古賀誠
こがまこと
- 日本の『政治家』。 ⇒ 本項で解説
- 日本の『アニメーター』。 ⇒ 古賀誠(アニメーター)
大東亜戦争に出征した父を、数えで4歳の時にレイテ沖海戦で亡くした。
戦没者未亡人として、毎年暮れに地元の代議士宛に公務扶助料増額陳情の葉書を出す母の姿を見て、自分が政治家になれば「おふくろを楽にさせることができるな」と政治家を志す。
中学や高校のときは番長で鳴らしていたという。
日本大学商学部卒業。
その時に「三十年計画」というのを描いた。
最初の10年は地盤作り、次の10年は中央政治に自分の考えを反映できる政治家になること、最後の10年は地元と中央で築いたものを結集して、いかに自分の理念や哲学を国や地域に生かせるかという集大成とした。
平成8年に運輸大臣就任。
平成10年、自民党衆議院国会対策委員長に就任。
平成12年、自民党幹事長に就任。
平成13年以降の小泉純一郎政権下では、小泉首相の掲げる構造改革への、いわゆる「抵抗勢力」の中心であった。他方、小泉側も古賀に度々財務大臣や外務大臣での入閣を打診したと報じられ、古賀の取り込みに腐心していた時期もあった。
野中広務とは所属派閥は異なるが政策面での共通点から野中の後継者とみなされた。「大物政治家」として、つねにその動向が注目されたが、「弱者や地方へのまなざしを忘れない真の保守政治家」と高い評価を受ける一方で、マスコミからは「地元第一の利権政治家」「陰の実力者」と叩かれることもしばしばであった。
その実態として九州新幹線と鹿児島本線が乗り入れる筑後船小屋駅は当初の計画では駅設置の予定はなく「古賀誠駅」「誠ステーション」と呼ばれることがある。
平成17年の郵政国会では、亀井静香や綿貫民輔らと法案反対の動きを見せていたが、土壇場の衆議院本会議採決では採決直前に退席し、棄権。その後の第44回衆議院議員総選挙では弁明書を提出し公認候補として党内に残り当選するものの、影響力は低下した。
宏池会(古賀派)、日本遺族会、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会でそれぞれ会長を務める。運輸大臣、党幹事長、選挙対策委員長を歴任。
漫画家の小林よしのりとは構造改革への反対などで意見が一致する部分があり、小泉・竹中の経済・金融政策の根幹にあるグローバル・スタンダードは日本の21世紀には向かず、「日本式=ジャパニーズスタンダード」を考えていかなければならないとした。
日本遺族会の会長としては、国立の戦没者追悼施設を作るという議論に大して「絶対にこれは認められない」と明確に反対の意思を示した。
2012年11月16日衆議院解散後、政界を引退。その後日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』で自民党の推進する憲法96条改正を批判し、話題となった。
引退後も自民党への影響は完全には消えておらず、2014年の第47回衆議院選挙では自身の弟子でもある新開裕司を福岡一区の自民党公認にさせようと画策、一区の現職で麻生太郎の子分である井上貴大との公認争いから双方無所属で出馬する羽目になる保守分裂を招いた。結局この闘いは麻生・井上の勝利となっている。