この鉄道はインターアーバンとして知られる路線であり、シカゴ(郊外)-ミルウォーキー間の路線であり、この路線の特色としては高規格路線と電車による高速運行であった。
なお、路線は1956年に一部廃止、1963年に廃線となっている。
路線の特色
この路線はサウスショワー線などとは異なり、蒸気機関車で運行する鉄道や電車を運行する会社がライバルとして立ちはだかっていた。具体的にはミルウォーキーではミルウォーキー鉄道、シカゴではイリノイ・セントラル鉄道がライバルであった(これらの路線は特に高速で運行されていた)。
そのため、他のインターアーバンとは異なり、高速化および乗り心地のよさで勝負することとなっている。
歴史
この路線の元となったのは1891年に設立された路面電車を運営するウォーキーガン&ノースショアー高速輸送会社の路線であった。この会社はシカゴの存在するイリノイ州に存在する都市ウォーキーガンの路面電車から始まった。この路線が南北に延伸、南はエヴァンストンの路面電車に乗り入れを行う形で連絡北はミルウォーキーへ1908年に到達した。この路線を用いて特急を走らせていた。
しかし、1908年に建設への投資負担が重すぎ、会社は倒産してしまう(ただし債権者の意向により鉄道の営業は続けられる)。
この路線網を買収したのは鉄道王の一人、サミュエル・インスル(Samuel Insullイギリス生まれ、アメリカにわたり発明家エジソンの秘書となり、その有能さを買われシカゴの電灯会社を任されそれで財を成しシカゴ周辺の鉄道を買収、大鉄道網を作り上げた人物)であった。
彼は買収した鉄道網を整理し、専用軌道を敷設し高速鉄道を運用できるようにし、さらには計画されていた高架鉄道シカゴ・L(シカゴのダウンタウンを走る高架鉄道、いくつかの私営企業を経て現在は公営で現存)に1920年に乗り入れ、併用軌道だったシカゴ近郊も1926年、新線を引くことにより高速化した。これによりシカゴ-ミルウォーキー間150kmを2時間弱で結んだとされる。
また同時にバス事業も行い、周辺の客の掘り起こしも行った。
さらには貨物運送にも力を入れており、1926年にはピギーパック輸送(トレーラーの二台のみを搭載し、積み替えの手間を省く形式)が行われていた。貨物輸送は第二次世界大戦後の1947年まで行われた。
1929年に発生した世界恐慌は鉄道に痛手を及ぼし、その影響から1938年、15%の賃下げを行おうとしてストライキが発生し7週間鉄道が止まったりしている。
このような状況にもかかわらず、都市間の鉄道の立体交差を行うことになり、これは1941年、太平洋戦争が始まる前に完了した。
また、エレクトロライナー(4両編成の高速車両、小田急電鉄のロマンスカーの一部が影響を受けたといわれている)などの列車を走らせた。
第二次世界大戦の後、他の鉄道会社との争い(ライバルは本数も少なく直接接続しないものの、より早い移動が可能であった)により体力を奪われていった。1958年には旧線であった併用軌道部分を需要があるにもかかわらず維持できないとして廃止した(これには州際商業委員会の不可解な監督も存在した)。
そして1960年代には路線の維持が出来なくなったとして路線の売却、あるいは廃線を決意。需要自体は存在するため、通勤者の団体など売却先自体は存在したものの、価格面で折り合わず、結果全線廃線となった。
なおシカゴ近郊部分の一部はシカゴ交通局が購入し「スコーキー・スウィフト」として使用されているようだが、
この区間についても架線を外され、第三軌条集電に改められているらしい(ただし架線柱はそのまま残されている)。
関連項目
参照
WURE's Transport Web:アメリカ電気鉄道史Ⅱ-2 ノースショアー線