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D62

でぃーろくじゅうにまたはでろくに

国鉄史上最大の貨物用蒸気機関車・D52の改造機。戦時設計改善および軸配置変更が行われ、D51と同等の許容軸重線区向けとなった機関車である。
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登場の経緯編集

戦時型D52の後始末編集

 第2次世界大戦中に世に送り出されたD52形は、増大する貨物輸送量に対応すべく粗製乱造とも言うべき戦時設計の元で大量に生産された(と言っても合計285両、予定でも意図的な空番分を差し引くとおそらく300両程度でD51の1/4ほどである)。しかしながら、戦後は貨物輸送そのものが減少しており、東海道・山陽線などの幹線電化と共にゆくゆくは余っていくことが予想された。

 また、戦時下で製造・整備の技術水準が低下していた(熟練工は軍需工場や軍の整備兵などに徴用されてしまい、学徒動員など、素人同然のスタッフが従事することも普通となる)にもかかわらず、D52はむしろボイラーを昇圧される(※)など、戦時設計下で酷使されていたことから状態不良車も相当数あり、それらの後始末が必要となった。

※ちなみに、なぜこういう試みをしたのか、意図は全く不明である。なおD52は戦時下にて石炭輸送が主な運用の一つとなっており、もしかすると、製造時からの「戦争が終わるまでの数年間さえ使えればよい」との発想の元、少しでも輸送量を上げるため取られた苦肉の策だったのかもしれない。ちなみに、日本領時代の朝鮮総督府鉄道にはD52とほぼ同時期に戦時型機関車「マテニ形」が投入されているが、旅客用だったこちらは安全策として従前よりボイラー圧力を下げ運用された。


詳細はD52の記事にもある通りだが、こうした事情からD52は全製作数285両のうち爆発事故・極端な状態不良を生じた55両が廃車となる一方、残った車両については以下の措置が取られた。

  1. 160両はD52として存続させ、うち148両については本来の性能を発揮できるよう戦時設計を改善する「装備改造」を実施
  2. 50両をC62への改造に回し、ボイラーを転用(C62と比べ1両多いが、これはいわゆる「ニコイチ」、つまり2両分のボイラーを組み合わせて1両分に使ったものがあるため)
  3. 20両については幹線電化を見越し、亜幹線に転用できるよう軸重を軽量化

こうして、3.の要領で改装され誕生したのが、このD62形である。

改造は1950年であるが、会計年度としては1949年度と50年度にまたがっている。

なお軸重軽量化に伴い、機関車本体の車軸配置はD52の1D1(ミカド)から1D2(バークシャー)へ変更されている。


特色編集

「エセ」バークシャー編集

 戦前に構想されていた国鉄の計画蒸気機関車にもこの1D2軸配置を採用したものは存在しており、アメリカにて既に旧式とされていた板台枠形の連接式従台車を使う予定となっていた。そちらは、火床面積が5㎡を超えており、ボイラーを大型化しなくとも高出力を出せるバークシャー蒸気機関車本来の利点に基づいた設計をしたものであった。豪州・ニュージーランドなどの狭軌大型機の2軸従台車採用車も全てこの流れにある。

 対して、日本国鉄で実際に登場したバークシャー蒸気機関車はD62を含めて3種類だが、いずれも改造機だったうえに、多額の費用を必要とする軌道強化を避けるべく幹線で余剰となる大型機関車を亜幹線に使えるよう改造して転用する、という諸外国とは根本的に異なる目的での導入となった。目的が目的のためボイラーの改造は行われず、バークシャーにしてはあまり広くない火床面積となっている。


突如登場した「デルタ式」編集

C62同様、従台車は台車枠がバネ上重量となるデルタ式である。戦前までは従台車部分の主台枠(後台枠)が台車枠に干渉するとして、狭軌ではデルタ式は採用できないものと見られていた。

そんな中で戦後に突如現れたように見えるこのデルタ式だが、実は導入の見通し自体は戦時中、それもD52の製造段階で立っていた。

1943年、汽車会社の技術者から、デルタ式の構成ができない原因は後台枠が広がっているC51以来の国鉄流儀にあり、動輪部分の幅のまま後まで伸ばせば1軸・2軸ともデルタ式を使える、と指摘されてはいた(1軸のものについては設計のみで終わったC63に採用予定だったが、その外形は満鉄パシナのものと類似する)。

