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D50

でーごじゅうまたはでごまる

D50蒸気機関車は鉄道省が運用した貨物用機関車である。ここではこの機関車から改造されたD60に関しても述べる。
目次 [非表示]

概要

 9600型の後継として1923年から1931年の間に380両が製造された蒸気機関車。製造当初は9900形と称したが、1928年10月称号改定に伴いD50に変更された。

すでに96008620C51で本線用機関車の自製能力を一応持っていた日本の鉄道界であるが、D50はアメリカ流儀を修めた主任設計者の元で設計されたため、多数の構造的特徴を持つ。


構造的特徴など

外観はイギリス形に近いままであるが、台枠がこの形式より本格的に棒台枠になった。

これまでもドイツ製旅客機関車のコピー生産で棒台枠を作ったことはある。

ただし、ドイツ流儀が幅を利かせた日本では極厚の鋼板(90mm厚)を削り出すものを永年模索しており、その時点では製鉄所の生産能力と厚手鋼材を軍用に先に押さえられていたことから、鋳物製つまり鋳鋼棒台枠であった。

海軍軍縮条約の結果、軍艦用で押さえられていた鋼材を入手できた結果、ドイツ流儀の棒台枠を作れたD50はそういう意味では本命の仕様であったが、製鉄所の能力が急に増えたわけではない。

さらにはアメリカや満鉄(日本メーカー製含め)では鋳鋼棒台枠が最初から所定であり、待っている必要すらなかったのである。

最初の22両はドイツ流に近い下バネ式であるが、設計を変えた増備車は上バネ式になった。ただし火室前縁を台枠・動輪にギリギリに寄せた設計のためそのままでは第4動輪のバネと火室が干渉する(1750mm動輪の旅客機と異なり、バネの両端が車輪より外に出るため)。

干渉の解消のために後台枠自体を伸ばし、ボイラーを後にずらしている(後のC50C11のように第4動輪のみ下バネにするか、あるいは明治末期の米国製マレー機のようなバネ自体をイコライザーの様に渡す流儀にすれば済むことである)。

バネの留めかたは上バネ・下バネともドイツ流のダブルナット留めを用いている。

火床面積の大型化のため、軸配置1D1(ミカド)を本格採用したほか、従輪付きゆえ広火室にしても火床を動輪上に置く必要がないため、動輪直径も貨物機としては大型化している(勾配線区では旅客用としても通用した)。


動輪周出力は前級9600の約1.5倍の1280馬力。イギリスの専門誌「Railway Gazette」では日本が自慢しようとしたC51よりむしろ、D50に多大な関心を寄せている。ただし国内の線路事情もあり「スモール・エンジン・ポリシー」を本流としてきた日本国鉄では「大きすぎる」という評が当初は支配的であった。と言うもの本機が登場する3年前に鉄道電化が国家の方針として決定されており、幹線や勾配区間は経済効果を無視して工事に着工することになっていた。関東大震災で工事は延期され、再開しようとした矢先に世界恐慌により延期、後に景気回復で再開とはならず戦時体制に突入したことで軍部の反対を受け延期、と災害に世界情勢の影響で再三に渡り延期となっている。最初の予定では東海道線の電化完了を1928年としていたが現実に1956年に完了と30年近い遅れが出ていた。幸か不幸か、電化により幹線や勾配区間から追いやられることもなく本機の活躍時期も大幅に伸びることになる。


自動連結器への交換(北海道以外の全国、1925年)・空気ブレーキへの移行(1920年代~1930年代)を経て本領を発揮する。

増備の中止は、世界恐慌の煽りで貨物輸送量自体が減ったためである。


「改良型」のD51の登場後も貨物機として全国で活躍したものの、D51と比較して評判は良くなかった。人間工学に基づいていない運転室や蒸気の作りづらさなどが欠点として目立つようになる。特に蒸気の作りにくさは、勾配線などの難所で蒸気の作りが追い付かず登れなくなり立ち往生する危殆があった。それゆえ、D50の受入れを拒まれる場面も珍しくなく、第2次世界大戦中・終戦(敗戦)直後の酷使などもあって老朽化が進んでいたことから、ほとんどが1960年代半ばまでに廃車となった。

ゆえに保存車は北海道北見市と京都市の2両しか存在しない。


同系車

日本国鉄(鉄道省)向けは上述の380両のみであるが、他にこの基本設計を流用した標準軌仕様車が1923年から中国大陸向けで16両製造されている。単なる拡幅のみではなく、ボイラー中心の引き上げと、受注先が私鉄であったことから経営戦略上安い低質炭を使うために火格子面積の拡大などがなされているため、軌間拡幅分以上に重量が増している他、運転台も嵩上げされ印象は異なる。


D60について

第2次世界大戦後の復興輸送が落ち着いてきた時、幹線筋はいいとしても、ローカル線に関しては、9600は老朽化に悩まされ、C58は実は馬力が足りない、と、適切な機関車がない状態だった。

そこで、D51やD52(の改装版)に押され、さりとてまだまだ使えそうなD50を、ローカル線でも使えるように従輪(運転台側の車輪)を1つから2つに増やすなどの改造を施した。こうして生まれたのがD60である。

1951年から1956年にかけて、国鉄長野浜松・土崎(秋田市)の各工場で改造された。


全国の、わりと需要の高いローカル線に投入され、輸送改善に役立ったものの、無煙化(だけならともかくD51に追い出されてしまった線区もあったりする)に加えて寄る年波には勝てず、1974年までには姿を消した。


こちらは山口県山口市内に1両、福岡県内に3両が、それぞれ静態保存されている。元になった機関車より多いぞこれ。


関連項目

蒸気機関車 鉄道 機関車 鉄道省

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