ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

D51

でぃーごじゅういち

主に国鉄D51形蒸気機関車に関するイラストにつけられるタグ。
目次 [非表示]

主に国鉄D51形蒸気機関車の事を指す略称。本項ではこれについて記述する。

概要

D51形蒸気機関車(D51がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道国鉄)の前身である鉄道省が設計・製造した、単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車である。1936年より第二次世界大戦太平洋戦争)末期の1945年まで新製が続けられた。


 主に貨物輸送のために用いられ、戦時中に大量生産されたこともあって、その所属両数は総数1,115両に達しており、ディーゼル機関車電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数では史上最大を記録している(2019年現在もこの記録は破られていない)。なお、前記の両数は「国鉄に所属したもの」であり、戦前に日本領であった台湾総督府鉄道向けや戦後にソ連のサハリン州鉄道や台湾鉄路管理局向け、国連軍向けに輸出されたものをも含めると1,184両になる。

但し、戦時下であった増備途中に海南島への軍供出車5両があるため、1115両が同時に国鉄籍を持っていたわけではない。


 「デゴイチ」(「デイチ」の方が正しいという説もあるが、どちらが先に普及したかについては諸説ある。現在はデゴイチの呼び名が主流)の愛称は有名で、日本の蒸気機関車の代名詞にもなった。


構造

 設計の基本となったのは、同じく軸配置2-8-2(1D1=ミカド)のテンダー式機関車であるD50形である。

 三缶胴構成の燃焼室を持たない広火室構造のストレートボイラーを搭載し、棒台枠を採用するなどの基本設計は共通であるが、ボイラー使用圧力(缶圧)の14kg/cm²から15kg/cm²への引き上げなど(但し製造当初は14kg/c㎡)細かな改良により、牽引力の若干の増大を図っている。


 また、リベット接合部を電気溶接で置き換えるなど、構造の見直しを行って軸重の軽減と全長の短縮を実現したことで、地方線区での貨物輸送にも十分対応できる設計となった。

これに加えて保守面の改善と先台車の改良も行われ、電気溶接の全面的な採用や動輪輪芯の箱型化など、形態的には同時期設計のC57形との共通点が多い。


 グループとしては国鉄機に限っても「ナメクジ」と通称される初期型(島秀雄設計:1~85と90~100)、荷重配分を是正した「標準型」または「量産型」(いわゆる「半戦時型」も含め86~90と101~954(後述の編入車両含む)、段階的に取り入れられていた戦時代用工法を全面的に取り入れた「戦時型」(1001以降)に大別される。


 この他、編入車・外部向け(台湾・サハリン・韓国)が存在しており、概ね量産型仕様である。


問題点

 設計者である島秀雄の「会心の作」とされる本機だが、蒸気機関車の設計において相反するはずの「高速での出力向上」と「軸重の軽減」という二つの特徴を同時に満たす「万能機」を目指して開発された結果、要素要素がちぐはぐとなり問題も多く出ている。


 まず、登坂時や起動加速時など、最も大きな牽引力が必要とされる時に、特に空転が発生しやすかったことが挙げられる。

 これは缶昇圧によりシリンダ引張力を上げた一方、運用線区拡大を狙って車体を小型化したことで動軸重が小さくなったのが根本的な原因である。付随車両を空転せず引き出せる最大の重量(=粘着牽引力)が軸重で決まる以上、それが軽くなれば空転が増えるのは言うまでもない。つまるところ高い缶圧は勾配の低速運転において無駄を増やす結果となってしまったのである。

 ちなみにこの高缶圧は、給気の締め切り率を上げても牽引力を維持できるために蒸気消費量、つまり燃費に良いので、そこは国情に適っているのだが、ここにも上述したちぐはぐな要素ゆえの問題がある。給気の締め切り率を上げる運転は主に高速時に行われるのであるが、D51の給排気を制御する弁装置はショートラップ・ショートトラベルと分類される物で、端的に言ってしまえば高速走行には適していないモノである。そう考えると、機関助士が苦労して維持する高い缶圧は走り装置の面では無駄と言い切ってしまっても良いのかもしれない(熱機関として考えればそこまで酷評される思想でも無いが)。もっとも、国鉄機にはそもそもロングラップ・ロングトラベル弁の機体は絶無であり、これはD51というよりも、部品・設計の共通化を優先しこれでよしとした工作局の判断の問題だったといえる。


