概要
構造改革とは政治用語の一つである。本来は共産主義(左派・改革派)の用語であるが、日本では、小泉純一郎内閣以降の民営化・規制緩和などの経済政策のことを指すことが多い。
英語ではStructural reformsという。
本来の意味における構造改革
共産主義の政策の立場のひとつ。イタリア共産党のトリアッティにより提唱され、西欧の共産主義運動に大きな影響を与えた。日本の政界においても日本共産党、日本社会党などの政治家が一時主張していたが、最終的には「構造改革」を党指針とする「社会民主連合」のスローガンとなった。
新自由主義における構造改革
バブル崩壊後、「利権勢力の無駄遣いのために不況が起きている」という認識が広まっていたため「バスに乗り遅れるな」的に当初新自由主義が歓迎された。しかし実態としては新自由主義がいう利権勢力とはすなわち一億総中流の構造に安住していた国民であり、富裕層を優遇する路線にすぎなかったと捉えられている。
小泉純一郎が提唱した「聖域なき構造改革」が代表例。中央官庁(霞ヶ関)や地方行政の刷新も行われた。後の「アベノミクス」でもリフレーション政策と組み合わせた形で取り入れられている。
こちらを一般的な構造改革として捉えている人も多く見受けられており、現在でも影響力を持つ。
歴史
前史
日本社会党で主流派と構造改革派が対立し、構造改革派が離脱して「社会民主連合」を結成。
前述の通り構造改革という単語はマルクス主義用語であり、社会民主連合のスローガンとも取られていたため、右派が構造改革という単語を用いることは決してなかった。
55年体制崩壊期
もともと小泉が唱えていた改革構想は、海部俊樹時代から唱えられ始めた政治改革を本格化するということで細川護熙政権ごろから顕著にその片鱗が現れ始めた。
1995年の自民党総裁選挙に小泉純一郎が総裁選に初出馬。郵政三事業の民営化をはじめとする改革、「聖域なき構造改革」を掲げて立候補した。しかし結果は当時影響力のあった経世会(現在の平成研究会)の橋本龍太郎が圧勝によって総裁に選ばれ、小泉は惨敗。橋本は「6つの改革」を公約に掲げて自社さ大連立政権を樹立(著名な官僚に菅直人、のちに自民党総裁選に出馬する梶山静六など、当時の自民党の重役ポストに加藤紘一(幹事長)など)。
この6つの改革は小泉構造改革ほど先鋭化した内容ではないが構造改革と呼ぶに相応しい改革であり、メディアも注目した。しかしそれにもかかわらず当時は橋本行革を構造改革と呼称するメディアは少なく、そもそも当の自民党の公約が「6つの改革」と称した行財政システム改革であったことから構造改革という言葉は出てこなかった。
橋本政権期
1996年に自民党が総理大臣の座を奪還し、橋本内閣成立。橋本内閣は優生保護法改正、普天間飛行場を沖縄県名護市辺野古への移設合意、北朝鮮拉致被害者問題に対する言及、アジア通貨危機の飛び火対策も兼ねて展開した金融ビッグバン構想などの斬新な政策を実行する一方、消費税の増税や保険料の引き上げ、構造改革路線による「小さな政府」政策からなる緊縮財政によって景気が低迷。支持率を下落させ、更に山一證券などの金融機関が続々経営難に陥った末に破綻したことなどの責任を問われた結果先の参院選に惨敗し、橋本は総理総裁を引責辞任した。
小渕・森政権期
小泉はポスト橋本として構造改革路線を引き継ごうとするも今度は積極財政路線の小渕恵三に敗れ、またも失敗する。
小渕の死後小泉の派閥である清和会の森喜朗が首相となったことを機に小泉は次期総理としての立ち位置を我が物にするも、森の失言のフォローやかつての同胞が起こした自民党内部クーデターの対応に追われ、そのポストは決して楽ではなかった。
小泉政権期
2001年の総裁選にて田中真紀子の後押しを受けた小泉が出馬した際に小泉が選挙で圧勝。ここでメディアでも構造改革が改めて強く取り上げられ、小泉構造改革への過度な期待や印象に残るフレーズ・その親しみ深さから支持率は87%にまで向上し、ここで構造改革という言葉が一般化した。
