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概要編集

2000年11月に自民党の加藤紘一が森喜朗内閣の倒閣を企てた騒動。詳細はWikipediaを参照


野党提出の内閣不信任決議案に同調して内閣を倒すという政党人としての倫理に欠けるとされる行動は党内の反発を招き、加藤派の議員も切り崩しを受け失敗に終わる。1993年の宮沢内閣不信任案に賛成した羽田派とは違い、離党は否定する中途半端な覚悟が仇となった面がある。谷垣禎一「加藤先生は大将なんだから! 独りで突撃なんてダメですよ! 」


山崎拓は乱を主導した加藤の陰で黒子役に徹したが、派閥を固め、切り崩しを退けたことで評価を高めた。


野中広務は政策・信条において加藤と近かったが、幹事長として森政権の側に立ち、加藤派の切り崩しに大いに手腕を発揮。乱の鎮圧後は古賀誠を後継の幹事長として指名し影響力を増大させた。しかし、加藤、山崎を潰したことは、小泉政権の誕生に少なからぬ影響を及ぼした。小泉政権下では抵抗勢力の代表格と目され、野中と平成研は影響力を失っていく。


小泉純一郎はYKKに与せず、清和会(森派)会長として乱を鎮圧した。翌年の自民党総裁選挙で総裁に選出され総理大臣に就任、山崎拓を幹事長に起用した。加藤紘一は政治資金問題で離党、議員辞職したが、2003年の衆議院議員選挙に無所属で当選すると追加公認し、復党させた。


内閣不信任案反対演説では松浪健四郎議員がヤジる野党議員席へ向かってコップの水を投げつける蛮行に走った。


古賀誠ら加藤派から切り崩された議員は堀内派を立ち上げた。


その他の用法編集

いわゆる加藤という苗字の人物の反乱行為も加藤の乱と呼ばれることがある。


有名なのが2019年に吉本の騒動を受け事務所に突撃した加藤浩次の反乱など。メイン画像もその用法に近いものである。


関連タグ編集

自民党 内乱


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