 これに加え、各動軸ごとの軸重配分が適切でなかったこともこの形式の場合大きな問題となった。火室下に従輪を持つ車軸配置ミカドの機関車は、牽引力を発揮している間、前の動輪から後ろの動輪へ、一番後ろの第四動輪からは従輪に軸重が逃げるため、前述した粘着牽引力が低下する特徴があるのだが、この形式の場合は後述の事情もあってか、よりによって一番後方の第四動輪が最も軸重を負担している(※標準型について。初期型は第二動輪も第四動輪と同じ14.3t、平均+0.3t)。

 つまり、前向きに牽引しようにも第四動輪から従輪に軸重が抜けて空転が多発し、その牽引力を最大限活かそうとすれば後向きで運用するしかない構造となってしまったのである。

この上さらに第一動輪の軸重が最も軽くなってしまったために、起動時においても空転が多発。特に初期型においてこの傾向が顕著(第一動輪と第四動輪での軸重の差は1.13t)であり、後述する設計変更を余儀なくされることとなった。なお、前形式となるD50の軸重は第一動輪は重い反面第四動輪が軽く、全体の重量配分の中心も第三~第四動輪の間やや第三動輪寄りにあったため、起動時に荷重が後ろに移動しても第四動輪の軸重を増やすことで空転が生じにくい形にできているが、これはなにもD50の設計が優秀だったとかそういう事ではない。火室が動輪後方に来るレイアウトの機関車は必然的にボイラ搭載位置が後ろ寄りになる以上、構造上の工夫(蒸気ドームや砂箱、空気圧縮機、吸水温め機、その他諸々の周辺機器・補機類の搭載位置、他に缶内部構造の変更等)で重心を前にずらす努力が行われる物で、第四動輪の軸重が最も重いままのD51がおかしいのである。

 D51一族生涯の大きな使用目的の一つである幹線での重量貨物列車牽引においてこの弱点はあまりに大きな影を落とし、特に高速運転ができない勾配線や、引き出しの段階ではむしろ設計の基本となったD50形の方が有利となってしまった(重量貨物牽引に必要な粘着牽引力についてD51のほうが低い以上、当然と言えば当然ではある)。

 そして重量貨物が通る線区の殆どは難所を抱えながらも亜幹線以上の許容軸重が大きな線で、D50の軸重でも全く問題は無かった。ただし、D50の運用されていた線区にD51が進出したのは戦時量産の結果によるところが大きく、本来D50とD51の用途は被らないはずであった。

 さてこの弱点を抱えたまま運用どころか量産に入ってしまったD51は、遅まきながら量産開始後に機器配置の変更を始めとした軸重配分の調整が行われた(初期型の100両ほどと一般によく知られる標準型では外見が異なるが、こうした改良が原因である)。しかしあまり改善しないどころか、一部の面では逆に悪化してしまった。ここで改良の前後における軸重配分を比較してみよう。

第一動輪第二動輪第三動輪第四動輪
改良前(~100号機)13.17t14.30t14.23t14.30t
改良後(101号機~)14.23t14.27t14.52t14.63t

 おわかりいただけただろうか。第一動輪が軽すぎるにせよ一応一般的な軸重配分からそこまで外れておらず、地方線区で使える利点があるとして採用されたのだろう印象を受ける改良前と比べ、軸重配分の是正が行われたはずの101号機以降は、差を縮めた反面、前から順調に増えていっている。起動時の問題は多少軽減された反面、牽引時を考えた場合の配分はむしろ悪化しており、単純な動輪上重量を増やして空転を抑える形となったのである。ちなみに後の缶昇圧以降、この後ろ向き軸重配分はそのままに従輪の軸重が減ったことで動輪の軸重はさらに増加しており、単純な粘着重量増加で対処されたらしい。要するに線路への負担が増えてしまったことになるわけで、とどのつまり保線係泣かせである。

 こうした軸重にまつわる試行錯誤のエピソードは初期型・標準型ともこの形式では事欠かず、中には「軸重可変装置」なるギミックを仕込む魔改造を施され山岳区間に対応した車両や、戦時体制による輸送量増強に対応すべく牽引力の増強を狙ってボイラー圧力を上昇(14kg/cm²→15kg/cm²)させ、その対応としてコンクリートを死重として搭載したことで結果的に軸重配分が是正された車両などもあったという。

