概要
本鉄道はオハイオ州シンシナティとトレドを結ぶ路線と、途中のスプリングフィールドで分岐しコロンバスに至る路線を運行するインターアーバンであった。前身の鉄道会社も含め、モータリゼーションや世界恐慌の影響を大きく受け、財務問題が常に付きまとった。そうした状況の中でも、高速路面電車「レッド・デビル」の導入など、路線の改良を積極的に進めたものの、廃線を免れることはできなかった。
沿革
シンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道の歴史は、1876年にカレッジ・ヒル鉄道がシンシナティ郊外に約5kmの路線を開業したことに始まる。1877年には北に延伸されたが、鉄道を自分の土地の近くに敷設して地価を上げたい地権者の意向により、町の中心部を外れた線形となった。案の定同鉄道はたちまち経営難に陥り、1883年に倒産。同年シンシナティ・ノースウェスタン鉄道として再建され、標準軌への改軌と電化を実施している。その後1895年に付近で路面電車が開通したことで運賃面で太刀打ちできなくなり、1899年に旅客営業を廃止する。
一方1896年にはデイトン鉄道(Dayton Traction)がデイトン~マイアミスバーグ間を開業。1897年にはシンシナティ・アンド・マイアミ・バレー鉄道がマイアミスバーグ~ハミルトン間、1898年にはシンシナティ・アンド・ハミルトン電鉄がハミルトン~カレッジ・ヒル間をそれぞれ開業する。この3社とシンシナティ・ノースウェスタン鉄道は最終的に合併し、1902年にシンシナティ・デイトン・アンド・トレド鉄道となった。同社は貧弱であった軌道の強化や急曲線の改良などを進めていく。
1905年、同社は新たに設立されたシンシナティ・ノースウェスタン鉄道に買収される。さらに1907年にはオハイオ州のインターアーバンの統合をめざすオハイオ電鉄が設立される。従来のシンシナティ・デイトン・アンド・トレド鉄道の路線も、のちにシンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道の一部となるインディアナ・コロンバス・アンド・イースタン鉄道やリマ・アンド・トレド鉄道をはじめとする他の多くのインターアーバンとともに同社の路線となった。オハイオ鉄道になってからも線形改良は継続して行われた。
しかしモータリゼーションの進展もあって、オハイオ鉄道の経営は順調ではなかった。1913年には洪水のため架け替えたばかりの橋が破壊されるなどの被害を受ける。シンシナティ~デイトン間は1918年にシンシナティ・アンド・デイトン鉄道として分離され、1920年には元インディアナ・コロンバス・アンド・イースタン鉄道やリマ・アンド・トレド鉄道の路線がそれぞれの会社の運行に戻った。
しかしすでに経営を立て直すことは不可能な状況となっており、両社は1921年、オハイオ鉄道の後を追うように破綻。計画中のシンシナティ地下鉄へ直通することで存続を図ろうとしたシンシナティ・アンド・デイトン鉄道も、地下鉄の計画が立ち消えとなったことで1926年に破綻し、シンシナティ・ハミルトン・アンド・デイトン鉄道として再建される。
そして1930年、最後の生き残りをかけ、同社とインディアナ・コロンバス・アンド・イースタン鉄道、リマ・アンド・トレド鉄道の3社が合併し、シンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道が設立される。経営の柱と位置付けたのは東ミシガン鉄道へ乗り入れてのデトロイトへの直通運転、および貨物列車の運行であった。有名な高速車両「レッド・デビル」を導入したのもこの時期である。
しかし1932年に東ミシガン鉄道が廃止となったことで復活の夢は潰えた。同年、シンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道は設立からわずか2年で破綻。その後経営再建が成功することもなく、1937年にはスプリングフィールド~トレド間の運行が終了。1939年にはデイトン市内のわずかな区間以外が全廃となる。1941年に最後の区間も廃止となり、シンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道は短い歴史に幕を下ろした。
当時の保有車両36両のうち、6両はシーダーラピッズ・アンド・アイオワシティ鉄道に、30両はリーハイ・バレー鉄道(Lehigh Valley Transit Company)へ譲渡され、いずれも1950年頃まで活躍した。