モンゴル帝国の全盛期
13世紀を一言で表すならば、「モンゴルの世紀」であろう。
1206年にチンギス・ハンが興したモンゴル帝国はモンゴル草原から周辺の諸国を次々と滅ぼし、ユーラシア大陸から東欧にまで跨がる大帝国へと成長した。
中国と周辺諸国
モンゴル帝国はチンギス・ハンの時代に西遼や西夏を滅ぼし、後を受けたオゴデイの時代には1234年に金朝を滅ぼした。
1240年に、現在のウクライナ周辺にあったキエフ大公国はモンゴル軍に滅ぼされ、翌1241年には、ポーランドにまで攻め込んだ。(ワールシュタットの戦い)
約500年に渡りイラク近辺を支配していたアッバース朝は、1258年にフレグ率いるモンゴル軍に滅ぼされ、首都バグダッドは壊滅的な被害を受けた。
次第に大きくなっていくモンゴル帝国に南宋は押されて行き、クビライの時代である1279年に南宋は滅亡した。
この頃朝鮮半島を支配していた高麗は、国号を「元(大元)」と改めたモンゴル帝国の属国となった。
日本
この頃の日本は鎌倉時代。天皇政権から武家政権に代わり、時代区分も古代から中世に変わった。
1199年に源頼朝が死んだ後、長男の源頼家が2代目将軍に就いたが1204年に修善寺で暗殺され、後を継いだ弟の源実朝も1219年に鶴岡八幡宮で甥(頼家の息子)の公暁に暗殺され、頼朝の直系はここで断絶した。
1221年に後鳥羽上皇が天皇政権に戻そうと挙兵し、承久の乱を起こしたが鎌倉幕府に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐へ流された。
以後は頼朝の妻、北条政子の家系である北条氏が執権として権力を振るった。
1274年、モンゴル帝国の食指が遂に日本にも伸びてきた。
1274年が「文永の役」、1281年が「弘安の役」、その2回をまとめて「元寇」と呼ぶ。
日本は辛うじて征服を免れたが、戦の爪痕は大きく御家人の不安は高まり、1297年には徳政令を発布するも大した効果は得られず、鎌倉幕府は徐々に衰退して行く。
この頃、仏教にも新しい宗派が次々と生まれていった。
法然が開いた「浄土宗」、その弟子の親鸞が開いた「浄土真宗(一向宗)」、栄西が開いた「臨済宗」、道元が開いた「曹洞宗」、一遍が開いた時宗、そして日蓮が開いた「法華宗(日蓮宗)」である。