 こうした欠点から、主要幹線における勾配区間の担当機関区からは疎まれており(トンネル部の急勾配など悪条件が重なれば、こうしたD51の欠点は空転立ち往生からの窒息など乗務員自身の生命に関わる重大事故の原因にもなりかねず、単なる好き嫌いというわけでもない)、引き渡されて半年〜2年ほどでよその区へ出しD50を受け入れ直すといった、受け取り拒否に近い対応をされている(そうした機関区が戦後渋々D51を受け入れた際の対策なのか、D51に片側3本ある砂撒き管のうち1本は本来バック用の筈だったが、念入りな空転対策として全て前進用に向きを変えた機体が、山岳路線を多く抱える中部地方の機関区を中心に相当数見受けられた)。


 次なる問題点として、車体前部の構造上の問題が挙げられる。D50では前のオーバーハングが長めで曲線通過時にやや難があり脱線することが多く、先車台と炭水車の抵抗力減少を行うも完全ではなかった。さらに、推進・逆行運転時に軽量な2軸貨車を脱線させる原因となっていた。車体の小型化も兼ねた「改良」としてD51では車体前部を縮小したのであるが、結果的にD50と比べてこの部分のメンテナンスが難しくなってしまった。ついでに煙室や煙管が縮小されて重心が後ろに下がった。前述のような軸重配分となった原因の一つであろう。

C11のような緩衝器・首振り機構のついた連結器にすればD50の寸法を採っても実質的なオーバーハングは縮小可能であったうえ、そもそも上述の難所を抱える線区ではそうした運転をする場面自体が少なかったことから、この設計変更の必要性自体に疑問を呈する考察も見られる。とはいえ上述の形で脱線事故を頻発させていたD50の設計にまつわる嘆きの声は保線係や経理担当の間に少なからず存在しており、無意味でなかったことは確かである。


 他に問題点として挙がるのが、全国的な運用を狙って車体長を短くした結果、D50と比べて運転台が狭くなってしまい、作業環境や乗り心地があまり好ましいものではなかったとされている事である。ただし、D50の運転台は一見すると広そうだが、外火室が室内に大きく張り出している関係で、実際に作業できる面積は見かけほど差は無く、むしろ火室と運転室の重なりが小さいD51を好む意見も出ていた。この事実を踏まえると、運転室が狭くなったのは、のちのC63の設計に見られるような人間工学を取り入れた設計の結果と見ることもできる(飛行機や戦車に見られるように、小型化の為に必要な切り詰めを行うのは現代では一般的である)。とはいえ大きく変化した作業環境に戸惑う乗務員も少なくなかったようで、「D51の運転台の片隅に置いていた弁当が(D50では問題なかったのに)駄目になってしまった」という逸話も存在している。他方、「弁当などを入れるツールボックスはD50もD51も座席下なので大差なかった」とする元機関士のOBトークも存在し、それどころか「D51やD52に馴れると、D50は広い空間に運転用の機器が散らかって置かれていることもあり、戸惑って落ち着かなかった」とも伝えられており、この辺りは関係者の慣れの問題でもあったようだ。


 なお、半戦時型・戦時型どころかそれ以前の車両も重要部品の工作程度の低い車両が戦後問題になり、徹底した装備改造が行われている(200両超のボイラーの載せ替えも含む)。中には戦時型出自でも好調機として永年重用された機体もある。このほか、ごく一部ナンバープレートのすり替え(要はヤミ車検)をしていたらしい車両が存在する事実が実車廃車後数十年経った21世紀になってから明るみに出た(戦時型であったため、炭水車は本来のものが振替で使われている)。勿論不適切といえば不適切だが、単純に製造年と車検時期だけで状態良好車を状態不良車より先にスクラップにせよ、というこれまた現場軽視の指示がされたことも一因であろう。ボイラーの載せ替えは工作程度こそ高いものに交換されたが、設計自体は元のままのものを作り直しただけである。また一時しのぎでボイラーをたらい回ししたものも多数ある。D5262C62のような燃焼室つきなど性能を抜本的に改善する好機であったが(ドイツ01型などでは実際こうしたタイミングで元と設計の異なる新型ボイラーへの交換改造をして性能を引き上げている)、それは行われなかった。



評価

 初期D50と違い重大な欠陥がなかったこともあり、戦時には既に量産に入っていたラインを拡張する形で大増産された。しかし、戦時最大の需要であった重量列車の輸送には適さず、当初より幹線での重貨物列車牽引のため設計されたD52の製造が本格化した1945年ごろに国内向けの生産は打ち切られた。