しかしその頃D52の設計は既にが殆ど終わっており、実際の製造に着手する寸前という段階であった。

結果、いくら資材の節約になるにしても主要部分を大掛かりにかつ急に設計変更するのは現場が混乱する、という理由で採用されず、D51までと同じくコール式従台車で最終ロットまで一貫して制作された。


従台車のマイナーチェンジ編集

デルタ式2軸従台車装備機は戦後まず、C5759の後継としてハドソン(2C2)のC61C62がそれぞれD5152のボイラーを流用して製作された際に導入された。

D62は三番手で、日本のバークシャーとしては最初の登場である。

C61が登場した1947年からわずか3年しか経っていないが、従台車の部品形式が構造変更により変わっている(LT253→LT254)。

これはC61・62の初期(ほぼ試作)では車入れの際になって(設計時点でチェックしきれず、前に寄せすぎたデザインだったため)従台車の台車枠が第3動輪に干渉しうることが判明し急遽削って修正したことからの改善点で、手直しとして台車枠前側の上下端を下げ、こうした干渉が起きないようにしたものである。ただし外観は鈍重になった。

その後D60・C60・D61の順に同じ設計のものが用いられた。


なおC61以降の全ての機関車で該当することであるが、このデルタ式従台車を使うに当たっては、これまで主台枠側についていた従台車前端のイコライザ支点が従台車側に移り、その前端での左右幅も狭まることからこれまで日本製の国鉄向けコール式従台車では省略されてきた「クロス・イコライザ」(最後軸動輪のイコライザ後端左右を繋ぎ梁で結んでしまう)が使われることになり、機関車の動揺程度が軽減されている。


装備改造編集

このほか、D52と同じく、本来の性能を発揮させるための装備改造も併せて実施された。この際、D5152の戦時型で使われていた主連棒の丸ブシュ(実は戦時型というよりアメリカ流儀である)についても、日本が長く標準にしてきた角ブシュに変更されているなど、少しあとから開始されたD52の装備改造より内容が徹底している。


運用編集

改造・配置が行われた1950年時点では、まだ東海道線も半分ほどは電化されておらず(浜松京都)、D52クラスの必要数が160両ではなく180両の時期であったため、軸重を動輪から前後(先従輪)へは殆ど転嫁していない。D52と全く同等に東海道山陽線で使われた。


再改造と転用編集

その後の電化の進捗にともない、再改造を施して軸重を軽減し、重要幹線ながらまだ許容軸重の引き上げがなされておらず、尚且つ一部非電化だった東北本線へと転用、1959年末頃から長町~盛岡間の貨物列車、一部旅客列車などに使用された。

C62の北海道転用同様、この頃にボイラーの交換が行われている。

荷重の転嫁は、イコライザ支点位置の変更もさることながら、先従台車の板バネ枚数(=バネ圧力)の引き上げも同時に行われている。


この際、D62はメカニカルストーカー(自動給炭機)を持っていることから重油併燃機向け設備(給油機)のない一関機関区が配置先に選ばれた。

動輪軸重はD51と同程度になったものの、それは過剰分を前後に逃しているだけである。

したがってD51より重い軸重の先輪による線路への曲線横圧上昇は避けられず、急曲線部分へのタイプレート挿入など、多少の軌道強化はなされた。


1965年に東北本線が盛岡まで電化されてからも車両不足を補う形でしばらく運用されたものの、約1年後までに運用を離脱、後述の事情もあって他線区に転用されることなく全車両が廃車となった。

国鉄無煙化の流れの中で比較的早期に廃車されたことなどもあり、残念ながら車両の保存はされなかった。


過小評価?大型機関車の見果てぬ夢編集

 国鉄のキャリア組技術陣は長らくドイツ、それも平野の多い首都ベルリン近辺など北ドイツ)に倣い、機関車1両あたりの出力を最低限に設計し足りなければ重連で補うことを良しとする「スモール・エンジン・ポリシー」の考え方を信奉しており、出力に余裕を持たせた設計を是とする「ラージ・エンジン・ポリシー」のもと誕生したD62について、給炭機使用ゆえ手焚きのD51(重油併燃)より1両あたりの石炭消費が増える、として嫌っていた。出力に余裕のある運用ができる以上、C62の製作時試運転の通り(C59の燃費より20%超削減)本来は燃費はD51より良好になるはずのものである。なお、ドイツでも山岳部であるバイエルンなど向けは「ラージ・エンジン・ポリシー」で設計されてきたが、首都ベルリンから遠いせいか日本国鉄技術陣からは等閑に付された。これは鉄道省/国鉄が主要幹線や山岳部などの難所は蒸気機関車を使わず電化する計画を1919年に決定したことも大きく関係している。

