概要
生没年1682年6月17日(グレゴリオ暦6月27日)〜1718年11月30日(グレゴリオ暦12月11日)。
スウェーデン王国の国王。バルト帝国に君臨し、戦好きであり、自ら戦争を指揮した。
生涯
スウェーデン王カール11世とデンマーク=ノルウェー王フレデリク3世の娘ウルリカ・エレオノーラの子として生まれた。国王夫妻には4人の子がいたが、カールのみが成熟した。
幼少期のカールはもっぱら母ウルリカ・エレオノーラから教育を受け、その人格形成に大きな影響を与えた。4歳になると優秀な教師陣がつけられて帝王学を教え込まれ、肉体鍛錬も欠かさず4歳前に乗馬を覚えている。射撃術にも熟達し、11歳の時に熊を一撃で射殺して父王を悦ばせている。
教養面ではラテン語とスウェーデン語・ドイツ語間の翻訳ができたマルチリンガル。一方で父の影響でフランス嫌いになり、外交手段も嫌悪した。ライバルとなるピョートル1世とは対極的である。
10歳の時に母が死去、それから4年足らずのち父王も没し、14歳10ヶ月でスウェーデン王に即位。
若年であったため6人の摂政が配されたが、議会との内紛のために数か月でカール12世に全権が委譲され新政を開始した。
親政後は取り調べにおける拷問を廃止。その治世はイングランドの大使に褒めちぎられるほどだった。
大北方戦争
カールが18歳となった1700年、その機に乗じてロシアのピョートル1世がバルト海進出をもくろみ、スウェーデンに戦いを挑んだ。これが大北方戦争である。
ピョートル1世はポーランド・デンマーク=ノルウェーと北方同盟を結び、スウェーデンを落とすつもりだった。
だが緒戦のナルヴァの戦い(ロシア連合軍3万〜4万VSスウェーデン軍1万)ではスウェーデン軍が劇的な勝利を遂げる。
これはカールの手腕が優れていたというだけでなく、ロシアには悪天候・質の悪い兵・味方の裏切りという悪条件が積み重なっていたためでもある。
これで苦汁をなめたピョートル1世は、再起を誓い兵の近代化に乗り出した。
ナルヴァの勝利のあとポーランドを転戦中であったカール12世は、1707年末、再びその鉾先をロシアに向け軍をウクライナに進めた。その地のコサックの頭目イヴァン・マゼーパと結んでロシアを攻略しようとしたが、補給路を断たれる。
スウェーデン軍は、1708年から翌年にかけての、百年来の寒波に襲われた。この冬の寒さはベネチアの運河も凍ったと言われ、スウェーデン軍の陣営ではウォッカが樽の中で凍り、兵の吐く唾は地面に落ちる前に凍りついた。3000の兵が死に、ほとんどの兵が手足の凍傷に悩んだ。部下は進撃を思い止まらせようとしたが、カール12世は「たとえ天使が天降って余に戻るよう告げたとしても、決して引き返さないであろう」と断言。
ポルタヴァの戦い
1709年、春の洪水期(雪解け)が過ぎるやロシア軍の要塞ポルタヴァを攻撃した。援軍に駆けつけたピョートル1世は「ロシアは亡びるか生き返るかのどちらかである、ロシアが生き返るなら自分の命は問題ではない」と宣言した。
6月27日の早朝4時、スウェーデン軍は機先を制して攻撃を開始した。だが開戦前にロシア軍の盲射によって足を負傷していたカール12世は、24人の兵のかつぐ輿に乗ったが、この中21人がロシア軍の弾丸に倒れ、王自身も三発の至近弾を浴びた。ロシア軍の新式銃と大砲の威力がいかんなく発揮されたからである。
戦闘は午前11時には勝敗が決し、3万のスウェーデン軍の中、8000以上が捕虜となり、カールとマゼーパは1000人の部下とともにドニェプル川をわたり、オスマン帝国領へ逃れた。
カールはオスマン帝国のスルタン・アフメト3世(メフメト2世の息子)の保護を受けながら再起を図った。その間、フランスとも提携して、オスマン帝国軍をロシアに向けようとした。オスマン帝国もまた、ロシアの南下を阻止するためスウェーデンと結ぼうとした。
こうして、1710年にオスマン帝国がロシアに宣戦、戦争はロシア=トルコ戦争に転化した(プルートの戦い)。この時はポルタヴァの戦いと違い、ピョートルのロシア軍は戦勝を確信してプルート河畔まで敵陣深く侵攻しすぎたため、オスマン帝国軍に包囲されたが、ピョートルは賄賂をオスマン帝国高官に贈り、講和に持ち込んで危機を脱した。こうしてカール12世の反撃は功を奏しなかった。
5年間トルコに滞在したカールは、1714年冬、意を決してオスマン帝国を離れ、従者一人をつれて騎馬でヨーロッパを縦断、14日間かかってスウェーデンに帰った。再起をかけてノルウェーをデンマークから奪おうとしたカールは1718年、戦況視察中に頭部を打ち抜かれ戦死。
味方から撃たれたのではないかという説が根強かったので、1960年代に遺体を掘り出して調査したところ、前方わずか20mから撃たれたものであることが判明したという。そのため2005年には暗殺説に対する反論も出されており、その死因は未だ謎が多い。
現在ストックホルムのオペラ座裏の公園にあるカール12世の銅像は右手を遠くロシアの空を指している。
人物
- 大の戦好きで知られ、寡黙で性格が激しく、銃撃戦の音を「これぞわが音楽」と言い、その生涯を通じて戦場を駆け抜けた。近代において王が自ら戦争を指揮するのはナポレオンなど、稀な事例である。
- その反面女性関係では奥手であったという。かわいい。
- カール12世はドイツ・オランダ・イギリスの外交に大きな影響を与え、ロシアをはじめとする北ヨーロッパの脅威であり続けたが、その死はスウェーデン王国の覇権の終焉を意味した。
- クラウゼヴィッツはフリードリヒ大王を評価する際、カール12世をその比較対象に挙げ「カール12世は偉大な天才と呼ぶに値しない」と切り捨てた。しかしその一方で「舞台がアジアであればアレクサンドロス大王のような名声を得られただろう」と見なし、ドイツ兵学的見地から「カール12世はナポレオン・ボナパルトの先駆者である」とも評価した。
- 上記の「北方の流星王」というあだ名は日本以外では呼ばれておらず、恐らく日本の伝記で作られたものであると思われる。
- 銀河英雄伝説・ラインハルト・フォン・ローエングラムのモデルの一人であると言われている。
関連タグ
参考
- ウィキペディア
- 世界史の窓