 戦後も輸出用に細々と生産されたものの、国内向けはD52共々新規製造を停止させられたうえ機関車そのものが不足した事情もあり、ベースとなったD50が本形式などで置き換えられることはなかった。

戦後になると、D51の扱いに慣れたこともありD50よりも優秀と分かったため、戦前とは逆にD51の配備が要望され、D50はどこも拒むようになっていった。相変わらず初期型(ナメクジ)のD51は低い評価であったが、蒸気の騰がりが悪いD50よりはましであるとされた。

D50とD51は燃焼周り、つまり火床・伝熱面積は概略同じであるが、D50は管板と煙管が溶接されておらず、せっかく加熱した缶水が漏れだすなど、構造に原始的な部分が見受けられ、カタログデータによる机上之論では判明しない差が存在していた。

D50の耐用年齢は台枠やボイラーの状態を見て35年とされており老朽化を理由に拒むわけにいかず、戦後復興が本格化すると貨物需要も増加したため、上記で述べたように機関車そのものが不足するようになる。

本形式によりD50が置き換えられていったのは、電化が進みようやく一定数のD51を捻出する見通しがたった1950年代頃からである。

 無煙化にあたり経済成長の需要増加分のD50については後継がディーゼル機関車、あるいは無煙化で捻出したD51となることが決定されており、この中ではD50を1960年代後半には退役させ、続いてD51も1974年までに順次退役させる予定であった。が、肝心のディーゼル機関車の実用化は遅れに遅れ、結局D50形は高度経済成長期に入っても後継機に恵まれないまま1970年代まで使用され続けており、D51もまた、終生予定通りには行かないまま国鉄無煙化直前の1976年まで稼働することとなった。

1976年?と思われるかもしれない。実は本線での運用終了後もラッセル雪かき車の予備として半月ほど使われており、廃車を前提とした休車に入ったのは1月13日であった。


 また、上述の問題点から、主要幹線の貨物機として見れば、総じてD50形からの実質的な進歩があまりない機関車である、という評価もある。本形式に寄せられる性能面の称賛について、本来、朝倉希一(島秀雄の師匠)に「缶が過大」と評されてまでその設計を通し、以後鉄道省主流派から冷遇を受けたD50形の主任設計者である小河原藤吉が受けるべきもの、という見解があるが、それもやむなしと言えよう(ちなみに当のD50は、登場時に既に大規模電化が計画されており、予定通りに電化されたならば余剰車が早期に出ているはずであった。関東大震災世界恐慌の影響でズルズルと先延ばしになり、約12年の空白を経て新規に貨物用蒸気機関車機の開発に踏み切ることになった事情がある。それを加味すると、D50も、その後登場したいずれの蒸気機関車も、傑作かそうでないかの議論があることすら幸運であるとすら言える)。


 とはいえ、大量生産されるに足る性能を持つ機関車だったこともまた事実である。

 高出力と小曲線通過性能を併せ持つD51は、地方路線の輸送力増強と近代化に大きく貢献した。そして国鉄にそれまでなかった大型万能機となり、全国各地の多くの路線で重量列車の先頭に立って姿を見せ、蒸気機関車の代名詞となった。

 D50が入線できなかった地方の線区では、前任が軸重13.5t程度の輸入機や更に軽い9600だった。D51導入で単純な牽引定数の増加や機器の近代化・標準化が進んだうえ、なにより初めてやってきたまともに使える大型蒸気であったことから、大量の物資を定時に届けることが要求される鉄道輸送において、その力強さは間違いの無い物であった。


 加えて、他形式において戦時下での酷使や無理のある戦時設計ゆえに状態不良で運用を離脱する機関車が戦後に続出していた中、本形式は終戦直後もなお9割以上の車両が運用されていたといわれており、国鉄蒸気の生産水準や運用形態が近代的な体系に追いついたことを証明するマイルストーン的な機体であることは間違いない。経験や技ではなく理屈で物を作れば最初は無駄だらけなものである。

 戦後は連合軍の命令のため国内向けの新規製造こそされなかったものの、大量生産から来る保守部品の潤沢さが幸いして無煙化達成直前まで全国各地の様々な線区でその姿が見られ、貨物輸送はもちろん、入れ替え作業や旅客列車、果てはお召し列車にまで使用されるなど、縁の下の力持ちとも言うべき活躍を見せた。


