゼーションの進展と州間高速道路の建設による経営悪化により、1961年に廃止となった。
歴史
開業~発展
シカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道は、2つの銀行グループが設立した会社を起源としている。一つはエベレット・ムーア・シンジケート(Everett-Moore Syndicate)のオーロラ・アンド・シカゴ鉄道およびエルジン・アンド・シカゴ鉄道、もう一つはポムロイ・マンデルボーン・シンジケート(Pomeroy-Mandelbaum Syndicate)のシカゴ・ウィートン・アンド・オーロラ鉄道(Chicago, Wheaton & Aurora Railroad)である。これらの会社はいずれもシカゴとフォックス川付近の都市を連絡するインターアーバン建設を目的としており、両シンジケートは無用の競争を避けるべく1901年にオーロラ・エルジン・アンド・シカゴ鉄道を設立し、共同で事業に当たることとした。また同年にはフォックス川に沿ってすでに建設されていた鉄道を買収、エルジン・オーロラ・アンド・サザン鉄道としている。
1902年にシカゴ~ウィートン~オーロラ間が開通。豊富な資金力を生かし、全線複線で第三軌条方式で電化された高規格な路線であった。同年にはバタヴィアへの支線が、翌年にウィートン~エルジン間が開業した。なお1902年には、エベレット・ムーア・シンジケートが運営から手を引いている。
オーロラ・エルジン・アンド・シカゴ鉄道はその後も路線拡大を続ける。1905年にはシカゴ高架鉄道に乗り入れ、都心に新設したターミナル、5番街駅(のちのウェルズストリート駅)への直通を開始。通勤路線として活況を呈するようになる。1906年にはエルジン・オーロラ・アンド・サザン鉄道を吸収。同年、シカゴ近郊にも支線を設け、墓地へ遺体を運ぶ列車の運行を開始した。1910年にはレイクウッド~ジェネバ間に路線を有していたシカゴ・ウィートン・アンド・ウエスタン鉄道から事業の譲渡を受けた。
破産と再建
第一次世界大戦が終わるころになると、不況や普通の鉄道との競争、モータリゼーションにより、利用者は減少傾向になる。また賃上げ交渉の決裂によるストライキも起こり、オーロラ・エルジン・アンド・シカゴ鉄道は1919年に破産した。同鉄道の事業を引き継ぐ形で設立されたのが、シカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道である。社長に就任したトーマス・コンウェイJr.は積極的な設備投資を行い、路線改良を推進した。また1924年には不採算であった旧エルジン・オーロラ・アンド・サザン鉄道の路線をオーロラ・エルジン・アンド・フォックスリバー鉄道として分離した(その後1935年廃止、バス転換)。1926年にはシカゴでの葬儀列車の運行も取りやめた。
同年、トーマス・コンウェイJr.は社長を辞め、シンシナティ・アンド・デイトン鉄道へ移った。このときシカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道は、当時シカゴ周辺のインターアーバンを所有していたサミュエル・インスル(ノースショアー線、サウスショアー線も参照)に買収される。インスルはインターアーバンの改良に積極的に取り組んだ人物であるが、トーマス・コンウェイJr.の時期の改良にはほとんど手を加える必要がなかったという。
衰退
しかし1929年、世界恐慌が発生。翌年インスルが経営を手放したことでシカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道は破産した。
ドーナツ化が進み、シカゴ西郊の人口は増加していたが、運賃の安さもあり経営はなかなか好転しなかった。1937年にはジェネバへの支線を廃止するなど、赤字削減がすすめられたが、結局経営再建は第二次世界大戦後までかかった。
戦後は好景気を背景に黒字となったが、まもなくこの鉄道の命運を決める出来事が起きた。ウェストサイド・スーパーハイウェイ、現在の州間高速道路290号線の建設である。パシフィック電鉄と全く同じように、シカゴ・オーロラ・エルジン鉄道も高速道路建設のために軌道敷を使用されることとなり、シカゴ高架鉄道への直通線を失ってしまったのである。1953年に直通が廃止されると、利用者はほぼ半減し、経営は急速に悪化した。シカゴ・オーロラ・エルジン鉄道は旅客輸送をとりやめ貨物輸送に資本を集中させることで生き残りを図ろうとした。当初旅客輸送廃止は承認されなかったが、このままでは赤字から抜け出す見込みがないことは誰の目にも明らかであった。1957年7月3日、旅客輸送の廃止が正式に承認され、同日12時13分、旅客輸送は廃止となった。
日中の鉄道廃止という事態は当然大混乱を招いた。つまりこういうことである。
(AA略)あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
「おれは 今朝電車に乗って町にやってきたと
思ったら いつのまにか電車が廃止になっていた」
な… 何を言っているのか わからねーと思うが
おれも 何をされたのか わからなかった…
頭がどうにかなりそうだった… 人身事故だとかストライキだとか
そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ…
しかし結果からいうと旅客輸送の廃止は焼け石に水であった。シカゴ西部には貨物輸送で採算が取れるだけの産業は存在していなかったのである。1961年、貨物輸送も廃止となり、シカゴ・オーロラ・エルジン鉄道は約60年の歴史に幕を下ろした。
現在でも廃線跡は遊歩道となっている箇所が多く、地図に名残を見てとることが出来る。