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釣り野伏

つりのぶせ

釣り野伏とは島津家の必勝戦術で最後の切り札である。
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戦法

島津義久が考案したとされ簡単に言ったら囮を使って敵を包囲した後殲滅する戦法。主に寡兵(兵が少ない状態)の時に使われる。

やり方としては

  1. 兵を3等分し2部隊(伏兵)を一ヶ所忍ばせ、残った1部隊(囮)を敵の前方に配置する。
  2. 囮は敵軍を挑発し、伏兵を忍ばせている場所までおびき寄せる。(釣り)
  3. 敵が3部隊の中心に来たら囮は反転し、伏兵は姿を現す。(野伏)
  4. 包囲殲滅する。

図↓

釣り野伏せ



この戦法は寡兵で大軍に勝つことができる戦法の1つである。しかし発動するのは非常に難しい。特に囮部隊は高い難易度を持っている。
というのも釣り野伏は寡兵でやることが多くかつもとの兵力を3等分するため囮部隊と敵軍には大きな兵力差が生じる。また退却は「敵に背を向けて逃げる」ため全滅に陥りやすく、また敵に感づかれないように「自然な退却」をしなければいけない。そのため熟練した兵士と戦局を冷静に判断でき、兵士との信頼関係が高い指揮官が必要となる。
戦場もいつも伏兵に適した地形というわけではなく、伏兵の潜伏地点まで敵がこないこともありそのような時に迅速に敵軍の側面攻撃をするよう迂回するなど伏兵側にも高い技術が要される。

釣り野伏(もしくは類似例)が使用された例

軍勢

釣り野伏は島津軍の必勝戦術として有名でり、朝鮮出兵の際には数倍の朝鮮連合軍島津義弘が撃退している。
また、永禄11年(1568年)に義弘配下の遠矢良賢・黒木実利がウズラ狩りを装い(この当時はウズラの鳴き声が珍重されていた)、桶平城に籠る伊東勢を伏兵の元へ誘引して討ったことがあり、また翌永禄12年(1569年)に島津家久が大口城に籠る菱刈および相良勢を自ら荷駄隊に化けて誘引し、伏兵の元へ誘い込んで首級136を討っている。これらは確立以前の釣り野伏の原型とも言える。

九州大名が類似した作戦を多く使っており、有名な使用者としては立花道雪高橋紹運がいる。また、紹運の甥の吉弘統幸は「西の関ヶ原」と呼ばれる石垣原の戦いにて結果的には敗北したものの釣り野伏を使いあの天才知将黒田官兵衛に大損害を与えている。

囮を使い敵をおびき寄せた後に包囲殲滅という戦法は世界的に見ればモンゴル帝国チンギス・ハンなどのモンゴル軍が使っていたらしい。

ただし、これらと島津勢との圧倒的な違いは、釣りの役目を大名島津義久の弟たる義弘・家久が担っていた点にある。
当時の戦は総大将を倒しさえすれば終わるものであり、しかも大名の弟を討ったとなれば大殊勲である。当然、敵は常以上に躍起となって追い掛けて来る、それが狙い目であった。
勿論、義弘・家久にはそれだけの胆力が、近似する配下は命を賭しても義弘・家久を断じて討たせないという気概がなければ成功しえないものである。

使われた代表的な戦い

  • 木崎原の戦い・・・元亀3年(1572年)、島津の初期の戦い。島津軍300人が伊東軍3000人を包囲殲滅。この戦い以前から島津軍は伏兵を使った戦術を使っていたがこの戦いでは結果的に釣り野伏が使われた。


  • 耳川の戦い・・・天正6年(1578年)、島津軍20000~30000人が大友宗麟軍30000~40000人に勝利。これの勝利で島津はじっくりと九州南部の足固めが可能となったのみならず、肥後の名和氏・城氏が接近してくるなど、九州中部・北部へと進出する力を得ることになる。

  • 沖田畷の戦い・・・天正12年(1584年)、有馬・島津連合軍6000人が龍造寺隆信軍25000人に湿地などを利用して包囲殲滅。当主である隆信が討ち死にし、島津・大友・龍造寺の九州三国志のバランスが崩壊した。


  • 泗川の戦い・・・慶長3年(1598年)、朝鮮出兵(慶長の役)にて島津義弘軍6000~7000人が数倍とも数十倍ともいわれている明・朝鮮連合軍に大勝。

  • 石垣原の戦い・・・慶長5年(1600年)、大友軍(2000人)の吉弘統幸が釣り野伏で黒田官兵衛軍10000人に大損害を与える。しかし結果的に敗北し、統幸は戦死。

関連タグ

鬼島津 島津義弘 島津家久 島津義久  立花道雪 高橋紹運
戦国時代 戦術 最強 チンギス・ハン

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