 引退間際である1970年代のSLブームの際にはメディアへの露出機会も多く、大量生産されたことも相まって「代名詞」「名機」果ては「万能機」「最高傑作」などといったイメージを世間から持たれることとなった。

 上述の問題点を踏まえればこれら世間の行き過ぎた評価は正確ではないのだが、本形式が運転に関わる鉄道員や工場員、そして普通の人々にも非常に親しまれた車両であったことを端的に表している。高い稼働率と生産数の多さで、必要な時に必ず動いてくれていたのは間違いのない事実であり、そうした評価はそれら信頼と実績の賜物とも言えるかもしれない。


 総評すれば、機械としては「最高傑作」の域にこそ全く到達できなかったものの、改軌か建設か、電化か増備か、高速化か高級化か、庶民向けか上層向けか、様々な面で進路定まらない日本の鉄道史の中で、数少ない「標準」としての役割は十分に果たした、日本鉄道史の中での「名機」と言える。



鉄道省向け以外のD51形

 胆振縦貫鉄道(後の国鉄胆振線→廃止)向けに5両製造されたが、同鉄道の戦時買収に伴い鉄道省籍に編入された。内地の鉄道では唯一の鉄道省以外のD51形であった。


 日本窒素向けに1両製造され、海南島に輸送する予定だったが戦況の悪化により輸送できず国鉄が購入し、国鉄D51 1161号機となった。元が外地向けの仕様違い機であり、また戦時中の生産のため早期に状態が悪化し、1960年代前半に廃車となっている。なお、海南島には5両供出されて同社の専用鉄道で使用されていた。


 台湾総督府鉄道向けに32両製造され台湾最大級の貨物機として活躍したが、日本統治時代最後の5両(D51 28~32)は外観は標準型であるが、内実は工作精度の低下で性能と信頼性が低下した「戦時型」同然の代物であり、戦況の悪化により輸送できず一時的に国鉄D51 1162~1166号機として借用、戦後に台湾に輸送され続番に編入された(DT678~682)ものの、これも構造の傷みが早く、応急措置として晩年はボイラ圧を12kgf/c㎡に下げていた。また、戦後台湾鉄路管理局向けに5両製造された(DT683~688)。テンダーが船底型へと変更されているなどの変更点があるが、台湾鉄路管理局では総じてDT650形と称された。比較的日本人が入国しやすくなった1970年代後半までには戦前型を除いて淘汰されており、当時の台湾が戒厳令下で鉄道施設への取材や撮影が厳しく規制されていたためもあって戦時・戦後型の活躍時の記録はかなり少ない。

 南樺太の恵須取(えすとる)鉄道向けに2両製造されたが、樺太に輸送されることなく鉄道省籍に編入された。


 戦後、ソ連向けに30両製造されサハリン(樺太)で使用された。

サハリン向けにはD52の主台枠部品を使っている車両が一部あるが、動輪部分の台枠寸法関係は全く同じであるため(D52の先輪と従輪は車体の大型化に伴いそれぞれ前後へ移動)、実用上全く問題ないばかりか、D51台枠の弱点が第1動輪近くの応力集中であり、D52用はそこを改善したもの(応力集中を避けるための丸みをより大半径に)になっているのでむしろ頑丈だったと思われる。


 朝鮮戦争時に国連軍向けに2両製造。朝鮮戦争後は韓国鉄道庁で使用された。D51形で唯一の標準軌仕様であった。なお、標準軌用に横方向へ広がった図面はこのとき新規に引かれたものではないようで(戦時中に軍が中国方面への供出が可能な、簡単に改軌可能な仕様にせよとの通達が残っており、それを反映したものかD51の正面組み立て図にだけバイパス弁の位置が二重に描かれている)、その図を流用して速成したものと推測される。ただし戦前より当時の朝鮮総督府鉄道で使う機関車の石炭の平均熱量は低めで(朝鮮半島で採掘されていた石炭は低熱量のもので、日本本土が低くとも1kg辺り6000kcal/hに対し九州炭などと混炭(ブレンド)した上で5500kcal/hにとどまる)、燃焼室もないD51の比較的狭い火床で、十分な出力が出たのかは疑わしい。

