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「捨てがまり」とは島津義弘が使用した撤退戦術である。

漢字で「捨て奸」と書くが「奸」を「がまり、がまる」と呼ぶ例は他にないため、独自の方言と思われる。

戦術

本来、撤退戦で最後尾を務める部隊の殿軍(しんがり)は多数で戦い、自軍も撤退しながら敵を迎撃するのが一般的である。

しかし「捨てがまり」の場合は少人数で殿軍を編制、その上で自決降伏もせず全員玉砕するまで戦い続け、全滅後は再び殿軍を編制して繰り返すという玉砕を大前提とした捨て身の戦術である。

戦法としては火縄銃による銃撃で馬上の兵を狙撃した後、刀や槍で敵に突撃。

狙撃方法は普通の鉄砲隊のように立て膝で銃を構えるのではなく、命中率を上げるためあぐらで座り込み銃を構える。

そのため「捨てがまり」は別名「座禅陣」とも呼ばれている。

「捨てがまり」が行えた理由として、島津家がいち早く鉄砲の大量生産に成功していたことが挙げられる。

島津家は種子島を領有しており、いち早く鉄砲が伝来し生産もされていたため鉄砲の数が多く、それに伴い鉄砲隊の実戦経験が豊富だった。

また島津家は他家と異なり、鉄砲を撃つのは足軽ではなく武士が行う。

関ヶ原に参じた島津勢には、留守居である島津義久の出陣許可を得ずに自らの意志で馳せ参じた上下武士が多く(島津豊久庄内の乱の経過報告のため偶々上京していた)被官数人を伴いこそすれ足軽を連れ立っているものは少なかったと考えられる。

故に島津は寡兵ながらも陣内の鉄砲の割合が高く、薩摩隼人の死をも恐れぬ勇猛さと主君との信頼関係もあって、このような捨て身の戦術ができたと言われている。

意外と知られていない事実

「捨てがまり」は関ヶ原の戦いの知名度の高さから「釣り野伏」と並んで島津家特有の戦術として知られているが、実戦で使われたのは関ヶ原での撤退戦、島津の退き口の一度だけである。

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戦国時代 島津義弘 鬼島津 戦術 島津の退き口 関ヶ原の戦い

撤退戦

島津豊久・・・捨てがまりで戦死した義弘の甥。メイン画はドリフターズの豊久。

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