 ラージ・エンジンを実現するにはそれに耐える線路が必要であるが、戦前から戦後に至るまで悲惨の一言であった。「ラージ・エンジン・ポリシー」の幕開けをともいえるD50が登場した時は、あまりの大きさに線路の破壊や脱線を頻発させ、軌道強化や設計変更を行ったが十分とは言い難いかった。それでも増備が続けられた理由は、鉄道電化の技術的問題や関東大震災の影響による財政面から、ほかに選択肢がない状況からであった。だが、需要の存在する全区間に投資できるほどの余裕はなく、従来の設備や電化の進展による転用先でも運用可能なD51の登場に至る。D51はD50の縮小というより、前述の線区でも運用可能なギリギリまで大型化させた機関車と言えた。

 戦争の勃発により再び電化計画は延期を余儀なくされ、戦争の落とし子ともいえD62の元となったD52が登場する。戦後は電化計画が再開されることが予想され、D52全機を線路等級の低い線区へも入線可能なD62に改造される可能性もあった。だが、占領政策の一環でまたしても電化は延期。D62への改造は20両でいったん中断された。

 同時期にD50にほぼ同様の改造をしたD60が登場しているが、転用先で軌道への悪影響や異常走行が問題となった。解決には軌道強化が必要となり、1955年の発注分をもって改造は打ち切られてしまう。D62は1959年に一ノ関機関区に集結し、乗員の評価は前述したように上々だった。しかし、軌道強化の費用は決して安くなかった。選択肢がなかった時代はともかく、この時期に蒸気機関車の運用へ多額のリソースを割り当てるのは得策と言えない。このため、蒸気機関車の転用は基本的に軌道の改造が不要な場合のみ行うとして、軸重軽減改造は終わりを迎えた。

 こうして、20両という少数の上、転用先もD52が運用されている線区に限るとなれば、大型かつ軸重が軽いD62では持て余されること必至、一方で中央本線はと言えば、盛岡電化が行われた1965年の時点ですでに 中央東線全線西線瑞浪以西が電化されており、さらに1968年には中津川までの、1973年には全線の電化を予定していた(加えて蒸気機関車の修繕についてもこの頃になると中津川機でさえ長野に移管されており、仕上げこそ非常に丁寧だったものの浜松で行われていたような各使用地に向いた『極限状態向けチューンナップ修繕』はもはや望めなくなっていた)…という状況では、時すでに遅しであったのだろう。

 昭和37年ごろ、一ノ関機関区のD62を補機に使用する計画が上がったが、乗務員から否定的な声が多く断念された経緯がある。決定的だったのは機関車全長がD51よりもD62は1.3mほど長い事であった。編成長が延びることは待避線をオーバーして車止めを突破する危険が跳ね上がることを意味しており、これでは賛同を得られるはずもなかった。

 これに加え、昭和41年より開始される5ヵ年計画(1960年代初頭に立案)では大型機関車を5ヵ年計画前半に全廃することを予定しており、さっさと無煙化することが急務とされ本機どころか蒸気機関車自体を使い続ける気が毛頭無かった。

 D62は予定通り1966年10月19日までに全車廃車となったが、考えられていた無煙化はストライキと職員のモラル低下に伴う国鉄離れを原因とした膨大な累積債務で、ほとんど予定通りには進まず、結局無煙化達成は1976年にまでずれ込むこととなった。

 その中で使い道を早期に絶たれ、無煙化の煽りで新たな使い道を見出されること等もなく予定通りに全廃されてしまったのがD62であり、これはつまるところ、「ラージ・エンジン・ポリシー」等のような歓迎される余地のある発想で機関車を設計したところで、その性能云々でどうこうできるものではない時代の環境によりすべてが決まってしまう状況が、国鉄無煙化が進む中にあって余計に強くなってしまった結果とも言える。その意味で、本形式は時代に翻弄され役割を十全に果たせなかった悲運の機関車と言えるかもしれない。



関連項目編集

国鉄 鉄道 蒸気機関車 D52

D60D61:D62と同じく既存の形式を改造することで登場したバークシャー機関車。前者はD50の、後者はD51の改造である。

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