 日本国内で撮影された竣工時写真では給水温め器も装備し、除煙板がないこと、軌間が広くランボードや端梁がその分広いことのみが差異であったが、現地(プサン)で組み立てられた際にポンプを含め給水温め器一式はあえて取り付けず、終始そのまま運用された。さらに能力に難が出るはずであるが、整備の容易さを狙ったものと考えれば説明はつく(同様の装備の変更はC58の樺太庁鉄道引き継ぎ14両と北海道の炭鉱鉄道向け4両、計18両でも「製造時から省略」という形で行われている)。どのみちマテイなどの戦前(総督府鉄道)引き継ぎ車に比べれば大幅に小型であり、日本内地でいう9600かそれより小型の機関車の位置づけであった可能性がある。


 恵須取向け(国鉄編入)・サハリン向け・韓国(国連軍)向けはいずれも製造時点より密閉式運転台である。他も改造でそうなった機体は戦後の北海道用で多数ある。

元から密閉運転台で製造された車両は、炭水車の前端部もエンジン側と干渉しないよう形状が改められている。結果C58の炭水車のような形状となり、一見切り詰めた場所など無いように見える。他方改造で密閉型となったグループは炭水車の裁ち落とした場所が一目瞭然である上、ドアの分だけ運転台屋根を延長していないため、運転台後部屋根が寸詰まりに見える。


保存機

JR東日本所属の498号機とJR西日本所属の200号機が車籍を持っている。

498号機は1988年に復活し、復活後の最初の営業運転として同年12月23日にオリエント急行上野駅大宮駅間で牽引した。現在では「SL ぐんま みなかみ」「EL&SLぐんま よこかわ」の牽引を中心に、各路線のイベント列車の牽引機として使用されることが多い。

一方200号機は京都府京都市下京区の(梅小路蒸気機関車館→)京都鉄道博物館に保存されており、上記の通り車籍を有する。一時は全般検査を受けていなかったため本線走行ができず、館の展示線での展示運転(SLスチーム号)や新人蒸気機関車運転士の教習訓練車としての使用のみに留まっていた。

しかし2014年10月、JR西日本がD51 200号機の大規模修繕と営業運転の復活を発表。

そして2017年11月25日、ついに本線走行を実施した。

2018年以降はC57 1号機とともにSLやまぐち号に使用されている。


台湾でもDT668号機(台湾総督府鉄道D51 18。1941年川崎車輌製)が2011年から動態保存運転がなされている。復元姿は、煙室扉下のカバーに埋め込みテールランプが装備される、カウキャッチャーはそのまま、金線と白線を多用した装飾塗装、赤地のナンバーなど、D51としての姿から外れてはいないがかなり独自の派手目な印象を与えるものとなっている。


ロシア・サハリンではD51-4が1990年代から遊覧列車用に動態保存されているが、各部のロシア仕様への変更により、およそ日本本国のD51とは似ても似つかぬ外観になっている(極めつけは正面の煙室扉の交換)。廃車からの復活で、復元時点でボイラーも相当老朽化していたため、ボイラー圧力は1936年の1次型登場時点(14kgf/c㎡=1.373MPa)より下げた13kgf/c㎡(=1.275MPa=D50と同じ)にされたため、牽引力は相当程度下がっている。1520mm広軌への改築工事が進む同地での今後の動静は不明である。


そのほか、京都鉄道博物館にある1号機など日本各地に静態保存での保存機が多数存在する。



関連イラスト

SLくつろぎ号D51200 SL「やまぐち」号


関連タグ

蒸気機関車 鉄道 国鉄

きかんしゃトーマス:D51がモデルの「ヒロ」が登場する。


9600:本来の配属先の前任

D50:実際の配属先の前任

D52:鉄道省がD50の後任にするはずだった物

DD51:蒸気機関車全ての後継機

8620:D51・9600に次ぐ生産数を誇る傑作機

C61:本形式のボイラーを流用した旅客用機関車

D61D62・D60とほぼ同じ改造メニューで留萌線むけに2軸従台車化したD51。国鉄バークシャーの最後発であり、9600形の置き換えを目的とした。総体の動輪上重量は減ったものの、軸重配分という点ではようやくD50同様に前を重く後ろをやや軽くすることに成功。しかし改造元であるD51に余剰車がほとんどなく、ごく少数の改造にとどまった。

関連記事

親記事

蒸気機関車 じょうききかんしゃ

子記事

兄弟記事

  • 8620 はちろくにいまる
  • C62 しーろくじゅうに
  • C58 しーごじゅうはち
  • もっと見る

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

pixivに投稿された小説 pixivで小説を見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 637779

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました