概要
英語:Ho Chi Minh
ベトナム語:Hồ Chí Minh
漢字:胡志明
1890年5月19日 ~ 1969年9月2日
幼名はグエン・シン・クン。成年後はグエン・タト・タイン。第二次世界大戦まではグエン・アイ・クォック。大戦後にホー・チン・ミン。
都市名についてはホーチミンを参照。
生涯
フランスの植民地になっていたベトナム(仏領インドシナ)の儒学者の子として生まれた。1911年にフランスへ渡航。その後、世界各地を巡って見聞を広め、1913年にイギリスへシェフ見習いとして渡航した時、ロシア革命が発生。1919年にパリで共産党に入り、第一次世界大戦後のパリ講和会議に出席して祖国の人権を訴えた。1923年、ソ連に渡ってコミンテルンのアジア担当委員となった。ベトナム共産党を創立し、民族の解放と独立を第一に望んだ。
第二次大戦が勃発し、大日本帝国が仏印進駐(平和進駐)を開始。実質フランスの植民地からの解放となる。中国にいたホーは統一戦線組織「ベトナム独立同盟会」(通称ベトミン)を組織してその主席に就任し、抗日戦線を指揮した。
一時中国国民党に捕まったが、1945年8月に日本が降伏すると全国一斉蜂起を呼びかけ、「八月革命」を実行。日本の援助でベトナム帝国の独立を宣言していたバオ・ダイ帝が退位してベトナム帝国は滅亡。
ホーは独立宣言を発表し、ベトナム民主共和国が成立し、国家主席に就任。
これに対し仏米英は独立を認めず、対仏交渉と国家運営建設を進めたホーだったが、1946年にフランス軍がベトナム再植民地化を目論んで侵攻し、「インドシナ戦争」が勃発。
粘り強い徹底抗戦のゲリラ戦の末、ディエンビエンフーでの勝利を機にフランス軍を追い出し、ジュネーブ条約締結で独立を勝ち取った。
ホーはベトナム労働党主席に就任し国政に当たったが、側近のレ・ズアンとベトナム統一を巡って対立し、ズアンが内政面、ホーが外交面を司る形となった。
しかし今度はアメリカが介入し、南部の独裁的なベトナム共和国を擁し、1965年には北爆を開始して、ベトナム戦争が本格化。老いたホーには戦争の指揮力はなかったが、国民を励まし続け、1969年に心臓発作により急死した。ベトナム統一の悲願を見ることなく、激動の79年間の人生に幕を閉じた。
1975年に南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、翌年にベトナム社会主義共和国が成立。サイゴンは「ホーチミン市」と改名された。
人物
表舞台に立っていたころの風貌は『人民服をきた仙人』的なイメージがある。
古今東西の共産党指導者や革命による権力者は多くが独裁政治を布く独裁者となり、粛正や汚職、政治腐敗になるのが常だが、ホーは無私の禁欲的性格で、政治の実務は他の共産党の幹部に任せる、共産主義者にしては珍しいタイプの指導者となった。
ホーが権限の集中を避けたことからベトナム共産党は集団指導体制となっている。
遺言では火葬と分骨を望んだが、党中央は多くの人々にホーの姿を見てほしいからという理由で遺体の永久保存を施し、廟に安置した。
その生涯を民族の独立と統一のため注ぎ、また儒学の心得も忘れず、慈愛に満ち飄々とした風貌でその高潔さから、人々からは「ホーおじさん」と呼ばれ親しまれ、アジアのレーニンとも呼ばれた。
公式には生涯独身であったとされるが、一時結婚していた時期があるという説もある。
1950年にソ連を訪れたホーはスターリンと面会し、嬉しさから雑誌にサインを求めたが、人間不信の強いスターリンは後悔して秘密警察に命じて雑誌を回収させた。その後、スターリンは何度もこのことをネタによく嘲笑い、これを聞いたフルシチョフは純粋人間にひどいことをしたとスターリンを非難した。
ホーは何度も市井の人々の様子を確かめるため、自ら変装して市民の生活や市場を垣間見、貧乏な家の人々を助けたと言われる。
また、日本に対して友好的であったらしく、1954年から1958年まで住んでた自宅には、昭和天皇から贈られた人形が置かれている。
戦後直後においても、ホーは片腕であったヴォー・グエン・ザップ将軍をはじめとした同志たちに対し「日本人とは戦うな。彼らを保護せよ」と指示し、現地にいた日本人たちを連合軍から匿っていたと、ボー将軍は証言している。
外部およびベトナム国内の評価は高いが戦争の犠牲となり国を追われたインドシナ難民からは残忍な独裁者と評され、ホー・チ・ミンの像の展示などに抗議活動を行っている。