郵政民営化の実現後辞任表明をして結果潔い退陣となった小泉政権だが、強引な郵政改革や衆議院選挙の際に「郵政民営化に反対票を投じた自民党員は公認せず、賛成票や同意した者であれば他党のものであっても自民に入党すれば自民党公認候補としての出馬を許可し刺客候補として擁立する」とした。これは反対勢力であった宏池会や平成研究会(経世会)の弱体化に繋がり、派閥体制を破壊する狙いもあったとされる。
大衆を味方につけたワンフレーズ政治で圧勝するが、このことがきっかけでキャラクター人気で投票する層や、新自由主義と国家主義をミックスした保守としても革新としても極端な主張をする支持者を多く招き入れる結果となってしまい、党の基盤は一気に脆弱になる。
第一次安倍・福田・麻生政権期
更にはポスト小泉となったのは候補者だった「麻垣康三」の中でも右派色・保守色の強い「三」(安倍晋三)であり、第二次も同様だが経済にそれほど比重を置かないタイプで、早々に公認を取り消された勢力を呼び戻す。とりあえず小泉構造改革を引き継ぎながら憲法改正議論を展開しようとするも「消えた年金」問題で失敗。教育基本法改正のみに留まり、憲法改正実現には程遠い他、当時「小泉チルドレン」としてチヤホヤされていた自民党閣僚の相次ぐスキャンダルや年金問題、構造改革による格差社会拡大などが指摘され、極限まで小さな政府を目指す小泉・竹中路線の継承に対し不満を持つ勢力が増えていた挙句、最終的に安倍は持病の悪化を事由に辞任した。
その頃、長年囁かれてきたサブプライム・ローン問題が火を吹いてリーマンショックが発生し、自民党支持率も低下。後任は小泉・安倍同様清和会の「康」(福田康夫)となったが、こちらも安倍時代ほどではないが党内基盤は不安定のまま辞任。「麻」(麻生太郎)が総理となるも政権交代ムード一色となっており構造改革どころではなくなって自民党そのものが失墜する。
民主党政権期
政権交代で民主党が与党第一党となった。かつて小沢一郎はかつて右寄りの新自由主義者と言われていた時期があり、小沢一郎の腹心鳩山由紀夫も、小泉政権の郵政民営化にこそ賛成はせず、思想的には左派の立場をとったものの、日本の構造の改革それ自体には肯定的という側面を持っていた。小泉改革の負の側面が噴出して辟易していた国民は、左からの構造改革を実現してくれるのではと国民の期待も高まった。
実際鳩山はその期待に応えるかの如く消費税増税議論をしないこと、地方分権を広め、当時反対意見が多く出ていた八ツ場ダム建設の取りやめ、貿易の自由化などを掲げて内閣を組閣した。しかしこれらの公約を達成することはできず、普天間飛行場問題で政治生命を絶たれる。
その後は構造改革にそこまで肯定的ではない菅直人が総理となるが(皮肉なことに社会民主連合出身である)、2010年参院選の際に勝てる選挙の直前に消費増税の議論を推進してしまったことで自滅。国会はねじれ状態となる。東日本大震災を経て野田佳彦が後を引き継ぐが衆院選で大敗した。
第二次安倍政権期
その後第二次安倍政権は構造改革路線から離れ「アベノミクス」で積極財政を実施し一定の成果を収める。しかしその経済政策の上で「トリクルダウン理論」など構造改革的な側面を一部を踏襲していたため批判材料となった。
一方、2000年代の構造改革路線を支持する層は日本維新の会が受け皿となった。ただし日本維新の会も反東京一極集中、ベーシックインカムを掲げるなど若干修正をしている。
もっともこの時期は安保・歴史・外交といった分野が重視されたため経済論はあまりされなかった。
コロナ期
コロナウイルス流行によって華々しい東京オリンピック開幕という予定が崩れ、デジタル化改革も満足にいかず、ミサイルは飛んでくるわ「新しい戦前」とかいわれるわな状況で「あれこれ改革して問題が解決するような、もはやそんな甘っちょろい段階ではない」というところ。
結果として「経済大国・日本」という構造は確かに解体されたといえる。
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氷河期世代 未来を担う若者のために構造改革が必要という触れ込みだったが、一番損することになった。